ヴェネツィアの画家ティツィアーノは、裸体表現でないにもかかわらず、非常に官能的なマグダラのマリアを生み出しました。
今月は、東京都美術館 (東京・上野)で開催されている「ティツィアーノとヴェネツィア派展」の作品を紹介しながら、ティツィアーノについてご紹介します。
ティツィアーノ・ヴェチェッリオ 《マグダラのマリア》 1567年
ナポリ、カポディモンテ美術館
© Museo e Real Bosco di Capodimonte per concessione del Ministero dei beni e delle attivita culturali e del turismo
―イエスは女にむかって言われた、
「あなたの信仰があなたを救ったのです。安心して行きなさい」―
上記は、「ルカによる福音書」の一節です。
ヴェネツィアで活躍した巨匠ティツィアーノ・ヴェチェッリオ(1488/1490-1576)は、ヴェネツィアの貴族や富裕層に加え、各国の王侯貴族や高位聖職者から数多くの注文を得た画家です。
なかでも、「マグダラのマリア」という主題は、ティツィアーノの後半生において最も多く受注したものだといわれます。
その一枚が、現在ナポリのカポディモンテ美術館に所蔵されている上の作品です。
新約聖書中の福音書に登場する聖女「マグダラのマリア」は、イエスの足に涙を落とし、自らの髪で拭い、香油を塗ったとされます。
罪を犯したにもかかわらず、その愛の大きさゆえに、キリストに許された女性でした。
上の作品でも、豊かな美しい髪と、左隅に描かれた香油壺によって、彼女がマグダラのマリアであることが示されています。
それにしても、聖女を描いたにもかかわらず、ティツィアーノの作品のなんとエロティックなことでしょう。
※1 ティツィアーノ・ヴェチェッリオ 《マグダラのマリア》 1567年
ナポリ、カポディモンテ美術館
© Museo e Real Bosco di Capodimonte per concessione del Ministero dei beni e delle attivita culturali e del turismo
小さなヴェールとリネン製の肌着をまとってはいますが、その肉体はより強調され、隠されているがゆえにいっそう刺激的です。
彼女の特徴である長い髪は両肩から落ちて胸元で交わり、そこに手が添えられていることで、自然と視線は彼女の豊満な乳房へと導かれるのです。
口元は薄く開かれ、天を見つめた目からは澄んだ涙が溢れています。
このような、天を仰ぎ、涙を浮かべて唇を震わせ、髪の毛とともに胸元に手を置くというマグダラのマリアの図像は大成功を収め、数多くのヴェネツィアの邸宅に飾られました。
当時は宗教改革がヨーロパ中に巻き起こっていた時代です。
宗教改革は、ローマ・カトリック教会が販売していた罪の償いを軽減する「贖宥状(しょくゆうじょう)」に対するルターの批判などをきっかけに起こりました。
教会に対する不満と結びついたこの運動は、やがてプロテスタントの分離へと発展。ヨーロッパ中を揺るがしていました。
この宗教改革は、画家たちにも大きな影響を与えます。
プロテスタント勢力の強い国では偶像が否定され、聖像は破壊され、宗教画の注文は激減。
画家たちは新たな道を探すことを余儀なくされます。
一方で、ローマ・カトリック教会は、布教活動と信仰基盤の強化のために、これまで以上に美術が活用されました。
但し、ローマ・カトリック教会内でも、自らを改革しようとする「対抗宗教改革」の動きが起こります。
パウルス3世によってトリエント公会議が開催され、カトリックの教義の内容や方向性の再確認が行われました。
この時、美術に対しても、裸体は隠すように指示され、美術は文字の読めない人に神や聖人の栄光をはっきりと伝える役割であることが確認されます。
そのため、この頃から聖人は天を仰ぎ、傍には本と髑髏が描かれ、聖人ということが分かりやすく、感情移入しやすい図像で描かれるようになっていきました。
ティツィアーノが描いたマグダラのマリアにもこの影響がみられ、天を仰ぎ、恍惚の表情を浮かべ、聖書を表す本と、悔悛を表す髑髏によって、聖人であることがはっきりと示されています。
ティツィアーノが生み出した、新しいマグダラのマリアの図像は、対抗宗教改革の重要なアイコンの一つとなっていきました。
しかし、ティツィアーノはそうした制約を守りながらも官能的な表現を同居させることに成功しているのです。
悔悛した女性の敬虔さや痛ましさ。
それに相反するかのような官能と誘惑。
対抗宗教改革のアイコンとして理想的な図像を生みだしながら、官能的な女性美を求める俗世間の要望にも応えたティツィアーノ。
正反対の価値を共存させるだけでなく、それらが互いに高め合うところまで作品を昇華させました。
地中海の覇権を握り、共和国として富栄えたヴェネツィアでしたが、ティツィアーノが活躍した時代は転換期を迎えていました。
ヨーロッパ諸国との戦争、航路をねらうトルコとの衝突、そして大航海時代がはじまると、新航路を制したスペインによって、かつてのヴェネツィアの優位性は失われていったのです。
歴史的な転換に直面したティツィアーノの作品は、やがて人間の無力さを描き出すような激しく暗い色使いへと変化していきます。
しかし、そうした晩年の感情的な作品も含め、まれにみる長い人生のなかで生み出した作品は、美術史の一時代に君臨し続けています。
参考:「ティツィアーノとヴェネツィア派展」カタログ 発行:NHK、NHKプロモーション
※1 ティツィアーノ・ヴェチェッリオ 《マグダラのマリア》 1567年
油彩、カンヴァス、122×94 cm
ナポリ、カポディモンテ美術館
© Museo e Real Bosco di Capodimonte per concessione del Ministero dei beni e delle attivita culturali e del turismo
<展覧会情報>
「ティツィアーノとヴェネツィア派展」
2017年1月21日(土)-4月2日(日)
会場:東京都美術館 企画展示室 (東京・上野)
開室時間:9:30~17:30(入室は閉室の30分前まで)
夜間開室:金曜日は9:30~20:00(入室は閉室の30分前まで)
休室日:月曜日、3月21日(火)
※ただし、3月20日(月・祝)、27日(月)は開室
展覧会サイト:http://titian2017.jp
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