今週の「城飲み諸説あり」テーマ「消失」
事前にアンケートを(淡路叶堂・播磨宇野構・備中南山・摂津松原)摂り、プレゼンを松原城に決めました。
これらの城は開発や治水によってほぼ破壊されてしまっています。
松原城(蒲公英城・道場河原城・草下部城などの別名がある)は、神戸市北区道場町日下部(旧摂津国有馬郡)にあったお城です。
神戸電鉄道場駅のすぐ前の比高25mの独立丘で、「ひょうごの城紀行」のなかで土塁囲みの副数郭のあるカッコイイお城ということで行ってみたかったのですが、民有地だったため立ち入りできず、5年くらい前に発掘がされているという情報を得て行ってきたのです。
で、その年の8月と12月に二度現説が行われ、完全調査の上岡ごと削り取られてしまったようです。
駅近という立地がアダとなり宅地orマンションになるということで今はこの世に存在しておりません。
播磨や摂津有馬郡の城がそうであるように赤松氏により南北朝期の由来を残しますが果たしてどうでしょう。
天正六年、荒木の叛乱に呼応した荒木兵太夫(木下重竪)の守る三田城を攻める織田軍が陣城として利用したといいます。
それを示すように西郭Ⅱの土塁は、1.5mの土塁に更に倍の高さに積み上げた跡が見つかっています。
また、その後廃城となってからも有力者の屋敷地や神社となっていたようで改変が激しく、遺構の破壊や確定が難しくなっています。
たとえばⅠ郭東の虎口Cは、前面に土塁があるようにみえ、外枡形のようにもみえますが、これが後世の攪乱なのか、天正期以前か以降なのかを論じられた形跡がありません。
せめて残ってさえいればこれらの精査ができるものを、影形もなくなっているのでもうどうしようもありません。
この世に破壊されていい遺跡などないのです、と怒りを込めて今回の発表を締めさせていただきました。