・難病と二人三脚編~中村幸子物語~GW連載読物(全3回)
こんにちは!
「2歳~6歳さんの好き嫌いが無くなり、しつけも学べる子供料理・お菓子教室」講師の中村幸子です。
大阪生まれ。生年月日は非公開。
大阪心斎橋で「子供料理(お菓子)教室」を主宰。教室とは別途、オリジナル焼菓子「納豆ビスコッティ」を製造・販売している。長い闘病生活から生まれた「お粥スープ」をベースにした「美人粥」を自店カフェ内で提供している。
今回は、中村幸子物語の第1回目をお話しいたします。
中村幸子物語 ①難病と二人三脚編
中村幸子物語 ②リストラと母の介護編
中村幸子物語 ③飲食のプロになる編
少し長くなりますが、私の現在の活動に繋がっているお話ですのでお読みいただけたら嬉しいです。
①難病と二人三脚編
関西の大学の社会学科を卒業後、OLなどを経て体調絶不調の中、
「この病気は一生治りません。
胃腸専門病院の院長先生からの説明を聴きながら、
数か月前には、胃がんで闘病中の父親を亡くしたばかり。
「人間の命というのはかくも儚いものなのか?」
現役バリバリで激務をこなしていた父親が日に日に痩せ衰え、
娘の自分もひょっとしてがんで、
数か月後に・・・、数年後に・・・。30歳前に死ぬのかも
神様から突然「はい、ここまでッ!」と宣告されても、
思い悩んだ末、残りの人生の時間をどう生きるか?
これからは、「
それなら、「いつお迎えがいつ来てもいいゎー」^^
当時、フランス語の勉強に情熱を燃やしていた私は、
それがその時、一番やりたかったことだったのです。
いま、これをやらなかったら後から必ず後悔するのは明らか。
向こうで体調が悪くなったら、すぐに帰国できるようにしておけばいい。母
1年間の一切の費用は、
フランス留学に希望を見出した私は、
一年後、なんと奇跡的に病状が回復したのです。(*^-^*)
フランス留学のことを母親に告げると、案の定猛反対されました。
「またぶり返すかもしれないっていう病気やのに、
母親は、私の決心が変わらないことが分かると、
「自分で働いた貯金でいけるからって、
(はい、その通りです。
ところが、院長先生にフランス行きをお話しすると、
「留学?それもいいかもしれませんねー。
この院長先生のお言葉を母親に告げると、
1年間、異国の地で(フランスの水が合ったのか?)ず~
ラッキー!!
出発前には40キロなかった体重が標準に戻り、目指した「
「このまま大阪に帰っても、この資格だけじゃ先が見えている」
次の資格を目指して母親からの援助を受けながら都合5年余り(
不思議なことにその間、潰瘍性大腸炎の症状はまったく出ず!
”フランス語講師”+αの資格を持って、私は大阪に戻りました。
院長先生に報告に行くと、
「おー、中村さん元気そうですねー!ほう~、
向こうの水が合ったんですねー!それは良かった。^^
しかし、潰瘍性大腸炎の再発・
と激励されました。
それからはフランス語講師として大阪の語学学校で勤務。
ところが、仕事でのストレスからか? 食生活が乱れたからなのか?
院長先生に注意された潰瘍性大腸炎の再発&小康状態の繰り返し。
つごう20数年に渡って苦しんだ難病ではありますが、
「だいぶん良くなってきてますねー、
30歳になる前に死ぬどころか、あれから十数年生きてこられた。
神様から「今日が最期、寿命です!」
そして「一病息災」で、ず~
一方、プライバシー面では私、こう自分に言い聞かせていました。
院長先生からは『この病気があっても結婚はできます。
好きな人と一緒に暮らしたとて、
子供が出来たとしても、
30代の私には「結婚」という選択肢は無く、「
当時、姉の娘たちを自分の娘のように可愛がっていて、
私の性格や病気のことを一番よく理解してた母や姉は、私に「
明石家さんまの口癖で、「生きてるだけで丸儲け」
仕事以外に私が情熱と時間とお金を注いだのが、「
指示された治療薬がのどを通らなくなるような精神的に苦しい時期
救いを求めるように、健康雑誌を数種類毎月購入して、
その中で最も効果があったのが、はり灸・漢方薬と食事療法・ヨガ・太極拳・小食習慣。
とくに、断食中に飲むスープは「命のスープ」
*ちなみにこの「命のスープ」をベースに改良したのが現在お店で提供している「美人粥」です。(*^-^*)
ふだんの食事をもっとよく考えて摂り、この「命のスープ」
こうやってついに私は、20数年続いた闘病生活から(一時的に)
「潰瘍性大腸炎」は今も難病の一つではありますが、
20代で死ぬかもしれない・・・と思い詰めた私はどっこい、
ところが、学生数が極端に減ったという理由から、
勤めていた短大で「
悪いことは重なり、リストラの翌年には母が脳梗塞で倒れるという不幸が・・
中村幸子でした。
最後までお読みいただきまして、ありがとうございました。