今日が土曜で近隣住民が自宅に多くいるだろうとか、うちの内壁はそこそこ薄く声が響きやすいなんてことを私はその時忘れてしまった。
目の前の見麗しい人から告げられた出来事は、そのくらいの破壊力を持っていた。
ようやくの思いで出て来た言葉は掠れていて。
タチの悪い冗談か、昨夜企画された罰ゲームかだと、軋む脳内で思いつく。

「う、そ・・・・にしてもタチが悪いですよ?」
「俺はこの状況で嘘がつけつほど、ユーモアに溢れてる男じゃなないよ」
「いえ、でも、そんな・・・・・」

彼の真剣な顔に私の上擦った笑い声が跳ね返されていくようだった。
じゃぁ、どこからきた出来事なんだ・・・・・と、ローテーブルの中心を一点に見つめながら思考を巡らせるが、男女の駆け引きというものに疎い私はなにひとつ現状を打破できる考えを思いつけなかった。
そして、敦賀 蓮という人柄をきちんと知らないでいるからか、彼とお付き合いをしているという事実を鵜呑みにできるような心の広さはなかった。

「・・・・!もがみさん!最上さん!!」

思考の小部屋に入り浸っていた私を救出したのは・・・・・やぱり目の前にいる敦賀さん。
ちょっと困った顔ような顔をして覗き込む彼。
こちら側に戻った意識で、すみませんと声を掛け、少しだけ残した思考の小部屋で、三年前から存在を知っている彼の色々な顔が今日この僅かな時間で見れていることに驚いていた。

春の日差しのような敦賀 蓮。
そう称される彼は、常に穏やかで、常に物静かな印象だった。
子供のような寝顔も、不敵な笑みも、蕩けるような笑みも、困った顔だって、どれを取ってしても会社でお目に掛かったことはない。
プライベートとの切り替えが上手いのかなんなのか。
女心に響くというのはこういう二面性を持っている男性なのだろうと思いついて、高校時代に苦い経験をさせてくれた幼馴染を思い出した。
アイツも切り替えを上手くこなして、たくさんの女性を従えていた。

(ショーちゃんと一緒の人種なのね・・・・・じゃぁ、私とどうのこうのなんて天地がひっくり返ってもないわ)

キラキラと夏の太陽のように光る色合いに髪を染めた幼馴染を、とても好きで、とても愛していた。
高校時代という枷があり、まだその感情の真意に辿り着けていなかったかもしれないが。
当時位の私は、彼を愛して、愛されていると、信じていた。
それが想像の産物であり、そんな感情は生きていく上で何の役にも立たないことを教えてくれたのも、その幼馴染。
愛情は憎しみに変わって、そして風化した。
もう前回思い出したことすらいつなのか覚えていないが、私の成長の中で大きなターニングポイントとなった時期だ。
そんな幼馴染とだぶって見えてしまう、目の前の先輩。
口に広がった苦さは、きっと昨日のお酒には関係のないものだろう。

「敦賀さん。お水、飲んで良いですか?」
「ああ、気付かなくてごめん。昨日買っておいたよ」

勝手に触ってごめんね、と言いながら、一人暮らしにしては少し大きめな冷蔵庫の中からミネラルウォーターを出してくれた。
家主として何も出来ていない罪悪感に襲われるが、まだ腕を上げるのですら億劫なので甘えてしまう。
思った以上に冷えたそれを受け取って、ごくり、ごくり、と飲み下す。
喉を通って胃に収まると、急速に体内に吸収されていくのがわかった。
そしてそれに伴って、靄が晴れていく脳内。
とん、と半分くらいになったペットボトルを置いて、自分の部屋をぐるりと眺める。
昨日の朝出た時と何ら変わらない。
異質なのは敦賀さん。
彼はスーツのパンツに白のシャツ、スーツの上着はきちんとハンガーに掛けられてある。
私が呪文のように唱えていた、私が吐いてしまってどうのこうのは、考えるだけ無駄だったということだ。
もう一度、ローテーブルからペットボトルを奪うように勢い付いて取り上げて、残りの半分を燕下する。
そしてその勢いのまま、私は死ぬ覚悟をした。
どんなに最低な思い出の中の男にだぶって見えようが、彼は先輩なのだ。
その先輩に酔った自分を家まで送らせ、尚且つ一切覚えていないということは、本当に本当に失礼なことなのだ。

「この度、先輩に対してのご無礼、大変申し訳ございません!
僭越ながら、戯れにもこのようなことは、貴方様のご人格を歪めてしまいます。
つきましては私、最上キョーコは敦賀蓮様のお心晴れるよう尽力致す所存でありますので、なんなりとお申し付け下さいませ!!」

この時の土下座は会心の出来だと思う。
そして少しの沈黙の後、部屋に響いたのは敦賀さんの笑い声。
もちろん先程の私のように大きくはないけれど、春の日差しのようなと称されるのは些か騒がしいものだった。
額をビタンと床につけた私に、顔を上げてという声すら笑いに満ちている。
そろりと上げた視線の先にあったのは、ローテーブルに肘をついて面白そうに笑う顔。
まるで悪戯っ子のようなその笑顔に少し嫌な予感がして、的中した。

「じゃぁ、お詫びでも良いから付き合って?」

敦賀様・・・・・・・
お戯れが過ぎますよ・・・・・・・・

遠くに意識を飛ばしそうな私に、敦賀さんは昨夜の出来事を教えてくれた。
どんなに考えても悪い冗談しか思いつかなかった私には、その事実は衝撃的なものだった。