リブログさせていただきます。良い記事に感謝します。<(_ _)>

コメントを書いていたら長くなったので、記事にしてしまおうかと。

 

 

仰る通りですね。
震災そのものはもう二度と経験したくありませんが、それに伴う‛ある意味で’の『良い思い出』は私も否定することはできません。思い起こせば、私もほぼ毎日、早朝から深夜まで震災復旧拠点の王国会館に1日中常駐して、必要な物資やお弁当などの受け取りや配送などの手配を行っていました。

 

 

時にRBCで数名イカれた奴もいてみんなを困らせていましたが、それでも、それこそJW世界でいう「クリスチャン愛」とやらで覆っていましたね。一致団結して、元の生活に1日でも早く戻れるように日々奮闘していました。どこからそのパワーがでていたんだろうね。信仰心?隣人愛?それとも単なる承認欲求?よくわかりませんが、体がそうやって動いてました。

 


あれから10年20年と経ち、あの時期にちゃんと働いておけばよかったんじゃないか?とも思うこともあります。あの時点で復興業務に従事することは、私のその後の人生にとっては色々失うものもあったからです。なので今でも時々「その時の選択」が良かったのか考えることもあるのですが、『あれはあれでよかったんだ、今の人生の糧にもなっているかな。』という結論に至っています。今でも時々震災の話になった時には、エホバという名前はもちろん出しませんが、自分がそういう活動に携わっていたことを話題にすることがあります。

 

 

ただ、

『事実であり、夢であった』

だったんですよね…。

 

 

敢えて残酷な言い方をしたら、あの時の変な高揚感が『良い思い出』にさせてしまったのだろうか……とか。そんな風にも思えたり。ま、JWを好きでやっている人にとってはそれこそ『信仰がより強固なものになった』と純粋に喜ばれるのでしょうけどね。

 

 

じゃあ、その頃の経験があるならJW続けられるのか?と言われれば、それは到底無理な話ですし、JWの腐った部分を、あの時の自分の『良き思い出、良き夢』とごちゃごちゃに混同されて、汚されたくないような気持ちになります。えらく勝手なことを言っているのは百も承知なんですけどね。(;^_^A

 

 

ほすまんさんは記事の中で『複雑』という言葉を使われましたが、なるほど、ほんとに『複雑』な心境になります。

 

 

前回の記事でも書いたかもしれないですが、末端信者は善意100%ですから。いや120%かもしれない。悪意が見え隠れするのは、「開拓者」だの「長老」や「シモベ」などといった肩書/特権が絡みだした人間からだけだ。そうした人間は「善意50%エゴ50%」なんでしょう。

 

 

そんな末端信者の方が震災の時を振り返って「信仰が強まった!」とキラキラした目で語られた日にゃ、こちらは絶対に現実/真実を突きつけることなんてできません。それは私なりの配慮であり善意です。そのまま「良き夢」であって欲しいとすら思う相手もいます。年配の方とかならなおのことね。そういう意味で私も『複雑』な気持ちになります。

 

 

夢のまま現実逃避し続けて、‛ある意味で’の幸福を得続ける生き方がいいのか……

夢から覚めて厳しい現実を受け入れ、小さな幸せを見い出す生き方がいいのか……

 

 

正解はわかりません。

そして誰かが決めてくれるわけではない。

 

 

ただ、自分にはあそこはもう無理だった、ってことだけ。

夢から覚めて、もう眠りには就かない、と決めたのであれば、もう前を向いて歩くしかない。

 

 

正解もないのであろうが、間違いもないのだから。自分を信じて突き進むのみ!その先にはきっと何かがある!そう信じたいと思います。