知り合いに日本でも有数の超高級レストランのシェフがいます。
ミシェランでも星がついています。
このレストランは、「一見さんお断り」です。
つまり、はじめて行く人は断られます。
というか、連絡先が公開されていないのです。
誰か、行きつけの人に紹介してもらってはじめて、お店に足を踏み入れることができます。
いちどお店に行くと、ようやく次の予約が自分で取れるようになります。
シェフは、世界の幅広い地域の、何カ国ものレストランで、超一流の名だたるシェフに師事して、多くの経験を積み、夜も寝ないで血のにじむような努力をし、自分の料理のレシピを作り出しました。
日本に帰国して、都内の一等地に開業しましたが、予約は1年待ちです。
海外からたくさんのお客さんが来ています。アジアからヨーロッパ、北米からも来ていて、レストランの会話も多国籍言語になっていました。
シェフと話していて興味深かったのは、シェフに全く面識のない、見知らぬ料理人たちから次のような手紙が届くことです。
「あなたの料理はすばらしいと聞きます。
私もたくさんの人を料理で喜ばせたいので、ぜひ、あなたのレシピをコピーして送ってもらえませんか?
一流のシェフとしてがんばっていきたいのです」
送られてきた封筒の中には、返信用の封筒も、切手も入っていません。
一流の教わり方は、
「私はあなたに弟子入りします。いろいろな仕事をあなたとこなします。
そういう中で、あなたのレシピを学び、自分なりのレシピを創造したいと思います」という姿勢です。
ふだんは他の師匠のもとで仕事をしているくせに、困ったときだけ来る四流とは違うのです。
四流の教わり方は、
「あなたのレシピを1枚コピーしておくってください(切手や封筒もあなた持ちで)。
私はそれを真似して、他の師匠のもとでただそれを再現すればいいんですから」という姿勢です。
四流は、
「私は、スープのレシピは某先生に弟子入りして教わっています。
だから、あなたには、オードブルの作り方で弟子入りしたいです」といいます。
レストランの料理は、コースの最初から最後までハーモニーのように調和しています。
スープは別の先生に、オードブルは別の先生に、と「つまみ食い」のようなことでは上達がないのです。
だいいち、一流の師匠と四流の師匠では、そもそもスープの作り方も違うのです。
料理はハーモニーですから、スープがだめなら、すべてダメになります。
先生のふるまいのすべてから「なねぶ」、つまり「真似して学ぶ」という姿勢が欠かせません。
一流は、一枚のそのレシピの奥に、夜なべして何度も何度も失敗しながら創意工夫してきたオリジナルのシェフの汗と努力、歴史を感じ取ることができます。
そんな価値のあるものをタダで教えてもらえると思っているのはムシがよすぎるとわかっているのです。
シェフのレストランに食べに来るお客は、料理の奥に流れるシェフの歴史や努力を感じる感性があるからこそ、全国、海外からでも来るのです。「何を作って出してもらうか」が重要ではなく、「誰に作ってもらうのか」が意味があるとわかっているのです。
四流は、「タダでもらったレシピを、コピーして送ってもらえれば、かんたんでいいし、手間がかからない」と思っているだけで、レシピの奥にあるシェフの努力に敬意を払う感性がありません。
「目には見えないものを見よう」とする感性、他人の努力に対する「感謝の心」のあるなしが、大きな差なのです。
だから、それに対する対価を払うという視点もないのです。
自分でそのような創意工夫をしたことがないからその真価がわからないのです。
四流が同じレシピで料理を作ることができても、四流には、それをうまくアレンジしたり、バリエーションを加えることはできません。自分で試行錯誤して作り出した過程がないから、応用が利かないのです。
それは、当然、お客さんにもバレます。化けの皮がはがれるのです。
一流は、師匠から考え方を学びます。
四流は、「知識だけコピーしてもらえればいい」「知識をゲットすればいい」としか考えられません。
友人のシェフは、当然、四流は相手にしません。
表層的なものの奥にある、本当に大切なものに気づかない人に教える価値はないと思われてしまうのです。
医療の世界も似ているなあ、と黙って聞いていました。
料理人にとっての「レシピ」は、医師にとっては、検査の「腕」であり、処方箋です。その裏に、医師の経験と血と汗の結晶があるのです。
一流の教わり方をしよう。
一流に弟子入りしよう。
医療法人社団信証会 江田クリニック 院長 江田証