湧flow -25ページ目

August !!!

はやっ!
もう8月です。



















































































































































































































































































































































































































DigitalはAnalogをめざす

デジタル(Digital)とは、直訳すると「計数」で、要は何かの量を数えること。数を指で数えたことから「指」という意味もあるようです。
コンピュータで扱う情報は、見た目が文字だろうが画像だろうが全て「0」か「1」のデジタルデータとして判断し処理されます。一つの「0」か「1」かの判断ができることを1本の道(ビット)に例えると、8本の道はまとめて1バイト。最近ではディスクの容量が1GB(ギガバイト)なんて当たり前ですが、要は1ギガ(1 000 000 000、十億だって!)×8本の道で、一斉に情報(データ)が走っていくイメージ。うぅ、何か気が遠くなりそう…。
この道の数の情報を超えてしまうと、オーバーフローとなり、情報が処理できなくなります。要は用意された道以上のデータは走れないよんということ。
たくさんたくさん一度にデジタルデータを処理すると、複雑な計算ができるようになり、より高い機能を持つようになります。ちょっと前(って私にとってはだけど(^^;))まで、へぇ、32ビットパソコンがでたのぉ?とか言ってた頃に比べると、大変な変化です。
一方、デジタルに対する言葉としてアナログ(Analog)は連続した量で、要は細切れになっていないスムーズな量の変化。私たちが発する声や、自然界で目に入るものの量はこれです。
以前ブログにも書いたのですが、デジタルもどんどん細かくなる(というか一度に処理する情報量が増える)と、かぎりなくアナログに近づいていくと思います。
コンピュータの世界も、以前はやることなすこと「いかにもコンピュータ的」だったものが、そんなことを感じさせないくらいに「自然」というか「アナログ的」になってきました。
結局、デジタルの世界はアナログを指向しているということですかね。

絵を描かなかった20年近くの間、パソコンが一般化され、ネットワークが出現し、インターネットが多くの人に欠かせない存在になるのを見ながら、私自身もパソコンで絵を描き、デザイン・レイアウトし、ネットでコミュニケーションを楽しみ、その恩恵を受けてきました。
私の学生時代は、まだ情報処理の授業で学ぶのはFORTRANで(ちっともわからなかったけど)、社会に出て、仕事をし始めた頃は、情報機器はコピー機くらいで、ようやくワープロ専用機がちょろちょろ使われ出した頃。
パソコンで文字を入力し、幾何的な図形をコンピュータで描いて保存し、それが再利用できることに「そうなのよ!今まであんなに苦労してやってたことが、こんなに合理的にやれるなんて!!!今まで何やってたんだろ!」と感動したものです。
デジタルの良いところは、決められた範囲の入力をすると、きちんとお約束通りの出力をしてくれて、またデータを再利用することにより、同じ事を一から繰り返さなくてすむことです。「効率」をめざすお仕事にはまさに救世主。あの頃は、デジタルが目新しくとても魅力的でした…。


いつのまにかデジタルの世界にどっぷり使って、それが「あたりまえ」になってきたので、どこから見ても「アナログ」でしかない手法で、「絵を描きたい」と思ったのかもしれません。
「あたりまえ」からの脱却ってところでしょうか…サーフィン

観る そして 描く

一通り色をのせたら、描き進むにつれて、描く時間が減り、その分観る時間が増えます。
絵の大きさにもよりますが、仕上がった時に見やすいくらいの距離だけ離して絵をおきます。そして、観る…。
観ていると、次にどこに筆を入れるかが見えてきます。
その部分を描いて、乾かし、また観る…。そして、描く…。
次に筆を入れるところが見えなくなるまで、これを繰り返します。
見えなくなったら、一応仮の仕上がりとして、しばらく観ないで、おいておきます。
これを忘れた頃に、また観て、もし筆を入れるところが見えてきたら、また観る、描くを繰り返します。
時間をおいても次の場所が見えなくなったら、その絵の完成。

場合によっては、いくつも並行しながら、この「観る」「描く」が続いていきます。
たぶん、私が絵を描かなくなるまで…走る人

Shower


















































































































































































































































































































































































































画材(紙)2

昨日に引き続き、紙の話題。

紙の厚さは重さで表します。これは、水彩紙に限らず、印刷用の紙も同じ。
これまで私が水彩用に使用していたのは、アルシュ粗目の185gという厚さの紙です。
一般にスケッチブックを使わずに水彩を描くときは、制作中に紙をできるだけ平らにしておくため、水張り(木製パネルに紙を湿らせて貼り付けて四方を押さえ、乾いたら紙がピンと貼った状態になる)という作業をして描くことが多いのですが、あえて水張りせず、紙が波打つままにして、にじみの面白さを生かす方法をとってきました。

三度目の個展に向けて、少し大きな水彩の作品をつくりたくて、紙の厚さを一段階厚いものに変えてみました。185gの波打ち方では、大きな面積を扱いきれないのではないかと思ったからです。
今は、300gの厚さの紙の特徴をつかむため、小さめの紙で描き心地を試しているところ。紙の質は同じのはずなのに、水の含み方、にじみ方、波打ち方が思った以上に違います。
185gの方は、紙の中を水と絵の具が流れていく感じでしたが、300gは流れが遅く、どちらかというと水を保持する感じがします。紙が重い分、どっしりとしてあまり波打たないので、にじみも水張りした時のように均一に近いグラデーションになります。
実際に、大きなものを描くと、また違った性質が見えてくるのかもしれません。

題材によって、紙を選び、それぞれの質を生かして使い分けていければいいなと思っていますヒツジ


画材(紙)

水彩も、木版画もベースとなる画材は「紙」。
水彩や木版画と油絵の表現や技法の違いは、ベースの性質と絵の具の関係から生まれるものが大きいと思います。

これらの性質の大きな違いとは、ベースが絵の具と水分を吸い込むかどうか。
油絵のベースとなるキャンバスは、絵の具が染みこまないように麻布に塗料を塗ってあるので、油絵は、油で練った絵の具そのものの色や質感(透明感やツヤのあるなしなど)がストレートに表現されます。
一方、紙をベースにする水彩は、どんな紙を用いるかで、仕上がりに大きな差が出ます。
今、私が使用しているのはアルシュという水彩や版画専用に作られたフランス製の紙。水彩に興味ある方は、筆にたっぷり絵の具と水分を含ませて、この紙を試してみてください。いわゆる画用紙との違いがよくわかると思います。紙の価格としては高いと思われるかもしれませんが、発色の美しさ、にじみの面白さは絶妙で、それだけの価値ありの逸品です。

木版画には、和紙を用いています。
当初は、日本橋の和紙専門店で版画用の高知の和紙を購入していましたが、最初の個展の後、この和紙が製造中止になってしまいました。
そのお店の他の紙を少し試したのですが、絵の具を溶く水を少なめにして、何版も薄く重ねて別の色をつくるという手法を用いているため、ある程度の紙の厚さが必要なのと、絵の具ののり方になかなか納得できず、すぐに代わりを決めることができませんでした。
結局、故郷の愛媛から何種類か和紙を取り寄せて、高知の紙に一番近い仕上がりが出た愛媛県喜多郡五十崎町天神産紙工場の大洲和紙を使っています。


水彩も版画も、湿度や天気で状態が変わったり、絵の具と紙の微妙なバランスの加減で表れ方が違ってくるので、油絵にはない難しさがありますが、今のところ「紙」が性に合っているようですヒツジ

R・G・B

車のヘッドライトなどの、暗いところをバックにした白い光が、無意識に視界に入ってくると、白い光の周りがカラフルに彩られて見えることがあります。まるで縁の部分だけが、光の三原色RGB(Red, Green, Brue)に分解されたようできれい…。
でも、「あっ」と気づき、目をこらして改めて見ると、白い光にしか見えません。ただ、気のせいにしては、何度も体験する現象。
この話をしたら、一人だけ「私もカラフルな縁取り見えるよ」と言った友人がいましたが、「えぇ、それ何?」との反応も…(。・ε・。)夜の街


















































































































































































































































































































































































































Repetition

先日、「制作に関しては『急行列車の回路』を常時機能させ、英語に関しては、新たにこの回路を作ることを目指す」と書きました。
どうやら、この回路について科学的に研究しているところがあるようです。

「腕や勘が鈍る」。これは、すでにできた「急行列車の回路」が、うまくまわらない状態のことだと思いますが、回路を使わないと、脳内の信号伝達をつかさどるタンパク質が衰退して、働きが弱まるのだそうです(06.5/25朝日夕刊参照)。
いったんできたからといって、放っておいて何もしないと、結局使えなくなるということですね。耳が痛い…(>_<)。
以前、有名なバレリーナの方が、「(練習を)一日さぼると自分にわかり、二日休むとパートナーにわかり、三日休むとお客様にわかる」と言っているのを聞いた記憶があります。「何者かであり続ける」ためには、常に鍛錬。きっと、これが「プロ」ってことなんだなぁ…と思いました。


また、ある実験で、0.08秒という非常にわずかな差で、右手を左手より先に刺激し、それを1000回繰り返したら、両手を同時に刺激しても「右手が先」と感じるようになったそうです(06.5/29日経朝刊参照)。
これは、1000回繰り返すことにより、「刺激を受けたら右手が先」という回路が完成してしまい、錯覚を起こしているのだと思います。

確かに自分のことも振り返って考えてみたら、毎日毎日仕事繰り返して10数年。いつの間にか自分の専門外の技術系の本の編集をするようになってます(のように錯覚してるだけかも(^^;))。入社した当時には、今の状況は考えられませんでした。


回路をつくるためにも、機能させるためにも、必要なのは「繰り返し=repetition」。う~、結局それしかないんですよねぇ…。
飽きっぽい私にとって、繰り返しを持続させるために必要なのは、好きとか嫌いとか、飽きたとか飽きないとかいう感覚を超えた「何が何でも続けるんだ!」という意思ってことかもしれません。

これまでの成果として、ちょっと早起き続けただけで、もう身体は何となく朝型になってきています。
あとは頭ん中。がんばろ旗

Color of the Dark

光が何かの物体に反射することによって、私たちは「色」を認識するそうです。
現在、私たちが認識している色は、太陽光をプリズムに通して見ることができる虹色の範囲。
でも、光(波長)の本質そのものは、赤外線・紫外線・X線・γ線、そして携帯電話や放送に利用されている電波も実は同じ。とすると、私たちの視覚的な感覚器官が虹色以外の波長をとらえることができないだけで、一見闇にしか見えない宇宙空間は、多くの色に満ちている…という内容のことが、「暗やみの色」のパンフレットに記載されていました。

感覚器官によって、色の認識がされているのであれば、そこには個人差もあるはず。隣の人の視ている色と自分が視ている色が同じように感じられているとは限らない。また、もしかすると、いわゆる虹の範囲を超えて色を認識できる人もいるのかもしれない。
同じ色を視ていても、どんな風に捉えているかは、本人でなければわからない。

自分には、今、視えていないけれど、そこには素晴らしい色の世界が存在するのかもしれない…、なんだかドキドキします。

視えない色を観てみたい…と思いませんか星空


















































































































































































































































































































































































































「暗やみの色」

日本科学未来館の人気展示に、ドームシアターガイアがあります。
現在ガイヤで上映されているプログラムの一つが、数百万個もの星を再現したMEGASTAR-II cosmosというプラネタリウムに、谷川俊太郎さん書き下ろしの詩の朗読をあわせた「暗やみの色」。
吸い込まれそうな宇宙空間に、時々意識が遠のきそうになりながら「暗やみの色」を見終わった後、このプログラムの制作に携わった科学未来館のスタッフの方のお話を聞く機会を得ました。
「『20億光年の孤独』(谷川さん21歳のデビュー作)を書いた時点では、宇宙の果ては20億光年とされており、宇宙と自分との関係に『孤独』という言葉を用いた。それから50年たち、宇宙の果ては137億光年とされる今、その宇宙との関係に『孤独』という言葉はもう用いない」
詩を依頼した際に、谷川さんがこのような内容のお話をされたそうです。
詩のタイトルは「闇は光の母」。
21歳の時に20億光年先の宇宙の果てとの間に「孤独」を感じ、50年の時を経て117億光年分宇宙の大きさが拡がった今、孤独が増すのではなく、そこに光を生み出す「愛」のようなものを感じる…。
世界観なり、宇宙観なり、自分をとりまくものが拡がったら、孤独や不安が消えて、別のものが観えてくる。
そうか、そういうことかと勝手に納得して、何だかほっ…としましたキラキラ