【遠藤のアートコラム】ゴッホとゴーギャンvol.5 ~ゴーギャンのひまわり~ | 文化家ブログ 「轍(わだち)」

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ゴーギャンは晩年、タヒチでひまわりの静物を描いています。ファン・ゴッホの代名詞でもあったこの花を描いた心境はどのようなものだったのでしょうか。

 

今月は、東京都美術館(東京・上野)で開催されている「ゴッホとゴーギャン展」の作品を紹介しながら、フィンセント・ファン・ゴッホと、ポール・ゴーギャンについてご紹介します。

 

 

■今週の一枚:ポール・ゴーギャン《肘掛け椅子のひまわり》(※1)■

―ファン・ゴッホはおそらくゴーギャンと比べると誠実なのだろう。
しかしゴーギャンは芸術家としてより繊細でより知的であり、
ユニークな性格ではないが、より多彩で影響を受けやすい―

 

1893年、コペンハーゲンでゴーギャンとファン・ゴッホ、二人の絵画が初めて並べられた展覧会がありました。

 

現代美術展の一企画でしたが、展覧会は人々の関心を引き、各紙には好意的な評価が掲載されたそうです。

 

上記もそんな批評のひとつで、『コペンハーゲン』紙に掲載された記事の一節です。

描く対象に誠実に向かうファン・ゴッホの姿勢と、ゴーギャンの知的な画面構築や表現の繊細さが見出されています。

 

フィンセント・ファン・ゴッホ(1853-1890)が命を絶ったのは1890年。

その半年後、弟のテオが病によって亡くなりました。

 

テオは、兄フィンセントを含む前衛芸術家を支援していた画商でした。

 

弟は、兄の芸術を世に出そうと、1889年、1890年にアンデパンダン展や20人会展といった展覧会に立て続けに出品。画廊には断られたため、自宅での展覧会を計画していました。

 

こうした活動によってファン・ゴッホは徐々に注目を集め始めていました。

そこに画家の自殺が伝わると、彼の病気と死は人々に衝撃を与え、知名度も広まっていったのです。

 

テオが亡くなると、テオの妻ヨハンナが、義兄フィンセント・ファン・ゴッホの作品を譲り受け、展覧会を開催して彼の知名度と評価の向上に努めていきました。

 

彼がこの世を去った2年後の1892年には、アムステルダムで回顧展が開催されています。

 

友人で画家のエミール・ベルナールもまた、ファン・ゴッホの評価や知名度の向上に貢献した人物の一人でした。

彼は展覧会を企画し、ファン・ゴッホの伝記も発表。後には彼からの手紙も部分的に公開しています。

 

こうしてファン・ゴッホの評価と知名度は急速に高まっていきました。

 

一方ゴーギャンは、ファン・ゴッホが謎めいた自殺によって他界し、テオも病床に倒れると、ファン・ゴッホの芸術が彼の悲劇と結びつけられることを懸念していたようです。

 

病床のテオに代わって、エミール・ベルナールがファン・ゴッホの展覧会に関わっていることを知ると、そのことを激しく非難しています。

 

なんと愚かなことだろう。あなたも知っているとおり、わたしはファン・ゴッホの芸術がとても好きだ。しかし大衆の愚かさを考えるなら[…]まったく時期が悪い。わたしたちの絵画はすべて狂気の沙汰だと誰もが言うだろう[…]

 

ゴーギャンはベルナールと仲違いしていたこともあり、彼によるファン・ゴッホのプロモーション活動に抵抗を感じていたようです。

 

それでも、徐々に二人の作品がともに展示される機会が増え始めました。

 

そうしたなか、ゴーギャンは1894年1月にファン・ゴッホとの交流に関する回想を綴っています。

様々なエピソードを紹介しながら、彼は亡き友人の悲劇が自分の責任ではないことを弁明。

誤解の多い二人の関係性や評価への抵抗を試みたと考えられています。

 

ファン・ゴッホが神話化されるなか、ゴーギャンは彼の影響下にあると誤解されることを恐れたようです。自分のほうがファン・ゴッホに指導や助言をする立場にあり、影響を与えたことを強調する手紙を残しています。

 

1891年、南国の原始的な世界を求めてタヒチへと渡ったゴーギャンは、ここで、強烈な色彩と、現地の人々や宗教をテーマに傑作を生み出していきました。

 

しかし、実際のところ、大部分の島民は伝統的な衣装や習慣を捨てて西洋風に暮らし、キリスト教を信仰していたため、彼は失望することも多かったようです。

 

1893年、資金不足によってフランスへと戻り、2年ほど過ごしますが、彼は再びタヒチへと旅立ちました。

 

※2 ポール・ゴーギャン《タヒチの3人》

 

こちらは、1899年にタヒチで描かれた作品です。

ポリネシアの男女の壮健な肉体と力強い表情が描き出されています。

 

左の女性が手に持っているのは「リンゴ」で、聖書に登場する楽園のイヴを連想させます。

リンゴを持つ女性は男性を禁じられた行為へと誘惑する人物として、花を持つ女性は、男性を美徳の道に引き戻そうとする人物として描かれていると考えられています。

 

 

しかし、西洋化が強まるタヒチの生活にうんざりした彼は、1901年秋、ヒヴァ・オア島へと移動します。

 

この地でも多くの作品を生み出していくのですが、深刻な紛争が生活を脅かし、病気が彼を蝕んでいきました。

1903年5月8日、ゴーギャンは55歳を迎える前にその生涯を閉じました。

 

ゴーギャンは死の2年前、タヒチで4点のひまわりの静物画を描いています。

 

※1 ポール・ゴーギャン《肘掛け椅子のひまわり》

 

こちらは、その一枚。1901年に描かれたものです。

 

ひまわりは本来タヒチではみられない花。

ゴーギャンは友人に依頼し、ひまわりの種をフランスから取り寄せているそうです。

 

ひまわりが置かれている椅子は、ファン・ゴッホがアルルでゴーギャンにあつらえた肘掛け椅子を彷彿とさせます。

 

※3 フィンセント・ファン・ゴッホ《ゴーギャンの椅子》

 

二人が初めて会った時、ゴーギャンはファン・ゴッホが描いたひまわりを称賛し、自身の作品と交換しました。

ファン・ゴッホはそのことを喜び、ゴーギャンがアルルにやってくることになったとき、ひまわりの連作で家を飾り、迎えようとしました。

共同生活中、ゴーギャンが描いたファン・ゴッホの肖像画も、ひまわりを描く姿でした。

そして、二人の共同生活が破綻を迎えた後、ゴーギャンはファン・ゴッホにひまわりを描いてほしいと依頼しています。

 

ひまわりの種をわざわざフランスからとりよせたゴーギャン。

この絵を描いている時、少なからず、亡き友人ファン・ゴッホとの遠き日に、思いを巡らせていたのではないでしょうか。

 

フィンセント・ファン・ゴッホとポール・ゴーギャン。

ドラマ性に満ちた二人の関係は今でも西洋美術史の有名なエピソードとして多くのファンを惹きつけてやみません。

 

そして、その作品は、その後の絵画史に多くの影響を与えた傑作として愛され続けています。

 

参考:「ゴッホとゴーギャン展」図録 発行:東京新聞、中日新聞社、TBSテレビ

 


 

※1 ポール・ゴーギャン《肘掛け椅子のひまわり》1901年

E.G. ビュールレ・コレクション財団

©Foundation E. G. Bührle Collection, Zurich

 

※2 ポール・ゴーギャン《タヒチの3人》1899年

スコットランド国立美術館

©Scottish National Gallery

 

※3 フィンセント・ファン・ゴッホ《ゴーギャンの椅子》1888年11月

ファン・ゴッホ美術館(フィンセント・ファン・ゴッホ財団)

©Van Gogh Museum, Amsterdam (Vincent van Gogh Foundation)

 

 

<展覧会情報>

「ゴッホとゴーギャン展」

2016年10月8日(土)~12月18日(日)

会場:東京都美術館 企画展示室(東京・上野)

 

開室時間:9:30~17:30

※入室は閉室の30分前まで

 

休室日:月曜日

 

展覧会サイト:http://www.g-g2016.com

問い合わせ:03-5777-8600(ハローダイヤル)



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