どうする家康松本潤インタビュー「運も含めて『生』を選択した徳川家康」|TVガイドみんなドラマ


1月8日(日)スタートの大河ドラマ「どうする家康」。本作が大河ドラマ初出演、初主演となる松本潤さんにインタビュー。松本さんが思う家康像などを伺いました。


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か弱き一人の少年が、後ろ盾もなく家臣団を頼りに乱世に飛び込んでいく、ハラハラドキドキ、夢と希望が詰まった波乱万丈のエンターテインメント。そのか弱きプリンス・家康を演じる松本さんが感じる家康という人物、古沢さんの脚本の魅力とは?


周囲の人物の適材適所を見抜ける力も、長生きも、家康の才能 

――あらためて、オファーを受けた時の思いをお聞かせください。

「驚きました。大河ドラマの出演経験はありませんでしたし、出演のタイミングがいつか来るかもしれませんが、おそらく来ないのかなとも思っていたので、『何で私に? しかも家康?』と(笑)。オファーをいただいた時は、まだ取り組みたいこともあり、それに集中していたので、『今は、この重大な決断をできない』と思って一度、お断りさせていただきました。ですがその後、ずっとお返事を待っていただいていて、僕もこれから挑戦できることについて考えたタイミングがあり、『私でよければ…』とお伝えしました」


――「どうする家康」というタイトルを聞いた時は、どのような印象でしたか。

「誰の味方に付き、誰を裏切るなど選択の連続を強いられていた戦国時代は、今とは異なり、選択一つで生死が決まっていたと思います。家康は、強国に挟まれた三河という土地の“か弱きプリンス”だったので、本当に困難な選択をし続けなければならなかったという意味では、ぴったりなタイトルだなと。

ただ、僕は出演のオファーをいただいた段階で既にタイトルが決まっていたので『そういうタイトルなんだ』とすんなり受け止めましたが、もしもお話を受けたあとでタイトルが決まったとしたら、『本当にそのタイトルなんですか?』と聞いたかもしれません(笑)」


――徳川家康に対しては、どのようなイメージをお持ちでしたか? 

「演じる前は、“たぬきおやじ”と形容されるような、体格のよいおじさんという、恐らく皆さんが思い描かれているであろうイメージに近いものを持っていました。津川雅彦さん、西田敏行さんといったベテラン俳優の方が演じている印象が強かったですし、江戸幕府を開いた頃の年を重ねたイメージでしたね。ただ今回、10代の次郎三郎から元康、家康と演じているので、その時点で、当初の印象は薄れていきました。三河では、生きるか死ぬかの選択を常に迫られていたほか、家康自身も力不足を痛感する日々を過ごしています。その選択の連続がどう描かれるのか。そしてそれを僕がどう演じるのか? か弱きプリンスであると同時に、別の道を選んでいたら命がなかったかもしれないという運も含めて、生き延びてこれた人なんです。だからこそ、戦国時代を終わらせて江戸時代を切り開けたのかな、と考えながら家康という人物像を掘り下げていました」


――その家康を描くのは、脚本家の古沢良太さんです。

「古沢さんが描かれる家康に関しては、台本で読むよりも実際に演じたときのほうが、より面白いなと感じます。実際に動いてみるとすごくやりやすいですし、やはり語彙を含めた古沢さんのワードセンスが光りますよね。見る人をドキッとさせたり、状況を一変させたり、感動させるような仕掛けを作るのが、とても上手な方だと思います。古沢さんらしさが、ドラマの随所に出てくるのではないでしょうか」  

――松本さんご自身、大河ドラマ初出演となりますが、“大河ドラマ”らしさを感じる日々でしょうか?

「初出演なので、『これが大河(らしさ)なのか? この作品だからこうなのか?』というのが、分からないんですよね。でも、ものすごく規模の大きなことをやらせていただいているとは思います。これだけ多くのスタッフの方々が常に一緒に動いている撮影現場はないですし、一人の人物を1年以上演じ続けることも、後にも先にもない。『すごいことをやっているんだな』と実感します。僕の友人でもある小栗(旬)くんが、一つ前の大河ドラマ『鎌倉殿の13人』で主演をしていて、彼から撮影の話などを聞いていましたので…」
  
  
――実際に演じてみて、家康に親しみを感じることはありますか?

「素直だな、と思います。感情表現が豊かなので、例えば、後悔していることも家臣団の前で素直に表現できるのです。普段、後悔していることを口に出すのはなかなか難しいですが、家康はそれができるので、チャーミングだな、と。それが、ダメな部分でもあるのかもしれませんが、そこを古沢さんが上手に切り取って描いてくださるので、厳しい戦国時代の中でのクスっと笑えるシーンに繋がっていると感じています。でも、家康本人は、いたって真面目。僕も真面目に演じているだけなのに、真面目ゆえに面白くなったりすることが多いですね」


――ちなみに、「家康のこういう才能がほしい」と思うものは?

「長生きしたことでしょうか。生きるか死ぬかという戦国時代で、長く生きていなければ天下は獲れていなかったはずなので、あれだけ長生きできたことは、将軍になれた理由の一つだと思います。

あとは、自分の力だけで行わなかったことでしょうか。家康の周りの人が優秀だったという見方もありますが、自分一人で行わずに周囲に任せた。“たぬきおやじ”と言われている理由でもあるかもしれませんが、それも含めて一つの能力だと思います。誰が行うのかではなく、いかにして成功を収めるか、そのためにどんな方法を選択するかに重きを置いていた人物だと思っているので、適材適所を見極められるところも彼の才能だと感じています。そういう家康がどう描かれていくのか楽しみですね」



――そんな家康は、健康オタクだったとも言われていますが、長丁場の撮影を乗り切るにあたり、松本さんが実践している健康法は?

「食べるものにはこだわっています。撮影が始まってからは、『お米だけは炊こう』とか、『スープだけは作ろう』と、口に入れるものには気を付けていますね。睡眠時間がコントロールできないからこそ食べ物に気を付けていますし、体も動かしています。僕も長生きしたいので、健康には気を使っています!」

信長を演じる岡田くんは、家康が信長を思うように頭が上がらない存在 

――そして家康は、第1回から早速「桶狭間の戦い」で選択を迫られます。物語の序盤は、家康にとって大きな存在である今川義元と織田信長が登場しますが、2人に対してどのようなイメージをお持ちですか?

「台本上の解釈も含めて、義元公は家康をすごくかわいがっていたと思います。というのも、家康が次郎三郎だった時代ですが、自身の嫡男である(今川)氏真を支える一人として、人質の身である家康にも、しっかりと教育をしてくれました。とらわれの身でありながら家康は、駿府で何不自由なく育って楽しく過ごしていたのかな、と。第1話で描かれる『桶狭間の戦い』以降も、家康にとって義元公の教えはすごく大事なものとなっていると同時に、若い頃に教えてもらったことが、家康の人物形成に関係していると感じています」


――信長についてはいかがですか?

「家康は信長に対して、『こういう人が強くなるんだ、こういう生き方をしなければいけないんだ』という憧れを抱いていると思います。家康は実は幼い頃にも、信長と会っているので、尊敬とともに、昔の記憶からくる恐怖も感じているのかな。そういう思いも含めて信長と接していくので、受け身になるというか、信長の意見が全てであるかのように考えてしまう部分もあるのではないでしょうか。そういう意味では、目の上のたんこぶというか、頭の上がらない人ですね。でも物語が進むにつれて、信長との関係性も変化していきますので、その成長にもご注目いただけたらと思います」


――そんな信長を演じる岡田准一さんはどうでしょうか。

「僕は、岡田くんがV6の時代にジャニーズJr.としてバックで踊らせていただいていた直属の後輩なので、尊敬する先輩であると同時に、家康と信長の関係性のように、ある意味一生頭が上がらない存在です。そんな先輩に信長を演じてもらえることは嬉しいですし、『軍師官兵衛』(’14年)で大河ドラマの主演も経験されていますから、役だけではなくて、芝居の空間をどう動かすかなども学ばせていただいています」



――家康に良い影響を与えていく家臣団の皆さんとは、どのような距離感で撮影されていますか。

「撮影現場で会うのが、すごく楽しみですし、『今日は皆がそろうんだな』と思うだけで、ワクワクしますね。

演じている僕たちは、台本上で書かれている関係性よりも早い段階で深い関係になれたと思います。愛知県内でクランクインしたこともあり、泊りがけの撮影ということで、時間があった時には、ご飯に行って親交を深めることができました。撮影の合間も、甲冑を着たまま前室で待機するという苦労も共有できましたし(笑)、そういった時間のお陰で、あっと言う間に良い関係を作ることができたと思います。家臣団を演じる皆さんの年齢の幅は広いですが、皆で集まって演技についても言いたいことを言える環境です。イッセー尾形さんや松重(豊)さんなど先輩方が、そのような空気をつくってくださっているのかな、と」


――非常に楽しそうな撮影現場ですが、座長として松本さんが心掛けていることはありますか?

「『少しでも楽しく撮影ができたらいいな』という部分と、『少しでも早く(撮影が)終わったらいいな』というところでしょうか(笑)。今回は、映像面で挑戦していることもあるので時間もかかりますが、役者としては、鮮度があるうちに撮影をしたい。撮影現場に入ってきて新鮮な気持ちの状態で撮影を終えたい、というのが役者の心理だと思うので、共演者の方々が撮影現場に来た時にスムーズに進められるように、スタッフの皆さんにプレッシャーを掛けるのも、僕の仕事です(笑)。口ぐせのように『今は、何を待っている時間ですか?』と僕が聞く…(苦笑)。なるべくテンポよく撮影が進むように、且つ撮影現場の空気の良さを保てるように努めています」  

――そんな撮影もこれから続きますが、長丁場の撮影を乗り切るためのストレス発散方法などあったら教えてください。

「全く自分の時間が取れないというわけでもないので、映画やライブ、舞台を見に行くなど、これまでと変わらずエンターテインメントに触れています。ただ、今回で言うと、ストレス解消とは異なるかもしれませんが、愛知県だったり静岡県だったり、家康ゆかりの地を訪れてお仕事をさせていただくことが多いので、リフレッシュになっていますね。そういった時間も、どこかで作品作りに繋がったらいいなと思いながら撮影に臨んでいます」
  
    
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松本潤:従来のイメージとは違う“家康像”に挑んだワケ

 1月8日にスタートする2023年の大河ドラマ「どうする家康」で主人公・徳川家康を演じる松本潤さん。大河ドラマで主演を務める心境について、「『大河ドラマだからやっている』というのは特にないと思いますね。現場で役とどう向き合うかという基本的なスタンスは変わっていないです」という松本さんが、これまでに描かれてきたイメージとは異なる“新たな家康像”に挑んだ理由を明かした。

 ◇徳川家康役に本音「何で僕に? しかも家康?」

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 オファーを受けたとき、実は「一度お断りさせていただいたんです」と明かす松本さん。「『嵐』の活動を2カ月強ほど残している時期にお話をいただいたので、まだやることがたくさんあったときだったんです。せっかくいただいたお話でありがたかったのですが、この重大な決断を短い時間で下すのは難しいというお話をして、そのときはお断りさせていただきました。ですが、年が明けてからもお返事を待っていただけて。嵐が休止したタイミングで『新たに何か挑戦できることは何かな?』と考えた時に、『ぜひやってみたい』とお返事しました。そこまで待っていただけるなら、そこまで信じていただけるなら、僕でよければぜひ、という感じでしたね」

 今作で描かれる“家康像”について、「これまでに抱いていたイメージとは明らかに違う」と語る。「最初にオファーをいただいたときは本当にびっくりしました。『何で僕に? しかも家康?』という疑問がありましたね」と本音を吐露。「(家康は)“狸(たぬき)親父”と形容されるようなちょっと恰幅(かっぷく)のいい人物のイメージ。それこそ、津川雅彦さんや西田敏行さんなどが演じられていたので、年配の俳優さんが演じられている印象がありました。江戸幕府を開く頃の、年を重ねてからのイメージが強いです」

 一方、今作の家康については「か弱きプリンスとして描かれている部分はあるけれど、それと同時に博打じゃないですが、常に二択、三択を迫られて、別の道を選んだら死んでいたかもしれないところを、運も含めて生き延びる方を選んでこれた人」と評し、「そこを僕がどういうふうに表現できるかというところを、日々考えています」と真っすぐなまなざしで語る。

 「家康は長生きしたからこそ、最終的に戦国時代を終わらせて将軍になれた。江戸時代を切り開けた人なのかなというのを、自分が演じると決まってから、また演じながら改めて人物像を掘り下げていったときに考えました」

 ◇大河ドラマ撮影は「何だかすごいことをやっているなと実感」

 6月5日のクランクインから約半年が経過した。

 「民放の連続ドラマだと(撮影は)長くても3カ月半とか4カ月。その期間をすでに超えているのに、まだ1話も完成された物を見ていない。なんだか不思議な感覚ですね」と笑う。「家康を演じていると、『どうする?』を突きつけられて、1つ乗り越えたと思ったらまた次の問題が起きて……の連続。常に翻弄(ほんろう)されている感じです」と日々の撮影を振り返った。

 大河ドラマの現場は、「これだけたくさんのスタッフの方が常に一緒に動いている現場ってすごいな」と驚いたといい、「何よりまだ1年くらい撮影があるので、こんなに長い間、一人の人物を演じ続けることは後にも先にもないんじゃないかなと思いますね。ものすごいことを経験しているなと実感します」と吐露した。

 また、撮影中は「少しでも楽しくできたらいいなと思っている気持ちと、少しでも早く終わったらいいなと思う気持ち」があると語った。その上で、主演として現場の雰囲気作りに心がけていることを明かした。「鮮度があるうちに撮影をして、気持ちがいいタイミングで撮って帰りたいというのが役者の心理だと思うので、なるべくテンポよく撮影できるように、スタッフさんに『今は何を待っているんですか?』と口癖のように聞いていますね(笑い)。なんとかそれで現場の空気が悪くならないように頑張っています(笑い)」

 古沢さんが手がける脚本については「読んでいる時よりも、実際にやってみるとより面白い」と感じたといい、「(脚本を読んでいる時に)時間軸や動きの間尺が『ちょっとうまくいかないかもな』と思っていても、実際に動いてみるとぴったりということが多くてビックリします」と語った。

 「語尾を含めた言葉のチョイスなどワードセンスもすばらしいですし、何より人を驚かせたり、感動させたりする、心を動かすような仕掛けを作るのがとても上手な方だと思います」と絶賛。「キャラクターそれぞれの描き方、距離感の取り方もすばらしいですし、現場で役者の人たちが実際に動いてみると、想像してなかったことが起こるので常に面白いですね」と目を輝かせていた。



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座長として現場の空気を作っているのが伝わるインタビューですね。

大竹しのぶさんもラジオで言ってましたが、役者さん同士の関係性って隠しても画面から伝わるものだと。

みんなで良いものを作ろうという空気って、言うが易し行うが難しだと思うんですよ。
座長の仕事ってそれが最重要ポイントですよね!!

お話読んでるだけでクレバーさが伝わります。
頭が整理されていて、だからこそ色々なことを楽しみながら撮影出来てるんだろうなぁ💜👏



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徳川家康が切り抜けた10戦 概要・結果は

2022.12.23

 大河ドラマ「どうする家康」(主演・松本潤さん)で、注目される徳川家康。天下人となるまでに多くの戦を経験しました。家康の生涯を学ぶ上で、押さえておきたい戦・政変をまとめました。


記事



桶狭間の戦(おけはざまのたたかい) 永禄3年(1560年)、尾張田楽狭間(愛知県) 織田信長が今川義元を奇襲し、敗死させた戦い。徳川家康は今川氏に対する永年の服属関係を断ち、独立して織田信長と同盟し、武田氏と対抗することになった。 


三河一向一揆(みかわのいっこういっき) 永禄6年(1563年)、三河国西部(愛知県) 三河国西部で起きた一向一揆。徳川家康家臣の「不入」侵害行為に抗議する蜂起。家康にとって最初の軍事的危機で、一揆鎮圧で一国制圧の基盤を固めることができた。


姉川の戦(あねがわのたたかい) 元亀元年(1570年)、姉川河原(滋賀県) 織田信長・徳川家康連合軍が浅井長政・朝倉景健連合軍を撃破した戦い。将軍足利義昭が諸大名と連絡して信長包囲網を策すなど、この頃は信長にとっては困難な時代だったが、姉川の大勝は浅井・朝倉両氏の戦闘力に少なからぬ打撃を与えた。 


三方原の戦(三方ケ原の戦・みかたがはらのたたかい) 元亀3年(1572年)、遠江国浜松(浜松市) 武田信玄と徳川家康が三方原台地上で戦い、信玄の圧勝に終わった戦い。家臣たちが家康の身代わりとなって討死し、家康はそれら家臣の犠牲によって浜松城へ逃げ込むことができた。 


長篠の戦(ながしののたたかい) 天正3年(1575年)、三河国設楽原(愛知県新城市) 織田信長・徳川家康連合軍が武田勝頼の軍を破った合戦。鉄砲が組織的に活用され、織田・徳川・武田の勢力関係が一変した。三方原の戦に敗走した家康は武田氏の前に著しい苦境に陥っていたが、この戦を契機に勢力を回復し、関東方面へ計略の手を伸ばすことが可能になった。  


本能寺の変(ほんのうじのへん) 天正10年(1582年)、本能寺(京都府) 明智光秀が織田信長を急襲して自刃させた反逆事件。 家康は当時、堺にいたが「伊賀越え」で帰国した。 


小牧・長久手の戦(こまき・ながくてのたたかい) 天正12年(1584年)、尾張国小牧・長久手など(愛知県など) 羽柴秀吉(豊臣秀吉)と、織田信雄・徳川家康とが展開した戦い。実質的に機内(京都・大阪など)を支配する羽柴秀吉と、織田政権の継承を期待する織田信雄との対立が表面化し、劣勢な信雄は徳川家康に援助を求めた。信雄と秀吉が講和し、家康も撤兵した。家康の二男・結城秀康が秀吉の養子となった。この戦いによって豊臣政権下における徳川家康の地位が確立した。 


小田原征伐(おだわらせいばつ) 天正18年(1590年)、小田原(神奈川県) 全国統一を進める豊臣秀吉の大軍が、関東の雄・北条氏の本城小田原を包囲攻略し、早雲以来5代の覇を誇った北条氏を滅亡させた戦い。徳川家康は、豊臣軍で先頭を切る「先鋒」を務めた。秀吉はこの後、北条氏の旧領(関東)を家康に与えた。


関ケ原の戦(せきがはらのたたかい) 慶長5年(1600年)、美濃関ケ原(岐阜県) 豊臣秀吉の死後の豊臣政権での主導権について、徳川家康らの東軍と、石田三成らの西軍が争った戦闘。東軍が勝利した。関東から機内を結ぶ諸国には、家康の譜代の武将が配置され、江戸幕府の大名配置の原型が完成した。家康の実力は圧倒的なものとなったが、この時点ではまだ豊臣政権の五大老の立場だった。 


大坂の陣(おおさかのじん) 冬の陣=慶長19年(1614年)、夏の陣=元和元年(1615年)、大坂 

関ケ原の勝利により政治の主導権を獲得し、慶長8年(1603年)には征夷大将軍になった徳川家康は、豊臣秀吉の子・秀頼に臣従を迫ったが、豊臣氏は家康に対抗するようになった。 冬の陣では、秀頼らの身分保証の代わりに、大阪城の軍事的価値を奪って講和した。その後の夏の陣では、秀頼の助命懇願を受け入れず、秀頼と母の淀君の自殺により豊臣氏を滅亡させた。戦後には統制を強化し、幕府の基礎を固めた。 

※吉川弘文館の「国史大辞典」を元に作成。



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非常に簡潔に分かりやすいですね😊

有難いです。