修行の目的
真理というものは、より多くの人への慈悲と愛の上に成り立っているものです。
また、智慧というものは、人々を生かして、より幸福にしていくためのものです。
『大悟の法』 P.44より
真理の探究を想うに、上記に書いてあるとおり、より多くの人の慈悲と愛を探すことかなと思っています。
その上に成り立っているのですから、神仏の人類への愛の想いを探ることが真理の探究でもあるのかなと思います。
智慧も、人々を生かし、より幸福にしていくものであるならば、人々を不幸にし、人々を生かさないものは、智慧でも何でもないということがいえます。
したり顔でもって、さも智慧があるかのように振る舞い、人の批判をし続けるような人は、やはり、智慧なしといえるでしょう。
その批判は、人を生かすものですか?
その批判は、人を幸福にするものですか?
というチェックが必要でしょう。
その批判は、智慧とは言わないのですよと教えてあげないといけないでしょう。
人を不幸にするものも、智慧と思っている愚かな人たちに。
修行の目的は、より多くの智慧の獲得と考えるなら、より多くの人を幸福にした人が、智慧を持っている人といえるのではないでしょうか?