秀吉は備前焼に大変執着しています。何故彼はこれほど

こだわっていたかについては、軍事戦略上の理由がありま

した。信長から引き続いて全国制覇を推進する中で、大き

な抵抗に直面した城や寺社ではほとんどすべて備前焼の

大甕などを備えて篭城していることを思い知らされていた

ので、備前焼の恐ろしさは秀吉の脳裏から離れることは

なかったはずです。

 「わび・さび」という茶道の感性の中で、媚びたり飾ったりする

ことなしに、ひたすら実用品に徹してきた備前が、一躍茶道具

として認められたのです。

 茶人はこよなく備前焼を愛でたのです。使うことに徹した姿勢

が、心象芸術としての洗練も、自然に高めていったのです。

 秀吉は中国筋遠征の途中、つまり天正10(1582)年に備中

高松城水攻めの際伊部に立ち寄り、『伊部の里陣地に関する

制札(伊部村陣執禁止)』を出しています。

 いわゆる秀吉の「備前焼の保護策」といわれているもので、

燃料、原土の無料政策を打ち出しています。実はこれは篭城

に役立つ備前焼の恐ろしさを知っていた上で、これを手中に

納めるべく取った彼の懐柔手段なのです。

 また名高い天正15年の北野の大茶会には、「紹鴎の備前水こぼし、

備前筒花入」等を飾ったことが記録されています。この段階で、秀吉

の得意満面の顔が見えるようです。

 続いて天正15(1587)年には、秀吉が備前窯を1ヶ所にまとめる

との記述が「平塚山城守書状」に見られ、秀吉による備前焼支配

が一段となされているのです。そして死期に至ってもなお備前焼

に対する安心感と経済的恐れを持ち続けていたことは、慶長3(1598)

年備前三石入大甕に入って京都東山の豊国廟に葬らせることに端的

に現れています。秀吉にとって備前焼は生活必需品、精神的美の

創造物のみならず、根底には軍需品に映っていたに違いないと思います。

 しかし

無限に続くと思われていた「洗練」は意外な形で終焉を迎えました。

 続く平和な都市生活を形成した江戸時代を迎えて、表面上繊細で

奇麗な伊万里などの釉薬物に押され、備前焼は音無しの構えで、

昭和になるまで鳴りをひそめて眠りこけてしまったのです。

 精神やそれに基づく心象芸術ではなく、人間業の領域の占める、

美しくて、軽やかで、繊細なものに誰もが憧れはじめ、反面備前焼は

衰退の一途をたどっていきました。その時代にさらなる完成者がいな

かったのか、備前焼上での洗練はこれより上のない絶頂であったのか、

時代がすり替えてしまったのか、首座は交代してしまったのです。


コピーライト備前市本《 引用文献 》

「備前焼の伝統と歴史(備前焼の歴史と文化)」

臼井洋輔著・岡山県備前焼陶友会