ふんわり風船ハート みぶき えみ@月の記憶の声を聴く人

   

月の記憶の声を聴きながら綴る

みぶきえみの世界観🌙

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前のお話

下矢印

 

 

小学生の頃、セキセイインコを飼ってた。

 

「チロ」っていう名前の

ブルーのセキセイインコだった。

 

写真は1枚も残ってない。

 

いつも、私のそばにいて

休日のお昼ごはんの時は

一緒にご飯を食べてた。

 

どんぶりの縁にとまって

ラーメンやうどん、卵をつついてたし

私が食べてるものは

何でも欲しがった。

 

今時だったら

虐待といわれるような与え方。

 

それでもチロは、12歳まで生き

インコとしては長生きな方だった。

 

そんなチロとのお別れがやって来た。

 

学校から帰ると

チロは、冷たくなり、小さな箱に

入れられていた。

 

私は、悲しくて悲しくて

文字通り、「食事ものどを通らない」

状態だった。

 

そんな時に母が言ったことは

 

「生きとるものは死ぬ。

 当たり前のこと。

 泣いても何も変わらん。」

 

みたいな言葉だった。

 

私は、何とかご飯を流し込み

お風呂場やトイレで泣いた。

 

今にして思えば

それは、悲しみを抑圧するという

母の生き方だったのかもしれない。

 

幼い時に父を亡くし

家での居場所をなくし

自分が名付け親だった妹を

19歳で白血病で亡くした。

 

悲しみを抑圧することでしか

生きてこられなかったのかもしれない。

 

それが、母の生き方になったのだろう。

 

母は、祖母(母の実母)が亡くなった時も

涙ひとつ流さなかった。

 

私は、一度も母の涙を見たことがない。

 

子供時代に、喪失を経験した時

家族がどのように接するのかによって

子供の心の成長にも

大きく影響するといわれる。

 

悲しみを分かち合い

喪失と向き合うことで

感じた痛みは

ゆっくりと癒されていく。

 

しかし、悲しみを拒絶され

なかったことにされることで

自分の殻に閉じこもる。

 

どうしていいのかわからず

その後の喪失体験もなかったことにする。

 

つまり、感情を抑圧することで

解決しようとする。

 

母もまた、自分の喪失体験を

受け止めてくれる

家族がいなかったのかもしれない。

 

だけど、当時の私には

そんなことはわからなかった。

 

ただ、チロのことを

誰かと分かち合いたかった。

 

けど、それはいけないことだと思い

自分の心の奥に

閉じこめてしまうことになった。

 

私は、この時が最初の

大きな喪失の体験だと思っていた。

 

喪失体験=亡くなることって

考えていたからだ。

 

けど、私のとっての

最初の喪失体験はそうではなかった。

 

母と一緒に広島に戻ってきたときだ。

 

父との生活が終わり

娘としての揺るがないものを失った。

 

 

その時の想いは

誰にも言うことができずに

心の奥にしまっていた。

 

そして、空を眺めることだけが

癒しになっていた。

 

 

私は、4歳という幼い時に

喪失や悲しみは抑圧するという

選択をしていたのだと気づいた。