「ご納得いただけましたら、こちらにサインと印鑑をお願い致します」
ペンを持つ手が紙の上で一旦止まってから、ゆっくりと動き出す。
「では、着工は来週の月曜になります。明日からは担当の者が変わりますが、私も伺いますので、また改めて宜しくお願い致します」
「こちらこそ、どうぞよろしくお願いしますね。本当に担当が相葉さんでよかったです。何度もうるさい注文をつけたのに、全部素敵なアイデアにしてくださって感謝してます」
「私の方こそ、たくさん勉強させていただきました」
差し出された手を握り返して深々と頭を下げた。
「契約書って、緊張するのよね。名前、間違えそうになって焦っちゃった」
「そうですね。普段は間違えないのに、間違えないようにしなきゃ!って思うと間違えちゃったりとか、ハンコ押すのもすごくドキドキしたりしますよね」
書類をしまう俺を眺めながらSAKURAさんが首を傾げて微笑む。
「.......まだなにかご不明な点がありましたか?」
「契約のことなら何にもないです。今日は相葉さんはお出かけですか?」
「えっ.......」
櫻井さんと久しぶりに飲みに行こうって約束したのが今日で.......俺、そんなに態度に出てた?
「あ、当たり?じゃあ、あんまり引き止めたら悪いから.......ひとつだけ.......」
「はい。なんでしょう?」
「相葉さんが結婚する時は、指輪のデザインをぜひ私にさせてくださいって、伝えておきたかったんです」
「本当ですか?うわー!嬉しいです!ありがとうございます!って、でも全然そんな相手いないので、だいぶ先になると思いますけど.......」
「そうかなぁ.......近いうちにお願いされそうな気がするけど!」
うふふ、と楽しそうに笑ったSAKURAさんにもう一度深くお辞儀をして事務所を後にした。
「お、相葉くん!お疲れ!あれ?今日は直帰じゃなかったっけ?」
「あ、松本さんも今帰りですか?お疲れ様です。契約書、持ち歩くの心配なんで置きに来ました!」
「あー、じゃあ、俺が預かるよ。部長に見つかったら飲み行くか!って言われるに決まってるから、直帰にしたってことは、何か予定あんだろ?でっかい仕事もやり終えたんだし、さっさと帰れよ」
ほらって手を差し出した松本さんに慌ててカバンの中から封筒を取り出して、お願いしますって頭を下げた。
そうなんだ。
今日は櫻井さんと久しぶりに飲みに行く約束で.......SAKURAさんにも松本さんにもバレてるってことは俺、相当浮かれてるんだろうな.......
いざ待ち合わせ場所に向かうとなったら、なんだか足元がふわふわしているような気がして、一旦足を止めて小さく深呼吸した。
久しぶりのサシ飲みに櫻井さんが指定したのは、あの時と同じ店。
そして今は、あの時と同じように、約束よりも少し早めな時間。
.......あの日、駅前の交差点で信号待ちをしていたら、櫻井さんが地下鉄の駅から出てくるのを見つけたんだよね。
櫻井さんが、こっちを見てくれたら.......
櫻井さんが俺に気がついたら.......
なんて、そんなどうしようもない賭けをして、あと数歩で信号を渡り終わるって時に櫻井さんが俺に気がついてくれて.......
だからって、俺の気持ちを伝えるなんてことは出来なかったけど。
そんなことを思い出したら、今日もあの時と同じ賭けをしてみようかな、なんて思えてくる。
櫻井さんが俺の方を見てくれたら、好きでいてもいいって。
櫻井さんが俺に気がついてくれたら、好きだって伝えてもいいって。
駅前の交差点は、俺の気持ちを知っているかのようにタイミングよく点滅をはじめた。
もし.......もしも.......
本当に櫻井さんがここにいて、信号を渡りきる前に俺に気がついてくれたとしたら.......
.......今度こそ、本当に伝えてもいい.......?
信号待ちの間に馬鹿みたいに何度も何度も視線を往復させたけど、地下鉄から出てくる人や通りの向こうで信号を待つ人の中に見慣れた人影は見つからない。
.......うん、そりゃそうだよね。
そんなに都合よく、ドラマみたいなことが起こるわけないもん。
小さくため息をついて、青信号で動き出した人の波に乗って歩き出した。