播海支 | 根多帖別冊 by おしろまん

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おしろまん です。
絵を描いていますので、そちらをメインにしたいのですが、お城の論考を書いたりしており、城関係がやたらと多いブログとなっています。
ブログ内容に即した、皆様の素敵なコメント募集中でございます~

今回のZOOMお城飲み会「諸説あり」、テーマは『河海』

 

たぶん夏ということでこのテーマだったと思うのですが、ボクは全く空気を読まず

慶長期播磨池田家・海の支城 についてお話しさせていただきました。

慶長五年に播磨に入った池田三左衛門は姫路を主城として大改修を行うと同時に平福・赤穂・龍野・高砂・三木・船上と六つの支城を築きます。

このうち平福は出雲街道が美作に抜ける佐用川沿いにある国境の要衝。

三木は別所氏の頃から東播の中心で美嚢川と湯ノ山街道を抑える場所。

龍野は播磨灘から因幡国境戸倉峠に繋がる揖保川と西国街道・出雲街道の結節点。

『明石の近世』(2017明石市)のなかでT先生は

 

「船上は明石川、高砂は加古川、赤穂は千種川といずれも河口の右岸に位置し、川に面して舟入を設けた海城(水城)でした。

これら水城の詳細な構造は不明ですが、山城の利神城(=平福)が石垣などで厳重に固められていたのに対して、概して規模は小さかったようです。」

上記『明石の近世』におけるこれらの城の概略図が下のようになるのですが、赤穂城は本丸が70ⅹ140m 北に馬出状の副郭、更に北に三郭があり東西南北とも350mを測ります。

 

高砂城も主郭部(現在高砂神社)100ⅹ140mを測り、図の堀に囲まれた部分は400x600m

また、この図の元になった図は『近世の高砂(山本徹也著)』(高砂市教育委員会)で、廃城になったあとの高砂の町が描かれているものです。

従って、この海城である高砂城には主郭周りはじめ他に濠があったと考えています。

 

とても「規模が小さかったよう」とはいえないと思います。

船上城に至っては「ひょうごの城紀行」に載る左図とは全く違っています。

船上城の考察はこちらで以前書きました。→リンク

 

あと、これは海城とは関係ないので言及しなかったのですが、池田家の支城って、市川上流の北(たとえば谷城や鶴居城)と、篠山街道沿い(三草山とか滝野社あたり)が抜けている気がするのですよね。