23,11月12日
父を送った日、ちょうど20年になりました。

東京葛飾に石鹸工場を起こした祖父(父の父)の元、大正14年9月5日生まれ、保証人倒産に伴って岐阜県中津川の恵那へ。苦労して旧制中学を出て、そのまま大志を抱き、薬剤師の長兄を頼って満州へ。

徴兵されて理不尽な軍隊の暴力の中で訓練(「前へ進め!」と命令しながら、後ろに隠れる上官‥)
やがて敗戦、進駐したソ連軍に囚われ、シベリア抑留。

身体の大きくないことから、頭を使って、「シトーエタ?」と言葉を覚え、捕虜宿舎:厳寒の廊下に下駄を置いて、わずかな明かりの中、「言葉メモ」を作って学習。
ロシア語の「現地通訳」(*^^*)となり、翻訳・意訳を上手にして、生き延びた。

帰国後も、代々木(日本共産党本部)には行かず、名古屋で大八車を引いた。
再び青雲の志やまず〜かつての石鹸工場の番頭たちをたどって、東京目黒・品川で店を起こした人たちや目黒の叔母?に助けられながら、「マコトヤ化粧品店」を、中野区上高田の「池の湯」前:上高田本通りに開く(昭和27年)。

自転車やバイクなどで、品川などに前日仕入れ、安価販売で隆盛を極める。(闇物資と疑われて、警官に職質されたことも‥)

昭和28年春、私の母:小林正枝を妻として、小田原駅前食堂「丸富」から迎え、共に奮闘!!

3年おきに生まれた男子3人を育てながら、西紀2000年まで、50年近く店を主宰、真面目に生きた。

愛情余って、厳しい制裁?を子どもに課す事もあったが、夢に生き、近隣との友好に努め、多くの物や大事な心を妻と子孫に残した人生であったと思う。

2003年11月12日病没、享年78歳。