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[どうする家康] 第1回 2分ダイジェスト | 主君 今川義元が織田信長に討たれ…どうする!?| 大河ドラマ | NHK
なぜ今、家康なのか?【後編】
学び直したい「家康」②
家康を強くした「三方ヶ原」の大敗北
こうした家康の人材観がいつごろ、どのように形成されていったかを考えたとき、一つ思いあたるのが、三方ヶ原の戦いの大敗北である。
三方ヶ原の戦いというのは、元亀3年(1573)12月22日、浜松郊外三方ヶ原で、家康が武田信玄と戦い、完膚なきまでに打ちのめされた戦いである。このとき、8000人いた家康軍のちょうど一割にあたる800人が討ち死にしたという。実は、この戦いで逃げる家康の身代わりになって死んでいった家臣が何人もいた。つまり、家康は、そうした家臣たちの犠牲によって生きのびることができたわけである。そのことによって、家康は、「自分は家臣によって生かされた」と強く思うようになったのではないかと考えられる。
越前の戦国大名朝倉氏の一族部将朝倉宗滴の『朝倉宗滴話記』に、「巧者の大将と申(もうす)は一度大事の後(おくれ)に合たるを申す可く候」という一文がある。
「大事の後」とは大敗北のことである。この言葉を家康が聞いていたわけではなく、読んでいたわけでもないが、三方ヶ原の大敗北は家康にとって文字通り「一度大事の後」に該当する。挫折をバネに飛躍していったことがうかがわれる。
「人生あきらめては駄目だ」ということと、もう一点、この大敗北あたりから、家康の家臣に対する考え方が違ってきている点も注目される。
家康が口癖のようにいっている言葉に、「宝の中の宝というは人材に如(し)くはなし」、つまり「家臣こそわが宝」というのがあるが、そうした言葉を発するようになるのは、この三方ヶ原の大敗北からである。
歴史を学び続けた家康に学ぶ
さて、家康の人間的魅力として、最後に私が取りあげたいのは、家康が一生、学ぶ姿勢を持ち続けていた点である。よく本を読んだし、藤原惺窩(せいか)から学者の講義もよく聞いていた。
大御所時代、家康の侍医として、家康のすぐそばにいた板坂卜斎が『慶長記』を著わしているが、その中で、「家康公、書籍すかせられ」として、中国の漢籍として愛読していたものは、『論語』『中庸』『漢書』『六韜(りくとう)』『三略』『貞観政要』の6つをあげ、和本では『延喜式』『吾妻鏡』の2つをあげている。
『六韜』『三略』は『孫子』などと同じく兵法書なので、武将として必読文献といった印象はあるが、『貞観政要』は、唐の太宗が群臣と政治上の得失を論じた際の言葉を集録したもので、いわば太宗の政治論が集約されたもので、政治論書である。
また、大御所になったあと、駿府城内に駿河文庫という私設図書館を設けているが、その蔵書をみると、漢籍では『史記』、和書では『日本書紀』『続日本紀』『源平盛衰記』などの歴史書が目立つ。家康は『吾妻鏡』を愛読していたことが知られているが、歴史書をよく読んでいたことがうかがわれる。
家康のすごいところ、それは家康の人間的魅力ということになるが、さらに注目すべきはそれらの本を、自分が一人で読むだけではなく、多くの人に読んでもらうべく、印刷している点である。家康がなぜ出版事業を推進しようとしたのかについて『徳川実紀』は次のように記している。
人倫の道明かならざるより、をのづから世も乱れ国も治まらずして騒乱やむ時なし。この道理をさとししらんとならば、書籍より外にはなし。書籍を刊行して世に伝へんは仁政の第一なり。
戦国争乱に終止符を打つための方策をいろいろ考えていた家康がたどりついた一つが文治政治で、その柱が出版事業だったわけである。
家康の出版事業は、「伏見版」と「駿河版」の2つがあり、「伏見版」は慶長4年(1599)から同11年にかけて、京都の伏見で印刷させたもので、『孔子家語』『貞観政要』『周易(しゅうえき)』『東鑑』などがあった。この『東鑑』は家康の愛読書だった『吾妻鏡』のことである。
将軍職を秀忠に譲ったあと、駿府城に移った家康が慶長12年以後、駿府で印刷をはじめたのが「駿河版」で、『大蔵一覧集』と『群書治要(ぐんしょちよう)』があった。
『大蔵一覧集』は仏典の中から最も必要な部分を抜粋して編集したもので、『群書治要』は、唐の太宗が魏徴(ぎちょう)らに命じて、群書の中から政治上の要諦を抜粋させたもので、家康は武断政治から文治政治への切り替えを進めようとし、それが実を結び、「徳川の平和」が260年続くことになったわけである。
監修・文/小和田哲男
<自分が一人で読むだけではなく、多くの人に読んでもらうべく、印刷している点。
家康がなぜ出版事業を推進しようとしたのかについて『徳川実紀』
人倫の道明かならざるより、をのづから世も乱れ国も治まらずして騒乱やむ時なし。この道理をさとししらんとならば、書籍より外にはなし。書籍を刊行して世に伝へんは仁政の第一なり。
戦国争乱に終止符を打つための方策の一つが文治政治で、その柱が出版事業だった。>
やはり凄いお方だ!