私は本当に悟りたいのだろうか?

(批判やお叱りは、覚悟のうえです)


まいった。
本当にまいった。


昨日は、如月マヤさんのワークに行ってきました。
白い部屋のワークと呼ばれる、魂の目的を知るものです。


6年前には自分一人でそのワークをして、その時点での魂の目的を知りました。
そして振り返ってみれば、その時に知った目的は全て体験しました。
狙ってそうしたのではなく、自然とそうしていた感じです。



昨日のワークで観えた魂の目的は、大きく二つ。
一つは楽しむため。
もう一つは…人生をデザインする。
で、こっちのデザインが問題。(^^;)


これの解釈は、まだ定まっていない。
だけど、魂がデザインをするわけではないらしい?
とすると、デザインをするのは、自我?


魂が人生をデザインして、自我がそれを生きるのか?
自我が人生をデザインして、魂がそれを体験するのか?
(本来、自我がデザインはあり得ないと思うけど…体感としては感じられていないので、可能性として残します。)


いや、誰がデザインするのか?は、今はどうでもいい。
ホントに、どうでもいい。
何をデザインするのか?が肝なのだ。
それ(デザイン)をしたくて、来たのだ。
そしてそれ(デザイン)を生きてみたいのだ。


それは、はっきりいって、誰がどうデザインしたものでもいいのだ!
でも、魂はそれ(デザイン)を待ち望んでいる…そう感じた。


でもそこに、悟りは無かった。(笑)
どう探っても、どこをどう感じても、悟りはない。。。
さて、どうするか?


生と死は明らかにしたい。
生と死の中に何があるのかを明らかにしたい。
生きるとは何なのか?死ぬとは何なのか?
そこを見ない様にして生きることは、もうできない。


でもこれは、疑問ではない。
疑問に思っていて、それを明らかにしたい、ということではない。
そんな事はどうでもいい!!
何をどうこねくり回そうが、今生きているし。
何をどうしようが、いずれは死ぬ。
そして、この人生も終わるのだろう。


「楽しむ」も、世間で言われる楽しむではない。
そんな話じゃない!
苦しみも、楽しむ。なのだ。
哀しみも、楽しむ。
病に倒れれば、病を楽しむ。
お金が無くなれば、お金が無いを楽しむ。


「人生をデザインする」も、また同じ。
何かを計画するという意味のデザインではない。
それは、断じて違う!


じゃあ、何をデザインする気なのか?
…ひょっとしたら、人生という、生と死をデザインしたいのかもしれない。
その内容が、どんなものであったとしても。だ。



あーあ。どっかで「書かねぇ」とか言ってたくせに、書いちまっただよ。(笑)
まっ、これが今現在の心境っていうことで。(^^)



※名物「自分のブログへ誘導するだけが目的のコメント」と判断した場合、私の独断でバッサリ削除します。今の心境は、無慈悲です。