ファン・ゴッホは、ポール・ゴーギャンに、「黄色い家」の指導者になってほしいと願っていたようです。
今月は、東京都美術館(東京・上野)で開催されている「ゴッホとゴーギャン展」の作品を紹介しながら、フィンセント・ファン・ゴッホと、ポール・ゴーギャンについてご紹介します。
上記は、フィンセント・ファン・ゴッホ(1853-1890)が、弟のテオに宛てて送った手紙の一節です。
アルルで画家仲間との共同生活を夢見たファン・ゴッホ。「黄色い家」を借り、準備を始めていた彼は、誰よりもポール・ゴーギャン(1848-1903)が来ることを期待していたそうです。
ファン・ゴッホはポール・ゴーギャンのどこに惹かれていたのでしょうか。
1848年パリに生まれたゴーギャン。その年は、ちょうど「2月革命」のあった年でした。
フランス革命でルイ16世とマリーアントワネットが処刑され、断頭台の露となった王家でしたが、ナポレオンの帝政の後に王政復古があり、7月革命を経てフランス国王ルイ=フィリップが王位についていました。しかし、民衆の武装蜂起によって、最後のフランス国王ルイ=フィリップもイギリスへと亡命。王政の幕引きとなったのが「2月革命」です。
その後、6月蜂起などの混乱の末、12月の大統領選挙で選ばれたのが、ナポレオンの甥、ルイ=ナポレオンです。
大統領としては権力が弱かったルイ=ナポレオンですが、彼はクーデターを起こし、1852年に皇帝に即位。「ナポレオン3世」を名乗り第二帝政を開始したのでした。
こうしたなかで、共和系のジャーナリストだったポール・ゴーギャンの父は職を失い、一家は1歳のポールを連れてパリを離れ、ペルーへと向かいます。
しかし、父はこの航海中に急死。残された母と姉とポールは、叔父を頼ってリマへと向かい、ここで4年間を過ごします。フランスに帰国したのは、ゴーギャン6歳の時でした。
14歳の時、パリの海軍予備学校に入ったゴーギャンは、その後、商船の見習い水夫や、フランス海軍への入隊により洋上に過ごします。
1871年、23歳で株式仲買商に勤めはじめます。
この頃からゴーギャンは絵画への関心を深めたようで、アマチュアの画家として描いた現存する最も早い年代の絵画は、1873年のものだそうです。
25歳だったこの年、ゴーギャンはデンマーク人女性のメット=ソフィー=ガッドと結婚しています。
最も初期の頃、ゴーギャンはバルビゾン派の影響を受けていました。
バルビゾン派は、バルビゾン村に滞在し、風景や農民を描いた画家たちです。
ファン・ゴッホもまた、バルビゾン派の影響を受け、ミレーに心酔しました。
一方、ゴーギャンが最も顕著な影響を受けたのは、カミーユ・コロー(1796-1875)でした。
1874年には、第1回印象派展が開催されています。
ゴーギャンも1875年頃からは、徐々に印象派のような新しい様式と明るい色彩を使いだしているそうです。
その後、徐々に印象派が前衛芸術として世に知られていきます。
彼の絵を大きく変えたのは、1879年、印象派の画家の一人カミーユ・ピサロとの出会いでした。
日曜には彼の元を訪ね、共に制作することもあったゴーギャンは、ピサロの影響を大きく受けながら、ポール・セザンヌ、エドガー・ドガなど印象派と親しくなります。
新たな仲間から才能を認められたゴーギャンは、印象派展の一員となり、ともに展示もしました。
この頃のゴーギャンは、パリで成功した株式仲買人で、気鋭の画家たちと交流し、作品をコレクションしながら、自身も描く日曜画家といったところでした。
しかし1882年、パリの株式市場が大暴落。ゴーギャンの収入は激減してしまいます。
1883年1月には、株式取引所を辞め、10月にはピサロに、画家として暮らしていきたいという決心を伝え、助けを求める手紙を出しています。
12月には息子ポールが誕生。この時の出生証明書には「芸術家-画家」と署名されているそうです。
翌年、妻の家族が暮らすコペンハーゲンへと移りますが、職を得られないゴーギャンは肩身の狭い思いをし、1885年にはデンマークを発ち、フランスへと戻りました。
※2 自画像
1885年、コペンハーゲンで過ごしていた36歳頃の自画像です。
厚手のコートは、暖房のない部屋での制作を物語っているのでしょうか。
この頃の手紙には、苦しい心境が吐露されています。
「首をくくったほうが良いのではないかと、毎日考えている[…]妻、家族、手短に言えば皆が、この忌々しい絵画のせいで、わたしが生活費を稼げないことは恥ずべきことだと言う。しかし、人は同時にふたつのことはできない。わたしの〈ただひとつのできること〉それが絵画だ」
その後もゴーギャンは生活に困窮し続け、家族も離れていってしまいます。
翌年の7月から10月にかけて、ゴーギャンは始めてブルターニュに滞在します。
ブルターニュは、古くからの伝統を守り、独特の民族衣装や習慣のもとで生活する素朴な社会の残る地で、生活費の安さもあり、若手の画家たちに注目されていました。
ゴーギャンの母方の祖父はペルー人だったため、彼は自分を「プリミティブ(原始的)な社会の子孫」、「野蛮の人」とみなしていたとか。
絵を描くうえでゴーギャンは、原始的な世界を求め続けていきます。
その頃は、鉄でできた建築物が誕生しはじめ、パリが都市化していった時代でした。
パリから離れ、近代社会とは縁のないブルターニュの素朴な環境は、ゴーギャンの期待に十分応えるものだったようです。
夏から春には、多くの画家が集い芸術村を構成していたブルターニュで、ゴーギャンは中心人物となっていきます。
画家としてのスタートが遅かった彼は、他の画家より年上でした。
さらに、印象派とも交友があったため、経験豊富な年長の画家とみなされたのです。
始めの頃は、ブルターニュでも印象派の様式で描いていたゴーギャンでしたが、やがて印象派を超える画風を模索。
親友でライバルとなるエミール・ベルナールとの出会いもあり、くっきりとした輪郭線を持ち、形や色を単純化した作風へと変化していきます。
揺るぎない意見を持つようになったゴーギャンはカリスマ性を発揮していきました。
1887年、ゴーギャンは、より原始的な社会を求め、「ソヴァージュ(野生の人)」のような生活をしようと画家仲間シャルル・ラヴァルと2人でパナマへと旅立ちます。
しかし、パナマでは当てにしていた知人に歓迎されず、2ヶ月経たずしてカリブ海のマルティニク島へと移りました。
熱帯の太陽の中、ゴーギャンの作品は、より大胆で力強い色調を得ていきます。
※1 マルティニク島の風景
こちらは、マルティニク島で描かれた作品です。
別天地での制作によって、より現代的で画期的な表現へと進むゴーギャンでしたが、赤痢とマラリアによって体力が衰え、11月半ばに帰国しました。
こうして、南国で制作した作品を携え帰国したゴーギャンに目をつけたのが、ファン・ゴッホ兄弟です。
11 月から12月にかけてパリのクリシー通りにあるレストラン・デュ・シュレではベルナールやロートレック、そしてフィンセント・ファン・ゴッホが展覧会を組織していました。
ポール・ゴーギャンと、フィンセント・ファン・ゴッホが始めて出会ったのはこの場所だったと考えられています。
ブルターニュで、新たな画風を掴み、マルティニク島という別天地で強烈な作風を得たゴーギャンの才能をファン・ゴッホ兄弟はすぐに見抜いたようです。
12 月には、ファン・ゴッホ兄弟の弟で、画商だったテオが、ピサロや、ゴーギャンの作品を彼の画廊で展示しています。
弟テオはゴーギャンの2点の作品を入手。兄フィンセントは2点のひまわりを描いた絵とゴーギャンの絵とを交換。兄弟のコレクションに加えました。
ゴーギャンはひまわりの絵を気に入ったことをファン・ゴッホに伝えたようです。
数ヶ月後、アルルへと移住したファン・ゴッホは、ゴーギャンの到来を待ちわび、彼に喜んでもらうため、ひまわりを描いた絵で「黄色い家」を装飾しようとする計画を立てるのです。
「もしゴーギャンが来れば、彼が使う部屋の白い壁は、大きな黄色いひまわりの装飾画で飾られているだろう」
1888年、体調を理由にアルル行きを伸ばし伸ばしにしていたゴーギャンは、ついにアルルへと到着。二人の共同生活がスタートするのです。
続きはまた来週、ゴッホとゴーギャンについてお届けします。
参考:「ゴッホとゴーギャン展」図録 発行:東京新聞、中日新聞社、TBSテレビ
※1 ポール・ゴーギャン《マルティニク島の風景》1887年6-11月
スコットランド国立美術館
©Scottish National Gallery
※2 ポール・ゴーギャン《自画像》1885年 前半
キンベル美術館
©Kimbell Art Museum, Fort Worth, Texas
<展覧会情報>
「ゴッホとゴーギャン展」
2016年10月8日(土)~12月18日(日)
会場:東京都美術館 企画展示室(東京・上野)
開室時間:9:30~17:30
※入室は閉室の30分前まで
休室日:月曜日
展覧会サイト:http://www.g-g2016.com
問い合わせ:03-5777-8600(ハローダイヤル)
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