世の中、色々な考えの方が居られます。
理系の学部を卒業し正社員になったが、結婚を機に退職し出産後は派遣で働いている女性の話を聞いた。1日6〜7時間働いているのに正社員とは待遇が違いすぎるし、一番辛いのは頼りにされていないことだと。「期待して欲しい。」彼女が振り絞るように言った言葉が胸に刺さった。お金だけが問題ではない。
— 玉木雄一郎(国民民主党代表) (@tamakiyuichiro) October 2, 2022
「期待」という名の職責を負う事で、賃金が増える事を望むとしても、
人としての価値の上昇を望むとしても、心は充たされないだろう。
「お金だけが問題ではない」と言い、職責を従業員に負わせ、
「ほうら、キミの実力は素晴らしい。実に優れた人材だ。これからも期待して、どんどん仕事を回すよ!」と雇用者が述べた後、
「でも、キミの実力や人間としての価値は金では計れないから、賃金は据え置きです。当にPriceless!」とか言う雇用者は、世の中、多い。
従業員という労働者は雇用主に対して、労働力を金に交換(売却)している存在なので、労働力が、妥当な、価格で売れない取引条件は、その労働者が雇用主から適切な評価を受けていない事を意味する。
それでも、心(自尊心)は充たされている、という仮も知れない。
それの《充たされた心(自尊心)》は【自己欺瞞】と、どう違うのだろうか?
実体(物理的実在)や、それと交換可能な金を一切伴わずに、差違を述べるなら、それは主観的な意味付けに留まり、
客観的な差違を提示する事を意味しない。
労働に対する正当な評価である金が無ければ、《実体、及び、実体への交換手段》の付与の一切が無いので、《自身の心が充たされている》という意識や発言、主張には、客観的に正当化できる論拠を持たない。
当の労働者本人がそう主張する分には、それを他者が云々する事の正当な理由を排除できるが、雇用主が、非雇用者の心の充足を主張する場合、金銭価値を伴わない労働への評価一切は、その主張に関する正当化の論理を持たない事を意味する。
低賃金、物価高、にも係わらず、年金額を物価高騰前の額より減らす、
という政治の現状では、従業員への(過度な)期待は不要です。
従業員への期待は、従業員の仕事や責任の増加を意味します。
賃金の上昇どころか、妥当な賃金も割り当てられていない現状では、従業員への期待は、従業員へのプラスにはなりません。
精々、期待という名の、過剰責任を負わされた事への、自己評価を、その従業員が高めて、自尊心の充足を得られるだけです。
基本として、人一人が、最低限度の生活でき、且つ、貯蓄ができる最低賃金の実現を願う。
扶養家族(配偶者、子、及び、老父母)が、その夫婦に有る場合は、扶養手当で、生活ができる様にすれば妥当なので、扶養手当も、それが可能な額へ引き上げる事が望ましい。
その為には、税制(累進課税制)再構築が必要。
まともな給与を出す仕事が見当たらない場合、自分の納得の行く仕事を選択できる権利を、現実に維持するには、基礎収入(Basic Income)制度が必要です。
低賃金で働く労働者に、職務として、過剰な責任を負わせるのは、勘弁して欲しい。
低賃金の仕事を拒否し、妥当な賃金の仕事を選べる社会を実現し、それを維持するのが、在るべき政治でしょう。
資本主義社会では、必ず富者と貧者とが存在し、両者間に格差が存在します。
それは、コロナ禍中の資本主義社会でも不変であり、必ず富者と貧者とが存在し、両者間に格差が存在します。
格差が生じるのは資本主義社会での必然です。
問題は、格差が固定し、貧者が富者になる道が、永遠に閉ざされ、格差が拡大し続ける制度に、現在の多くの国の税制や社会福祉に関する制度が在る事です。
富者は貧者から多くの、機会を潜在的に奪い続ける仕組みが制度として確立しています。
資本主義で経済運営を行う場合、富者が貧者から機会を先験的に搾取し続ける状態への対価として、貧者の生活を生活苦が生じ無い水準に維持し続ける義務が有る事が、是正された平等の原理だと、私は考えます。
しかし、それは制度として、実行されないだけでなく、そういう考えを持ち、提唱する政治家は極めて稀です。