軽~く次の塔研究のツッコミを。
細かい考察はきっと新しい現役ブロガーさん達がしてくださるに違いありません。(笑)
記事の主題は『聞いて、理解し、思いやる』というもの。会衆内の平和を求めたり、よく話さないと誤解を生んだりしちゃうからコミュニケーションよくしましょうね、といった特にエゲツない内容とかではないです。『王国会館で会った時は気分屋で気遣いのない姉妹だと思ったが,一緒にお茶をしたら,そうではないことが分かった。』みたいな。ま、いい歳こいた大人が学ぶようなことなのか?という疑問はさておき、そんな内容です。
でも、その中で『?!』と思ったのが、この挿絵。
(ものみの塔2020年研究用4月号より引用)
脚注に
『年配の兄弟が集会に遅れてきた若い兄弟を非難するような目で見ている。でも後で若い兄弟が事故に遭っていたことを知る。』
…とあります。
記事の趣旨と合わせて考えると、その通りなのかもしれないけど…。
いやいや、違うだろ。
そもそも論だ!
『遅れてきた人を非難(するような目で見る)する』
これが一番ダメなことなんじゃないのかい?それについては論じないわけ??
じゃあなにかい?この遅れてきた人が事故じゃなく、個人的な理由で遅れてきたんだったら『非難する目で見て』もいいってことかい?それがクリスチャンの特質なのかい?
これがね、個人間の待ち合わせの約束時間に間に合わず…云々…という設定ならわかるんですよ。でも設定が『集会』なんですよね。集会に遅れたことで、このメガネのオッサンはなにか迷惑被ったのかな?この人が来るまで集会が開始されないような会衆だったの?それならお怒りになるのもわからんではないけど…そんな会衆ないよね。普通時間通りに始まるよね。
非難する理由って何なんでしょうね?
『遅れてきやがって!』とか『ふさわしくない!』とか、そんな感じ?
では、なんで『遅れてきやがって!』って思うんだろ?
他にもよく聞きますよね。『なんで食事招待に来ないの!』とか『特権なのに家を提供しない!』とか『野外奉仕に出てこない!』って怒りの声。私も嫌と言うほど文句を聞いてきたし、言われたりもした。(笑)
『ズルい』
…って感覚ないかな?
仕事で集会に遅れてきてズルい、真夏に奉仕出てなくてズルい…などなど。
『ズルい』って感覚の裏にある感情ってなんだろう?
『本当は私もしたくない』
…って感覚ないかな?
挿絵のメガネのオッサン。『俺は仕事も調整して、給料を減らしてでも集会を支持してんだ!なのにあいつはなんだ!仕事で遅れてきやがって!なのに会衆での立場はあいつの方が上だなんて信じられない!』
……そんなエグイ感情が根底にないと『非難するような目で見る』なんてことないですよね。
いや、そんな場面が職場とかならあると思うよ。好きで仕事してる人もいるだろうけど、ただ給料のために働いてる人もいるわけで。それで、遅れてきたやつがお咎めナシだったり、自分より時給高かったりしたら、『非難する目で』見るかもしれない。
でもこの場面は『集会』でしょ?集会って崇拝の場なわけで。あくまでも『本人』と『神さま』の関係なわけじゃん。メガネのオッサンはきっと時間通りに来たんでしょう。色々自己犠牲払ったんでしょう。じゃあそれでいいじゃないか。神さまはきちんと見ているんじゃないのかい?
好きなアーティストの例えを使いますが、コンサートに遅れてきた人がいたとして、その人を非難の目で見ることってある?普通ないよね?その人が遅刻したせいでコンサートが中止になったのなら袋叩きかもしらんけど。(笑)でもそんなことはないわけで。じゃあ友達でも知り合いでも何でもいいよ、コンサートに遅れてきた人がいたらどう思う?何と声かける?
『あ~!これてよかったね~!』
『来れないのかと思って心配したよ~!』
『うゎ~残念!1曲目めちゃ感動的やったのに!』
『遅れた分、もったいないことしたなぁ~』
『(君がいない間)こんなんやったよ!あんなんやったよ!』
そんな感じじゃない?少なくとも『非難の目で』みることはないよね?見ること自体おかしいよね?
それと同じだ、と思うわけです。みんな楽しみに集会行ってるんだよね?時間通りに行っている人は最初から楽しめているわけだよね?そしてそれは神さまも喜んでくださっているという自負なり満足感もあるわけだよね?
じゃあ、なんで他の人に対して『非難の目で見る』の??ってこと。最初に述べたように『そもそも論』になってしまうのではないか、ってことです。
これに気づくとですね。会衆の誰かと話をしていてもその人が普段どう思っているのか、その人の動機が垣間見えるようで、人間観察としては面白いですよ。何か文句を言ってくる人に対しては『あぁ、この人はホンマはイヤなのかなぁ~』と思いますし、『今日の〇〇のプログラムよかったよ~聞けなかったのならテープ貸そうか?』とか、あと1度私が仕事で割り当てを果たせなかった時に学校の監督の兄弟から『兄弟、今日はせっかくの機会だったけど残念やったね。またよろしくね!』などと笑顔で挨拶された時は、『あぁ、この人はホンマに好きでこの世界で頑張ってはるなぁ~』とか思ったりします。
それにさ、みんながそんな感じのプラスな反応だったら、『集会遅れてでも行こう!』って気にもなると思いますよ。その方が健全じゃない??普通残り時間があと10分とかだったら、『もうや~めた』ってなると思うんですけど、私もほんの数か月だけですが、雰囲気がとても良い群れにいた時があってさ。書籍研究も凄い楽しい感じで。そん時は最後の祈りだけでも参加しに行こうかな~と思えるような群れでしたね…。なんなら終わってからガチャってドア開けてもみんな大歓迎してくれたりしたしな…。誰に対してもそんな感じだった。遅れてきた人に引け目などを感じさせないそんな雰囲気。懐かしい…。ま、そんな風に思えたのは後にも先にもその群れにいた数か月だけでしたが。
でもそういう雰囲気づくりをするのが責任者たちの使命だと思いますが、最近じゃ、このメガネのオッサンのように『ふさわしい/ふさわしくない』の物差しでしか見れない世界になってしまっているのが現状でしょうか…。『非難する目で見る』ことを非難する記事が出ることを期待します。その方がよっぽど有益だと思いますけどね。
そしてもし、非難する目の原因が『ズルい』という思いや『本当はしたくないのに』といったものなのであれば、それこそ早急に何とか手を打たなければならない危機的かつ末期的な状況ではないでしょうか。
現役のみなさま、日曜日注解してはいかがでしょ?
『挿絵からいかがですか?』って質問があるでしょうし。
『脚注にあるように、よく事情を知らないが故に誤解してしまうことがあるので、何事も見た目ですぐに反応しないようにしたいと思いましたし、「そもそも集会に遅れてきた人を非難の目で見る」ようなことをしないでおこうと決意することができました。』ってさ。((笑))
でも、ホンマにそんなこと注解したら、一瞬凍り付くだろうね。みんなそんな視点で考えたことがないからさ。