昨日は自分の闇日記にふれてしまいました…。
せっかくなので、わたしの母親についても書いてみたいと思います。
自分が悲劇のヒロインになるつもりはなく、おそらく多くの家庭で大なり小なり同じことが起き、悩んでいる人がいるだろうと思うからです。
けっこう長く読んでくださってる方も知らなかったりするかもしれませんが、最初に言っておきますと、わたしの母は自ら命を絶っています。
母は二十代の頃には既に、精神科への通院をしていたようです。
自殺する前の3年ほどは、わたしから見ると鬱病のように映っていましたが、わたしが子どもの頃から長く見ていた限りでは、非定形的、複合的な精神病だったのではないかと思います。
母は薬剤師をしていたのですが、しょっちゅう職場の人とトラブルになり、転職を繰り返していたようです。
それでも、薬剤師というものは需要があるようで、職に困ることはなかったようです。
わたしは一人っ子で、一人っ子にありがちな状態なのかもしれませんが、甘えん坊なところがありました。
子どもの頃は母と密着して育ちました。
子どもの頃のわたしは母について、特異な印象を持ったことはほとんどありません。
ただ、料理が雑で不味くて食べられない、他の子たちの母親が作ってくれたお弁当とは明らかに違うので恥ずかしい思いをしました。
母との葛藤が生まれてきたのは、中学生~高校生の頃だったのではないかと思います。
母に意見を聞こうとすると、母はいつもこのように言いました。
「どっちでも好きにしていいわよ。
でも、○○のほうがいいと思う」
この、後のほうの「○○がいい」という意向は、わたしが幼い頃は単純に受け入れられてきました。
しかし、高校生の頃になってくると、徐々におかしいと思うようになってきました。
母はわたしに選択権を残したようでありながら、実際はそうではありませんでした。
母がわたしに求めるものは既に決定していて、選択肢を残しているようでありながら、母の意向に沿うように誘導されていると気づきはじめました。
これは、普通の反抗期といわれる状況だったのかもしれません。
でも、何かが違っていました。
わたしが母の思うようにいかない選択をすると、母はわたしに言葉の暴力を加えるようになってきました。
「あんたなんか産まなきゃよかった」
「あんたは心のないモンスターだ」
何度言われたかわかりません。
わたしが高校生の頃ぐらいになると、母の病気についても気づき始めました。
ちょっと普通の人ではない、と思いました。
その最もいい例というのが、物がなくなったときの反応でした。
母は自分の物がなくなると憤激し、わたしと父に向って、
「あんたがどっかへやったんでしょ?!」
と罵声を浴びせました。
結局、そのようなことはなく、母がその物を見つけると、
「出てきた」
と謝罪することもなくつぶやく日々でした。
わたしが通っていた高校というのが、いわゆる進学校というもので、大学進学率が100%というようなところでした。
わたしは高校のコースわけでも美術を選択していて、美大に進学したいという希望をどこかで持っていました。
でも、その一方で、自己評価の低いタイプだったので、美大に行けるような力は自分にはないだろうと思っていました。
高校の美術の先生はとても高く評価してくれたので、そのことを母に告げると、
「あんたぐらい描ける子はたくさんいる」
「絵を描いても儲からない」
と美大進学に否定的なことばかり言いました。
そのため、進学先も美術大学を諦めることにしました。
ところが、3年生になってから、
「なんで、あんたは美大受験の準備をしなかったの?
1年のときから予備校に通って準備すれば、受かったかもしれないのに」
とあっさりと言ってのけたのには、正直、動揺を隠せませんでした。
本当にこの人の子どもでいいのか、それぐらいの思いを味わいました。
(母は当時の藝大院卒の美術の先生と交流があったようで、わたしの作品に対する評価も聞いていたと思います)
美大を諦めて勉強ばかりしていたので、成績はかなりの上位で、試験でも絶えず上位5%に入れるぐらいでした。
ある日、100点満点で97点を取り、クラストップになった答案を見せたら、
「あと3点あるじゃない。頑張りなさい」
と言われ、死にたいほどの絶望感を抱きました。
あと3点…。
でも、母に愛されるためには、3点を落とさないようにしなければいけないのです。
わたしはさらに猛勉強をするようになりました。
試験前はほぼ9割得点できる状態だったにも関わらず、1ページ、1行の見落としもないように何度も何度も確認しました。
世界史の先生がとても変わった人で、おそらく大学入試用ではないかと思うのですが、100点てはなく記述式メインで、140点+αという採点方式をしていました。
記述式の部分が良く書けていると、+αの点数がもらえるという採点方式でした。
わたしは参考書も含め、テキストの部分はすべて暗記して試験に臨んでいたので、150点ほどは取れましたが、基本は140点なので、クラストップではなく学年トップになっていました。
先生が模範解答としてわたしの記述を読むのですが、あまりにもテキスト通り丸暗記しているので、周囲が引いてしまうぐらいでした。
すべてがすべて、このような状態でした。
先生からはとても高い評価をされ、そして、いつも母にはけなされて挫けながら生きてきました。
真綿で首を絞めるようにという表現がありますが、そんな生易しい状態ではありませんでした。
もっとずっと激しく、ギリギリと締めつけられていくような地獄でした。
この時期から、わたしは自分がちょっと変調をきたしていることに気づきはじめました。
ものすごく集中して試験勉強をした後、
「また次の試験に備えなきゃ…」
と頭では思うのですが、何をやっても手につかないのです。
「勉強しなきゃいちばんになれない、でもできない…」
そう思いながら自責の念に駆られていきました。
今振り返ると、完全に鬱状態になっていたと思いますが、鬱という概念すら知りませんでした。
どうにか大学に進学できたのは、自分の人生を左右する奇跡でした。
もし浪人などしていたら、そのまま大学に行くこともできず、自暴自棄になって自ら命を絶っていたと思います。
でも、受験を終えた時点で、わたしの心は砕け散ってしまい、新しい学生生活を満喫することもなく、引きこもりがちな生活を送りました。
美大を受け直したいという思いが強くあって、そもそも美大に行けなかったのを母親のせいにしていました。
母が暴言を吐くたびに、うちでは殴り合いの喧嘩になり、よく父が止めに入りました。
「生まれてこなきゃ良かった」
「産まなきゃ良かった」
憤って殴りかかっていても、創造主の言葉は絶対なのでした。
心のどこかでは、母の愛情が欲しいと思っていたのです。
条件つきではない、無償で受け入れてくれる母の愛が欲しかったのです。
大学生の頃、過食症になって1年半ほど苦しみました。
毎日、夜になると冷蔵庫の中のものを食べ散らしては吐きました。
冷蔵庫の中のものだけでは足りないので、コンビニまで走っていって、帰る途中で我慢できずにポテトチップの封を切って、周りの目も顧みずにボリボリと食べて、そして吐いていました。
過食症だった頃は、自分の長い病気の中でもいちばん苦しかった日々です。
学内のカウンセラーの人に、
「吐かないほうが治る」
と言われて吐かないでいたら、体重が70キロ以上になっていました。
周囲の目を気にして、また外に出られなくなり、本当に地獄でした。
そして、食べているときにふと脳裏をよぎったのは、
「食べることで満たされている」
ということでした。
散々裏切られてきた母でしたが、代償として食べて満たされていたのだと思います。
母が亡くなった後の日記を読んでみますと、わたしのことについて、
「自分が通っていた薬科大より偏差値の高い大学に入った。信じられない」
などと書いてあり、あまりにも情けなくて涙が出ました。
母が自分のことを愛していたのか、本当にわからなくなりました。
自分の言葉に従っているうちは愛しもするし、逆らえば憎む、母にとってわたしはそんな存在だったのではないかと思います。
以前、ブログで既婚女性が有名人などについて匿名で書くような掲示板で、既婚女性が鬼女と呼ばれていると書きました。
母にもちょっとそのような傾向がありました。
ネットでスト―キングするというようなことはなかったのですが、近所で仲の悪い人の違法駐車を日時と回数を詳細にメモしていたりしました。
その様を見て、母の粘着質ぶりに娘ながら異様な感じを抱きました。
後にわかったことですが、同僚の腹が立った発言なども、手帳にいちいち書いてありました。
母は一応、フルタイムで働いていたので、他にやることもない主婦の方々が狙った人間の行動を逐一チェックし、匿名サイトで更新するというのは、母にかぶって見えます。
以前、他のサイトのブログで、50代の女性に粘着されたことがあります。
アクセス解析ツールを使っていたので、一人の人間が何人にもなりすましているとわかっているにも関わらず、何人ものアカウントを使って一日に何十件というコメントをしているのを見たら、母を連想したのです。
同じように、狂気、というものを見ていました。
だいぶ長くなったので、そろそろしめます…。
母は自ら命を絶ちました。
マンションの12階から飛び降り自殺をしました。
母は生前は、「綺麗な人」ということで評判の人でした。
そんな母が、最期で顔がぐちゃぐちゃになっている姿を、とても見ることはできないと思いました。
病院で運ばれてからしばらくは母の姿を見ませんでしたが、通夜の晩、母の顔をやっと見ました。
ずいぶんと綺麗な顔をして、眠っているようでした。
額の横にある痣以外は、本当に眠っているようでした。
生前、母は父にも化粧前の姿を見せないぐらい、素顔を見せることに抵抗があったようです。
通夜の晩、母の顔を見て、わたしが最期の死化粧をしました。
憎み続けながらも、最期は母の美しい姿を、周囲の人に見てもらいたかったのです。
母がわたしのことを愛していたのか、それはわかりません。
きっと、愛そうとしたのでしょう。
でも、自らが抱えるコンプレックスがあって、上手くいかなかったのだと思います。
6割の愛情。
4割は欠けていても、6割の愛情を注ぎたくて、きっと母の中でも葛藤があったのではないかと思います。
長くなりました。
読んでくださった方には感謝の気持ちでいっぱいです。