【故・藤田友治先生】(古田史学)との繋がりに付いて~ | 「伊万里」(佐賀県)から発信する日本の国語【ヤマト言葉】の始りに付いて!!

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★「日本建国創建史」に於ける【カシマ】(カバラ数価189/佐賀県鹿島の語元)は、Godヤハウェ(数価26)勧請に先立つ社殿(H・IKL数価65が家の語元)を守護する天使(サンダルホン数価280)を示唆する呼称であった!!

★「日本建国創建史」に於ける【カシマ】(カバラ数価189/佐賀県鹿島の語元数価)は、Godヤハウェ(数価26)勧請に先立つ社殿(H・IKL/ハ・イエカル数価65~家の語元文言)を守護する天使(サンダルホン数価280)を示唆する呼称であった!!

 

【故・藤田友治先生】(古田史学)との繋がりに付いて~

その始まり(2000年=平成12年のシドニーオリンピックの年)は、その年に古代史同好会(古代史に親しむサークル【桃風童子】)へ入会し、知り合った笹村氏(匿名)を通じ、【古田史学】の藤田友治先生(AD1993年/『天皇陵を発掘せよ』の著者)が開催されていた古代史研究会に誘われた事(AD2005=平成17年7月)に始まります。それは私がホツマの研究者として藤田先生の研究会で発表する予定だったが、藤田先生はその前に持病の手術をされました。然し、手術の失敗(同年8月27日)で帰らぬ人となられました。その後に藤田友治先生は『天皇陵を発掘せよ』の著者だった事(私は本の著者に神天皇陵の発掘調査をしてほしかった)を12年の歳月を経て初めて私は知りました。又、その先生は【カミヨ・文字】文書に付いても哲学的に研究されていた事を知ったのは先生の死後1年後(2006年12月17日)に「藤田知二・追悼集」が刊行され頃の事でした~。

その後年、東日本大震災(2011年=平成23年3月11日・金曜)を契機(ホツマ=東日本/その復興的エール)としてインターネット接続を申し込み、我が日本の国の創建は、先ず東北南部(ホツマ地域)が、当時(紀元前1世紀終わり頃)としては世界最初の日の出の地域、つまり【床立の国】(日立の意/常陸の当て字は間違いである)だったとして、復興のエールとしてのブログを発信しようと考えました。

その手始めとして、日本書紀に記載が無くホツマツタヱに記載されている天照大神の幼名「ウヒルキ」の【ヱナ】(胞衣=恵那/ゲマトリア55+10=アドナイ数価65)が納められた事に起因する【恵那神社】と、【大御食(おおみけ)神社】(所在地・長野県駒ヶ根市赤穂11475)の由緒書(縁起書)を貰いに知人の笹村氏と車で行きました。その事に付いてはURL(2013年03月12日・火曜/ http//…のブログ )⇒   https://ameblo.jp/erusaremu464/entry-11489058880.html のブログに書いています。

 

【大御食神社】(長野県駒ヶ根市赤穂11475)に行く途中、昼神温泉(長野県下伊那郡阿智村智里昼神)で一泊する折、昼神の語元は阿智彦(思兼命)の妻で天照大神の姉「ヒルコ姫」。つまり、後に言う和歌姫(和歌の発案者)である。と言う事を確めようとホテルの支配人に訊くと阿智村役場の協働活動推進課長「林 茂伸」氏がホテルに来られ資料用いて色々と説明してくれました。然し残念な事に、その課長の話はは全て『日本書紀』(古事記は歴史書ではないので此処では言及しません)に書かれた事に関連する話だった。つまり、本当は此の阿智村付近で【カミヨ文字・文書】に付いて活動されている人たちの話が聞きたかったので残念な思いをしました。

私が【日本語の始り】を究明しようと思ったのは、私(2歳6ヶ月)の家族(4人兄弟)が正月明け早々、伊万里湾岸壁側の炭鉱社宅から夜逃げして叔父の家(佐賀県伊万里市立岩字浦ノ崎・塩浜海岸)に住み始めた、その最初の夏に、叔父の家の直ぐ側の海岸際に咲いた花(家族の誰もが【黄色い花】の呼称を知らなかった)を初めて見て、その美しさに感動した事に始まりました~

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