作品と人間性が同化すると、公募受賞は近い。という話。 | 作家養成塾『遊房』の公式ブログ 「めざせ!公募小説新人賞」門座右京監修

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公募受賞する作品。売れる作品を量産できるプロ作家を養成しています。
誰でもすぐ使えるストーリーの教科書とレシピで3年でプロデビュー。ここではそんなストーリー構築の発想法を紹介。原則的に受講生対象。

こういうことばがあります。

 

ひとりの作家を批評することは容易であるが、その作家の真価を評価することはむずかしい。

 

これは私は作品に対する評価と人間性に対する評価の違いを表したものですが、私はイコールにならないと、塾生諸君は公募で受賞という、第一関門を突破することはできないんじゃないかな、と最近思うのです。

 

こういう話があります。

実は何度もここで言っていることではあるのですが、母親の悪の部分を書いてみなさい。というと、母親を尊敬しているので書けません。と拒否するわけです。

 

これは上述で言いますと、書けないというのは人間性に該当しているのはわかりますね。

つまり母親を尊敬しているわけだから、母親の悪口は書けないというわけですが、書けないというのは書く努力をして、結果として書けないのではなく、拒否した結果であり、拒否行為は人間性ではありませんね。

指導が合わないならやめればいいわけですから。

 

つまり人間性には当たらないわけです。

 

ものを書くというのは、その人間性そのものを見ることから始まるわけで、人は全身善人であるわけはないんですね。

池波正太郎の鬼平で人は悪いことをしながらいいことをする、という台詞を主人公に吐かせていますが、人を見られないというのは意味がないわけです。

 

作品は作者の人間性を表現してこそ、作品足るのです。