のっぽのブログ
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東北復興ラグビー交流大会

4/1~3まで


鵜住居復興スタジアム、根浜グランド、松倉グランドにて行われました



参加高校は以下


常翔学園高校、桐蔭学園高校、天理高校、東福岡高校、慶應義塾高校、名古屋高校、國學院栃木高校、仙台育英高校、秋田工業高校、青森山田高校、松韻学園福島高校、札幌山の手高校、北海道遠軽高校、山形中央高校、黒沢尻工業高校、黒沢尻北高校、盛岡工業高校、不来方・盛岡南・盛岡第一合同チーム


有意義な大会となりました


今後もこの大会はつづていくことでしょう




関係の皆様

ありがとうございました


花園 終えて

花園を終えて

 

残念ながら東北地区の高校は2回戦ですべて負けました

 

これは、我々が「知っていて」伝えていても、伝わらないことが

 

多くあるのに毎年気づく

 

選手達は身をもって感じたであろう

 

コリジョンの差(上には大きくできないが、横に筋力はもっと行ける)

多分ラグビーマガジンが次の花園を終えての感想を各高校さんよりの記事が出ると思います

 

 

 

その中に必ず コリジョンの差は出てくると思う

 

その他、感じた差

 

1 コリジョン(コンタクト場面の強さ)

2 重さ(体重)

3 スピード(判断)

4 スピード(ランニングスキル)

5 シンプル(AT継続するために)

6 DFの組織(多いところで20フェーズ以上も反則しない高校もある)

 

 

以上ですが、グランドに立った選手はもっと感じたと思う

 

この差をどこまで詰めれるか

 

 

 

おいたち4

高知国体から

 

帰ってきて すぐに らば さんに

 

釜石でラグビーをしたいことを伝えると

 

入団が決定しました

 

その当時 身長は今と変わらず180CMですが

 

体重は78kg のFWでした

 

今も昔もラグビーにおける体重は必要な項目である

 

しかし、なかなかビルドアップできないままでいしたが

 

練習には休まず参加させてもらい 少しづつではあるが

 

体も慣れてきて 筋力もついていきました

 

2002年シーズンは、日本選手権の枠が拡大された年で

 

シーズンを締めくくる 日本選手権に 自分がスターティングで

 

自分自身 周りにももっと上手な選手がいるけど なぜと思ったが

 

その当時を今ふりかってみると

 

ひたむき 真面目 それしかなかった

 

それをかってくれたのかなぁと自己分析

 

 

2002−2004で釜石でのラグビーは終わりましたが

 

今 考えても 今までのラグビー人生であんだけ ラグビーに夢中に慣れたのは あの瞬間 がMAXである

 

 

その経験を踏まえ 現在 指導する立場におり

 

そんな 経験値を少しでも わかってもらえる 選手が出てくることを 

 

いや出すことを目標に

 

頑張ります

 

 

近況

どうもAです

 

自分自身流行にのってしまい

 

しばらく体調不良でした

 

インフルエンザです

 

絶対にかからないでおこうと

 

手洗い うがい マスク できる範囲ではやっていました

 

しかし、家庭内感染は止められなかった

 

息子 嫁さん 自分の順番で罹患

 

看病をしながらは

 

結構難しい

 

なおさら愛犬もいるので

 

予防方法が更にむずかしい

 

 

できるならかからないほうが絶対によい

 

すごい高熱が出ます 自分は40度程度でした

 

そして寝れないのでうなされます

 

悪夢ばかり見ました

 

いつもこの悪夢を覚えておこうと

 

そして夢判断てきなものに 診断してもらおうと

 

するけど 

 

すぐに忘れる

 

これも高熱のせいなのか 忘却曲線のせいなのか

 

 

 

とにかく今は元気いっぱいです

 

 

さぁがんばリます

 

生い立ち3

大学にて東北リーグではあったが


その当時は完全燃焼でした


就職活動があまりうまくいかず


内定を頂いたのは年明けの2月ころに


金型をつくる会社にて仕事をスタートしました


ここでは、私自身の勉強不足にて仕事をスムーズに行うことができずに


教員を目指すことに


初めは中学の技術を釜石、大船渡、陸前高田、住田にて講師にて8年間指導



初めての教壇は凄く緊張していた記憶で


いわゆる教科書に書いてあることを説明だけの先生でした


ラグビーは高校のobチームではじめ


もうひとつ釜石にはクラブチームがあり

そこでも掛け持ちで練習させて頂きなんだかんだで


高知国体にも参加させてもらい


岩手県内のラグビー仲間と知り合うきっかけとなりました


本日はここまで


生い立ち2

地元工業高校に入学が決まり

 

そこでもラグビーに励む

 

ここでは恩師Y先生に指導を受け、勝つ・勢い・生活について

 

怒るときは、今で言う愛情のあった怒り方かというと、そうでもないときもありましたが

 

本気は伝わって来ました

 

高校時代の成績はほどほどの成績を収めていたので

 

八戸工業大学へ推薦を頂き、入学を決定し

 

大学では、クラブ活動はせずにいたが、高校の先輩から熱烈に誘われて

 

ラグビー部へ

 

1994−1997まで東北大学リーグ2部でラグビーをしました

 

この大学でのラグビーがスタートで、今現在があると言っても過言ではない

 

東北大学リーグ 94年から

 

多分 大野選手や、クールポコはじめさん も同じ時期にいると思います

生い立ち3へ続く

 

 

 

 

 

生い立ち

自分の生い立ちを


ふいに書きたくなり


そこから今の原点があるのか確認です


1975/5/6に釜石にて生まれます


幼少期の記憶は、幼稚園児のころしか記憶がありません


幼稚園児では、ガキ大将であったと思う


もう一人の相方と、ジャングルジムの上からおしっこしたり、友達がつみ木で遊んでいるのを見ると、跳び箱のように飛んでつみ木をこわしたり

そんな感じでした


いざ小学校入学式


これは環境の違いにだだっ子して最後の最後まで家から出たくないと母親に迷惑をかけたような思い出があります


実際、小学校に入れば楽しいことだらけで

自校給食にて美味しい、給食につられて通っていたような


小学校2年のころ

少しだけ水泳を習うが、その頃はまだ水が怖く数ヶ月でやめましたが


この経験があり、下手ではありますが全ての泳法は泳げます


小学校3年から野球を始めました


キャッチボールもままならないけどこれも少しだけうまくなっていきました


暇があれば常にティーバッティングにつきあってくれた今は亡き親父に感謝です


この野球は途中、様々なことがありますが中学まで続けました


野球から学んだこと < ラグビーから学んだこと


⬆️のような割合になりますが


原点は野球にあると思います


時間厳守 グラセン グローブ磨き 素振り 挨拶 等々


原点はここからスタートでしょう


生い立ち1とりあえず終わり


生い立ち2へ

続く


それが今でもラグビーにていかされていることがいっぱいあります




岩手県花園予選決勝

10月21日岩手県花園予選決勝が


いわぎんスタジアムにて行われました


結果は

14-7にて4年ぶりの花園の出場


会場運営、保護者、ob、レフェリー

その他多くの関係者ありがとうございました


全国にむけて


もうひとふんばり頑張ってもらいます


よきライバルがいて


ラグビーの経験値が向上していくので



公式戦、練習試合など今年度対戦していただいた各高校ラグビー部の皆さん


ありがとうございます


岩手の代表として頑張ってきます


JJ退任

JJお疲れ様でした

 

7年間本当にお疲れ様でした

 

日本ラグビーの進化について会見でも述べたように

 

大学ありき そして企業スポーツありき

 

それをまとめてJAPANをつくる

 

では遅いっと会見にて

 

 

世界を見ると

 

18歳で代表デビューだったりが当たり前

なってきている

 

 

 

 

 

それを紐解くと

 

私達の高校もなにか強化に当たることを考えなければ

 

体つくりは高校時代からもできる

 

ラグビー理解についても

 

スピード アジリティについても

 

 

やれないことはない

 

もっと対 世界 を考えていこうっというメッセージをもらった

 

 

 

10・8

ジャパン 対 アルゼンチン

 

見ました

 

そして結果は負けました

 

応援は全力で熱意をフランスまで届けました

 

 

あーだコーダは言いません

 

ただただ お疲れ様でした

 

 

そして選手各種のSNS発信を見て

 

今回のチームも良かったことが伝わって来ます

 

このような気持ちのチームが後に強くなる

 

さぁ自分も

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