ふわふわと意識が浮上した。冬だというのに、いくら蒲団の中とはいえ、何故こうも温かいのだろう? キョーコははっきりしない意識の中でそんな事を考えた。


「ん……っ……?」


 寝返りを打とうとした身体が柔らかく拘束される。


「目が覚めた?」


 聴き慣れた、けれどこんなシチュエーションで耳にする筈のない美声に、キョーコの意識は一気に覚醒する。はっと目を瞠ると目の前には綺麗な肌色の壁。思わず添えた掌に感じたのは温かな肌の下のしっかりした撓やかな筋肉。ピクリ、と身体を震わせて、恐る恐る視線を上げると、信じたくなかった存在が視界に入った。キョーコ命名『神々スマイル』が向けられている。


「おはよう、キョーコ」


 朝の挨拶と共に額にちゅっとリップ音を立てて麗しい唇が触れる。大きくて温かな手に顎を掬い上げられて唇にもキスが落とされる。為されるがまま、茫然としているキョーコに、蓮が微かに眉を顰めて強引に唇を割って侵入してくる。舌を絡め取られ、ぴくん、とキョーコの身体が跳ねる。


「ん……んんっ……っ…………はぁ……」


 キスに酔わされてキョーコが応えるまで、蓮は唇を離さなかった。たっぷりと未練を残して放された唇は銀色の糸を引く。そうと気付いてキョーコの頬が染まると、蓮は満足そうに目を細めて笑い、キョーコの肩を抱き寄せた。


「おはよう、キョーコ」


「……おはようございます。敦賀さん」


 キョーコの挨拶を聞いて、柔らかかった蓮の笑顔が硬いモノに変わる。キョーコの心臓が跳ねた。トキメキとは違う。至近距離から突き刺さった光の矢は、間違いなくキョーコの心臓を射抜き、ベッドに縫い止めた。これは、キョーコや社などの、極親しい人間が蓮を怒らせた時特有の反応だと知っている。ならば、今現在、蓮からこの反応を引き出すのは目の前にいる自分だけだと判る。キョーコは慌てて自分の言動を思い出す。さっきまでご機嫌で神々スマイルを浮かべていた蓮が、光の矢を全開で放つ直前、自分は何をした? 何を言った? 朝から濃厚なキスをされて、ぼんやりとして、おはようって挨拶されて、おはようございますって返して……? そういえば、いつものように「最上さん」て呼ばれたんじゃないような? 「キョーコ」って呼ばれた? この男性が「キョーコ」と呼ぶのは夜の帝王の顔をしている時で、こんな爽やかな朝から、あんな色気垂れ流しな表情していたわけじゃないし………。
 キョーコがぐるぐる思考の小箱で回転していると、蓮の長い指がキョーコの鼻を抓んだ。


「ふにゃっ!?」


「可愛い声だけどね。名前で呼んでって言ったろう? 覚えてないの?」


 つい記憶を辿って忽ち真っ赤になった。だってそれはにゃんにゃんしていた最中で、夜の帳に隠れた秘め事で。キョーコが言葉に紡げず思考の中だけで言い募る言葉が聞こえるように、蓮が不敵な笑みを浮かべる。


「昨夜はあんなに呼んでくれたのに」


「お…」


「お?」


「お許し下さい~~! デビューも果たしていないようなペーペーが、大先輩の敦賀様を名前呼びなどと烏滸がましい~~!」


 身を縮ませて言い募るキョーコに、蓮は溜息を吐いた。序でにシーツを巻き付けて逃げようとした華奢な身体を逞しい腕で抱き留めて、腕の中に抱き締める。


「呼んでと言ったのは俺の方なのに、何が烏滸がましいの? 君は忘れっぽいのかな。散々、愛してるって言ったのに。ベッドの中だけのリップ・サービスだとでも思っているの?」


「つ、敦賀…」


「蓮」


「……蓮、さん、はお優しいから、誰にでも……」


「キョーコ」


「……」


 蓮の声に怒りが含まれたような気がして、キョーコは口を噤んだ。他人はキョーコを謙虚だと評価するが、キョーコは単に事実を述べているだけだといつも思う。蓮も社も、キョーコが〝事実”を口にすると、頭からそれを否定する。二人とも優しいからお世辞を言っているのだと、キョーコは受け留めていて、思い上がる事のないように自戒しなければならないと考えている。抱え込まれた腕の中で、懲りずにマイナス思考を繰り返そうとしていたキョーコの耳に、深い溜息が聞こえる。


「随分じゃないか。君は俺を、好きでもない女性に愛を囁く節操なしのプレイボーイだと思っているわけだ?」


「そんなっ……ただ、私なんか…」


「それもいい加減止めようね」


「え?」


「…無意識なの? 君の口癖だよね。〝私なんか”」


 黙り込むキョーコに、蓮は小さく溜息を吐いて、キョーコを抱えたまま身を起こす。後ろ向きに抱え込み、蓮の胸にキョーコの背中が当たる姿勢にした蓮は、自分だけ腕をシーツから出して、シーツの上から改めてキョーコを抱き込み、頭に手を置いた。


「君には、まだ、俺の想いを信じる事は出来ないんだろうね。でもこれだけは覚えておいて。俺の想いを否定する権利は君にはないよ。拒絶する権利はあったけど、君は受け入れてくれた。俺は、デビューして以降、仕事の事しか考えて来なかった。恋したのも、君に対しての想いが初めて、なんだよ」


 言葉を紡ぎながら、蓮はキョーコの旋毛にキスの雨を降らせ続ける。


「君の自己否定は、幼馴染とお母さんが君を否定したからなんだろうね。君が好きになってほしいと願っていた人たちだね。じゃあ、君を好きな人は?」


「私を、好きな人……?」


「琴南さんや、マリアちゃんや社さんや社長も、一番は俺だけど?」


「え……」


「君に向かって『キョーコなんか』と言う人がいるのかい?」


 蓮の言葉に、彼らと出会ってからの言葉がキョーコの脳裏に甦る。奏江とは仲良くなれなかった頃から


『キョーコなんか』とは言われなかった。勝気な美貌の親友は『あんたには負けないわ』とはよく言った。けれど、キョーコを否定する言葉を口にした事はない。マリアは『お姉様。お姉様』と慕ってくれる。『お姉様なんか』と言われた事はない。『お姉様でも』と言われた事ならあるが、それはキョーコを否定する言葉ではない。社や社長は「流石は」という言葉こそ使え、否定する言葉はない。蓮に至っては『私なんか』と口にする度に怒られる始末だ。


「……でも、私は……」


「じゃあ君は、俺が『俺なんか』と自己否定したら、それを肯定するの?」


「! まさかそんな、敦賀さんともあろう……」


「琴南さんが『私なんか』と口にしたら、君はそれを正当な評価と受け取るのかい?」


「そんなっ! モー子さんは美人だし、頭も良いし、照れ屋だけど本当は優しいし! モー子さん自身でもモー子さんを否定なんて……」


「それと同じだよ」


「あ……」


「君が好きな人達でも、君が興味のない人でも、君を好きだと思っている人から見れば、例え君自身でも君を否定されて嬉しいわけないだろう?」


 それでも、キョーコは彼等とは違うのだという意識は消えない。愛されて当然である母親から疎まれた過去こそが、キョーコの自己否定の根底にあるのだから。蓮もそれは気付いている。だが、如何せん、そればかりは他人ではどうする事も出来ない。幼い頃から自分の井戸の水が枯れているとも思わずに汲み続けたキョーコは疲れてしまっているのだ。一番近い隣の井戸を自分のモノと思って汲み上げようとしたら拒絶されたキョーコにしてみれば、それ以上遠くにあった井戸は自分のモノである筈もないと思い込んだ。だからキョーコは、歩き始めても、近付いた井戸から水を汲もうとしない。いつまでも喉を嗄らしているしかないのだ。井戸の持ち主が汲み上げて水を用意して待ち構えていても、それを無視してしまい、自分が無視している事にすら気付かないのだ。だから蓮は強行策に出た。汲み上げた水をキョーコの頭からぶちまけたのだ。蓮の心境としては自分の井戸の中に放り込んで溺れさせてやりたいところだが、それではキョーコの将来を潰してしまいかねない。少しずつでも良い。キョーコが注がれる事を躊躇わなくなるまで注ぎ続けようと思っている。


「今日は10時に社さんがここへ迎えに来てくれる。社長が殺されていた男の身上調査をしてくれたそうだよ。結果を教えてくれるそうだから一緒に聞きに行こう」


「コーン、の……」


「……シャワーを浴びておいで。君はバスルームを使うと良い。俺はトレーニング・ルームにある方を使うから」


 言いながら蓮はキョーコにバスタオルを渡した。そのまま背を向けて寝室を出て行ってしまった蓮を見送ったキョーコが、リビングを抜けてバスルームへ向かおうとして、リビングに昨夜蓮に剥ぎ取られた服を見付ける。慌てて掻き集め、時折泊めて貰う事のあるこの部屋でキョーコが使わせて貰っているゲスト・ルームへ駆け込む。何年か前から、蓮の演技の稽古に付き合って遅くなった時、下宿先に迷惑を掛けない為にという理由で、泊まり込む為にと、ゲスト・ルームに少々の着替えが常備してある。着替えを持ってバス・ルームに駆け込んだキョーコは、急いでシャワーを浴びて出て来ると、朝食の用意をした。キョーコが心配しなければ、蓮は朝食などすぐに抜いてしまうのだ。
 昨日の夕食の後片付けをしながら仕込んでおいた製パン出来る炊飯器の中では、焼き立てパンが湯気を上げている。下拵えをしておいた野菜でスープを作り、温野菜サラダとふわふわのオムレツ、茹でたソーセージを添えた。焼き立てのパンを切り、自宅から持ち込んだ自家製のジャムも添える。簡単な朝食の用意が出来た頃に、着替えを済ませた蓮がリビングに現われた。


「いい匂いだね」


「簡単な物ですけど、敦賀さんは多くても駄目みたいですから」


「……ありがとう」


 ふっと、苦笑して蓮はキョーコが作ってくれた朝食を堪能した。朝食の後片付けを済ませて蓮が淹れたコーヒーを飲んでいた頃、社が顔を出した。





 続く







 時間が進んでない(;^_^A

 っていうか、このシーンって、元の話には入ってなくて、スキビならではの展開です。

 でもね、ここの話、やはり蓮さんに言わせたかったのです。