運命の荒波に翻弄される人たちへ |  ZEPHYR

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ゼファー 
― the field for the study of astrology and original novels ―
 作家として
 占星術研究家として
 家族を持つ一人の男として
 心の泉から溢れ出るものを書き綴っています。

昨日の記事に関連して、どうしても、もう一つ書いておきたいことがありました。
(昨日の記事には追記を、後で加筆しております)

誰の身にも起きえることなのですが、自分ではコントロールできない出来事は時折やってくることがありますし、そのようなことばかり経験させられると感じている人もいます。

要するに、自分は悪くない、ちゃんと努力している、まじめにやってきた、人のために働いてきた、という状態で、それでもなお、対人関係や仕事などで「どうしてこうなるの?」というような出来事に遭遇してしまう、ということです。

そんな経験を繰り返していると、なにをやっても打開策が見つからない、何をしても自分は受け入れられないという、一種の絶望感や閉塞感の中に迷い込んでしまうこともあります。


正直に申し上げますね。

私は過去、幾度もそのような経験を繰り返し味わってきています。

私は若くして、作家デビューしました。
が、その後は理不尽な出来事の連続でした。

「自分はそんなつもりではなかったのに、どうしてこの人がこんなことになってしまうんだ!」
と、絶望したこともあります(人様が絡んでいるので詳しいことは書けませんが、自分が引き金になって一人の人間が心身共にぼろぼろになってしまった。客観的にはその責任は、私にあるとは言えず、その人本人の責任なのですが、当時の私には耐え難い出来事で、大きなトラウマともなっています)。

ほとんど家族のように親しくしていた人たちから、一転して猛烈な拒絶を受け、放り出されたこともあります。

仕事上でも手のひらを返したように、一転してまともに取り合ってもらえない状況に。

まっとうに元の道(文筆)に立ち直っていきたいのに、それをじゃまする出来事もありました。

死を考えるほどの苦境に追いつめられたこともあります(これも、根本的には自分ではないところに原因があり、それを自分が逃れがたい状況で背負わざるを得なかった)。

思えば、長いそれらの苦闘の果てに、今の自分があるのです。

……というふうに、苦労話がしたいわけではありません(笑)。
ただ、誤解があればそれを解いておきたいのです。

一般的には私は、「恵まれた人間」と認識されているむきもあるからです。

私が苦況に悩んでいたとき、他者から猛烈に嫉妬されたこともあります。彼には私がよほど恵まれた人間に見えたのでしょうが、それは私が自分のことを何も話していなかったからです(彼は私の表面しか見ていなかった)。

そんな人生を生きてきていない。

それどころか、これだけの理不尽な出来事に翻弄され続けている。

実際、これだけのことがあったら、もう自分の人生に先を見いだせなくなる人も、きっといると思うのです。

しかし、私が嫉妬を向けてきたその相手に、何も自分のことを話していなかったのは、まあ、相手が信用できない人間ということもあったのですが、じつは大きな理由があるのです。

過去の出来事のいくつかには、たしかに心の傷になってしまい、容易に立ち直れないようなものもありました。

もし、それにずっと心をとらわれ続けていたら、今の私はなかったでしょう。

「あれもダメだった、これもこうなってしまった、ずっとこうしてきているのに成果が出ない、幸せになれない」

というふうには、私は基本的には考えなかったのです。
だから、自分が特別に不幸な人間だとは、夢にも思っていなかった。

だから、自分の不幸話を相手にあれこれしていなかったのですね。

しかし、自分のことって、意外にちゃんと見えていないものです(笑)。
最近になって、いろんな人の鑑定をしていく中で、いろんな方のいろんな苦労話を聞かされることがありますが。

わりかし、ゆるいんです(笑)。

いや、当人にはもう大変な体験だとはわかっているんですよ。
共感もできます。
それに中には、私なんか比較にならない凄絶な経験を積んでこられた方もいらっしゃいます。

でも、全体的なことを考えると、「これって、一般的な感覚で考えると、いかに私には過去の栄光があるといっても、それ以上、倍返し、三倍返しくらい、ひどい目にあってるんじゃないか。少なくとも普通の人生ではない。見方によっては、不幸な人生ではないか」と判断できるようになってきたのです。

これ、あくまでも客観的判断です。
私個人は自分を不幸だとも思っていないし、これまでの異様に理不尽な出来事の連続に関しても、それに関わった誰も恨んでいないし、自分の不運を嘆いてもいない。

確かに起きたときはショックで、瞬間的には人を憎んだり、「何でうまく行かないんだ」と自分を罵ったりします。
これらは人間感情として、普通にあります。
もし、私がちょっとだけ良い部分を持っているとしたら


過去の出来事にとらわれていないこと


でしょう。
過去のことは過去のこと。

今立っているところから、自分ができることをやっていく。

自分はそれをあきらめることなく続けてきたということです。
今の自分は、そうしてここにあります。

理不尽な運命の荒波の中で、それを否定するのでもなく、逆らうのでもなく、ただ受け入れてきた。受け入れるしかなかったから。

ただ。

そんな私にも、過去の大きな出来事のいくつかは、癒せない傷となって残っています。

今年起きたことなど、過去のそれらに比べれば、まだまだましだし、ゆるい。

しかし、今年の出来事は私のこれまでの過去の理不尽な出来事に、かなり関連しています。どれも似た出来事なのです。
仕事の消滅。人の拒絶。
みな、スケールを小さくした形で起きています。
一つ一つ出来事の中に、私は過去の幻影を見ました。

きっとまだ残っている、その傷を癒して、乗り越えていけ、ということだろうと思っています。

そして、過去とは違った出来事も今年はあった。

天意を受け入れることで、光の中に。

新しいつながりへ。

先日の旅行は、そういったこともはっきりと予感させてくれたものでした。


運命の荒波に翻弄される人たち。

自分ではコントロールできない出来事にうちのめされる人たち。

いつまでも光の見えない人生はありません。

こだわりを捨て、とにかく生きてゆきましょう。

かならず。

かならず。