考えるということ | フラクタルの森 玄明 陰陽学  

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考えるということ 

考えると言っても二つの面がある
考えると言っても、そこには思うということも入っている
頭で考えることと、心で考えるようなものだろう
これは、目標と目的のように似ているものが有るようなものだ


そういうことを色々考えていると浮かび上がってくるのが
このフラクタルの森でいつも使っている図表だ

この「タテ軸の思考」の図表には、七つの要素があるが、大きく分ければ、「世界」の中で「思い」があり、「行い」で構成されている
別の分け方をすれば「悟性」があり「感性」があり「知性」があり「理性」がある

考えるということだけで表現するとすれば、完璧に考えているというならこの図表の中を全部埋める必要が有る
完璧に埋めようとすれば、思想家であり哲学者であり、宗教者であるべきなのだろうが、普段はそうもいかない

少なくても頭で考えると同時に心で思う事が無ければ、本当には考えているとは言えないだろう

 

左脳と右脳、両方を使って考えているかどうかだ
別の図を持ってくるなら次の思考の構造図だ

 

右脳的な考えは心で、左脳的な考えは頭でやっている
現代社会では、頭で考える人ばかりが増え
心で考える事がおろそかにされている
その為に犯罪が増えている

 

心で考えているふりをして同情的で優しくあろうと演じるけれど
それも頭で考えて、その方が好都合だと判断してのことだ
政治家などが典型的で、選挙で票が必要になるためにどうしてもそのような演出になる

要するに頭で考えることと心で考えることがバランスを崩し
国民の利己心に訴え、自身の利己心と合致する政策を選択してしまう
その結果は、神仏の視点からして理想的でないものになってしまうだろう

 

例えば、ベーシックインカムやIR法などがある
神仏の理想からかけ離れ過ぎていることに、なぜ、気が付かないのだろう
それも当然なのかもしれない
今の政治家たちに本当の信仰心は無いのだろう
有ったとしても拝金教などであり、無神論の思想宗教では自分自身が神の席に座っているからだ

分かり易く考えるなら
全ての人々を我が子や孫のようにイメージして、そのような環境を社会に残したいと思えるかどうかだ

知性や理性ばかり、頭で考えてばかりで
悟性や感性で、心で考えることを失っている
そして、悟性の奥にある悟りである宗教的知性が無視されているからだ
それは、真理知識とも言える

色んな宗教(無宗教も含む)に縁のある人に真理知識での話をしたいと思っても議論さえしてくれない傾向がある
要するに「世界」とはどんなところなのか
この知識が空白になると、頭で考えることも、心で考えることも
よって立つところが無くなり、浅薄な考えになってしまうからだ