この身体があるから考えられたこと | コウトオフィシャルブログ コウトの言葉

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声のお仕事をさせていただいてます。
ここはTwitterには書けない僕の奥深い場所。

覚悟はいいですか?
それではごゆっくり。

※病気について記載しているブログ記事のため、得意じゃない方の閲覧は控えていただきますと幸いです。

 

 

今日は少しだけ、語らせてください。

なかなかこんなことを書く機会もなかったんだけど、

自分のことを少しだけ言葉に著しておこうと思って書き始めてます。

 

Twitterや僕のことを少しでも知ってくださっている方にはご存知かもしれませんが、

僕は数年前に大病をして、移植をし、いまは保存治療をしながら普段の生活を送っています。

 

もう6年もなるんですね…

普段感じないままありのまま生きているので、気付いたらあっという間に時が過ぎていました。

ただ、意識している瞬間はあって、飲み忘れると死んでしまう薬と毎食の注射を打ちながら、

日々の体調管理を常に保ちながら…ってそんなに大層なことしてないんだけどね。

 

 

このご時世の中、考えることがたくさんあって、

いつものことがいつものようにならなくなっていったり。

それでもこの数ヶ月間でも誰かのために活動が出来ていたり、

誰かが求めてくださるために活動が続けられていたり、

新たなつながりが生まれたり、今までの繋がりが深くなっていったり…。

 

でもさ、当たり前が当たり前じゃないっていままでの人生の中で充分感じていたんだけど、

自粛前の生活では、いつの間にかさ、ただ生きていくのに必死になって、

人目を気にし始めたり、体裁を整えて生きていたり、自分の見た目ばっかり意識し始めて、

ほんといつの間に、自分ひとりで生きているつもりになっていた。

当たり前の人生をまた歩み続けていた。

あれほど嫌だった生きにくい人生を歩んでいた。

 

ただ、この数ヶ月でその当たり前が当たり前じゃなくなる世界になり、

誰も彼も見えない恐怖に怯える生活に変わっていった。

 

・・・僕があのとき感じていた、圧倒的な孤独感と喪失感。

この世界のみんながそれを感じ取っているのかも。

少なからず僕はそんなことを感じていた。

あのときの僕は、とても醜くかったのかもしれない。

 

 

僕の身体には他人の臓器が入っている。

今はその臓器が無いと生きていけない。

受け入れた瞬間、僕はどうしようもないほどの罪悪感と申し訳無さと

同じぐらいの感謝と感動を感じていた。

そして、あの時心の奥深くまで、捨てたくても捨てられなかった気持ちは、

生きてきた中でなによりも代えがたい瞬間だった。

あれほど苦しんだ数年間を取り戻すかのごとく、

今は自分が思うがまま後悔しない生き方で生きてきていた。

 

過去の苦しみを忘れようとすることは、きっといただいた臓器を乱暴に扱うことと一緒と感じたこの自粛生活。

僕にとってはひとつ生まれ変われるきっかけをもらった、かけがえのない時間でした。

 

少しだけまた、自分を大切に生きていこうっと。