フェルデンクライスのレッスンの中で、心と体を区別しないことで学習モードに入りやすくなります。
学習モードをあえて作る必要がある理由と学習モードに入ることを邪魔する交差性動機づけ(cross motivation)を外して、自己イメージが変化することについて話しています。
2008年の12月に私がフェルデンクライス・メソッドに関してインタビューに答えたことから抜粋してみます。
─ユートニー...学習モード OK の状態が、ユートニー。
この一番のポイントは、
このからだの状態が起きているときに、たぶん心はこの状態が起きているということです。
つまり、からだと心っていうのは区別するようなものではない。
両方とも同時に起きるということですね。
フェルデンクライス・メソッドではlearn to learn 学び方を学ぶことができると言われますが、
学習モードになっていると、どうやっているかを理解しやすい状態になります。
このような学習モードっていうのをつくりだすと学習が勝手にスタートするわけです。
学習モードをつくり出す練習と、学習モードが起きるような舞台設定をつくる。
それが私がしているフェルデンクライスのレッスンということです。
そして、その状態自体にたぶん意味があると思います。
それで、そのモード自体を高めていく練習をすることがフェルデンクライスのレッスンということになります。
─そういうような、モードをあえてつくる。・・・となると、あえて作る必要があるというような、カラダの状態っていうのを、私たちはなにかしら、いつも抱えていると考えていいのでしょうか。
たぶん。そういうことですね。
そのひとつの理由には、多くの人には「良くなきゃいけない」っていう強迫的なものがあるのでしょう。
そのような、良くなきゃいけないとか、正しくなきゃいけないっていう事があるときには、その状態(学習モード)ではないことをしているわけです。
たとえば、がんばらなきゃいけないような人が、からだをこういうふうに緊張させていたりします。
そうすると、そういう風な状態に慣れて気づかないでいることがあります。
じゃあ、心理的にはそういうふうな脅迫的なものから離れる必要があるとすると。
それは 難しい事でもあるので・・・
その人の存在全部を賭ける必要があるのだろうし。
つまり、カラダだけでどうにかなるものでもないだろうし、
心だ けでその気分になろうとするのでもないので、
全てを導入するわけです。
そうすると、そういう風なものからちょっと離れていきます。
例えば、イイ人で在らん、というのが、もう大人になるとキャラとして固ま っているので、完全に無くなる事はたぶんないかもしれないけれど、
少なくとも、自分の、“自分という自己のテーブル”の中の、最前面には、たぶん居なくなるだろうと。
場合によってはちょっと出てくるかもしれないけど。
でも、それを、ちょっと後ろ側に動かす事ができるっていうこと自体が、たぶん価値がある。
その状態を保つということで なくても、そこに戻せることができる。
そのことに意味があると思うのです。
インタビューの全文を読みたい方はこちらへ
フェルデンクライス・メソッドの詳しい理論と実践の方法を知りたい方はこちらへ