☆日々薄くなる髪の毛について真剣に考える☆  | ほんま...ノイローゼになるわ。




最近、朝 髪の毛をセットしながらしみじみ思うのである。

「なるほどなぁ・・・・こういうことかぁ。」


小さい頃、大人の男性、いわゆるオッサンを見ながら

「なんでオッサンらは こんな変な髪の毛のセットの仕方すんねんやろう・・・」

と、よく思っていたものである。

老いも若きも、ヘアースタイルにこだわり、朝のセットに余念のない男は少なくない。

若い頃は常に攻めのスタイルで流行りを追いかけ少しでもカッコよく見せるために日々努力したものである。


しかしオッサンはヘアーをセットする事に対しての理由・・・というか概念が、少しばかり違うのである。

時間をかけてセットする概念が、「カッコよく!」とか「いかつく!」とか「りりしく!」といったものから

「いかに髪の毛があるように見せるか!」「ない部分をカバーするか!」といった、いかに普通に見せる事

が出来るか!というものに変化するのである。俺自身、そのさわりの部分にさしかかっている。

昔、小林稔侍氏の髪型を見て「へんなの!」 と思っていたが、最近気が付けば 徐々に近づきつつある。


 




そして、「カモフラージュ!カモフラージュ!」と心の中で叫びながら、隠す目的のセットを

来る日も来る日も続け、抜毛と共にどんどん隠す事へのハードルも上がっていき、その日々の壮絶な

闘いの中で大切な美的感覚というものを失ってしまい、どんどん複雑なヘアースタイルをするように

なるのである。柳生博氏のような・・・

おそらく、「ワシは あくまで自毛(じげ)100%なんや!」 という事に対して

非常に重きを置いているのであろうがどう見てもカツラにするかボウズにした方がいいのではないかと

思うヘアースタイルも世の中多くみられる。


 



世の中には、様々な複雑スパイラルに陥っているオッサンが存在する。



 
確かに隠れているかもしれない。
しかし、本当に「隠す」という事だけを目的にヘアースタイルを整える事が正しいのか・・・







 
隠すことにとらわれ過ぎて 美的感覚が完全に崩壊しているのである。




俺ももう立派なオッサン・・・

美的感覚とセンスだけは失いたくないものである。


 
 
 


できたら こんなんがええねんけど・・・・



世の中、土台というものが、結局 物事の良し悪しを大きく左右するのである。

という事は、髪が薄くなりゃ~髪を何とかするのが普通なのだが、

例えば引き締まったボディで、清潔感と品がありつつも、ニヒルでワイルド・・・

でも! ハゲている。

・・・という、髪以外を徹底的に磨くパターンも十分アリかもしれない。

今後の課題である。


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ってな話、どうでもよいのだが・・・・


最近、この歳になって今更と思われるかもしれないが、「人間はなぜ生きてるんやろう」 みたいな事を

考えてしまう俺なのである。









朝、目が覚めてからの5秒間が、ストレスのない幸せな時間なのである。