地区大会3日目の動画より。少しツッコミ。

 

最初のプログラム。

『何があっても喜べる』

第二部:苦難

 

 

「まずは普通に話が始まります。生きていくうえでストレスや苦難はあるものだ、と。配偶者の死や病気、ケガ、失業などです」

 

…こんな感じです。はい、なるほど、そうですね。そこで与えられる神さまの慰めについて言及し、いつでも喜べますよ、という部分は理解できます。神さまや聖書が心の支えになっている人にとっては必要なものかもしれません。

 

 

ただ、この導入部分で単純に『ん?!』と引っかかった部分が次のセリフ。

 

『私たちエホバの証人にとっては、伝道をもっと行いたいのに行えないことが、ストレスの原因になることがあります。』

 

 

ん~~~………。それはおかしくないかい??

 

 

だってさぁ、敬虔なクリスチャンであるなら『神さまがどんな方か』知っているハズですよね?では、神さまがいるとして、この今の状況下で信者が「もっと伝道を行うこと」を望んでいるのでしょうか?伝道ができないことで神さまにとって、そして信者自身にとって何か不利益がもたらされるんでしょうか?そんなことないですよね。

 

「ストレスになる」ってよりも「できなくて残念だ」という気持ちの方が自然だと思いますし、理解もできます。しかし、「ストレスに感じる」ってことは、神さまを信頼していないことにならないですかね?神さまならきっと「大丈夫だよ!今は無理をしないで!」と思われるのではないでしょうか。神さまがいるのなら、もっと優しい愛ある神ではないでしょうかね。信者(自分の民)が自分の為にそんなことのために、つまり配偶者の死や病気などと同列に、伝道できないことがストレスになるようなことをさせたいのでしょうか。

 

 

 

この発言の背後にある思い、つまりストレスを感じているのはアンタ達上層部じゃないの?!

 

『伝道活動をもっとやらせたいのに、この状況じゃ、そうもいかねーじゃねーか!』

 

ってね。結局、「時間」だの「再訪問」だの「研究」だの、目に見える形での結果を追い求めさせ、そしてそこで優秀な成績を修めた者がそこ(会衆)で【開拓者様】としてエラソーな態度を取れるシステムですからね。そんな中、目に見える形での成果を収めることができないと「不安で仕方なくなり」、結局「ストレスに感じて」しまうのではないでしょうか。

 

 

≪ストレスに感じる?なんで??≫

 

そのように冷静に考えてみるべきでしょうね。ま、普段もうしていない私が言うのも説得力がないかもしれませんが、日ごろから、聖書読んで祈ってる人なら、特に今の時期に奉仕ができないとしても、そんなことはある意味二の次三の次なのではないでしょうか。ただ感謝を捧げ、そして慰めや励ましを得る、キリストが共にいてくださることを感じ取る。それこそがクリスチャンにとっての‛ストレスフリー’なのではないでしょうか?JWは聖書が教えるのその根本を忘れてしまったのでしょうか。私はそう思います。

 

特権持ちであればあるほど不安やストレスを感じるのかもしれません。

 

 

この第二部の話でも、きちんと『エホバは私たちの状況を理解し、耐える力を与えてくれる。あなたの頑張りをエホバは認めて下さる。そのことを確信し疑わないようにしましょう!』とまでいっています。その通りでしょうね。そうやって言うなら、「奉仕に出れないことがストレスとなりうる」なんてことは触れない方がよかったですね。このワンフレーズが冒頭に入ったことで、まだマシだったはずの話が全体として残念なものになってしまいました。上層部自体がストレスに感じているような普段から神を信頼していない者であることを晒してしまっているからです。

 

 

 

では3日目の続き、みてみまーす。(←結局また見るんかいっ!お前も好きやのぉ…笑)