【高野山参拝】ー奥の院参詣と高野山大学卒業式のあれこれ~稚児大師様の思い出によせて~ | 普門院だより~アメブロ版~

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大変ご無沙汰しております。

 

 ブログも更新できないまま日が過ぎ、気がつけば年末年始に更新してから二ヶ月が経過して

 

 おりました。

 

 どなた様もお変わりなくお過ごしでしょうか。

 

 まず、私事で誠に恐縮ながら、当寺の後継者である長男がこの度、無事に高野山大学を卒業

 

 致しました。

 

 これもひとえにお陰様だと思っております。

 

 私も副住職と共に高野山に登り、息子の大学卒業式に参列して参りました。

 

 コロナ禍以来、実のところ県外には一度も出ておりません。

 

 そのため、今回の高野山参拝旅行が三年ぶりの県外旅行ともなりました。

 

 一泊二日の予定で息子がお世話になっているお寺に泊めていただき、

 

 初日に奥の院へとお詣りしました。

 

 樹木が鬱蒼と生い茂る清浄な空間は、いつお詣りしても良いですね。

 

 自ずと頭を垂れるような、敬虔な気持ちになります。

 

 ここに身を置いただけで、心が洗われるようです。

 

 と、改めて弘法大師様が下さるお力を感じさせて頂きました。

 

 今日、ご紹介するのは今回の参拝で購入したお守りです。

 

 とはいえ、これは奥の院やお寺で購入したものではありません。

 

 宿坊の近くのお土産物屋さんで見つけたものです。

 

 「稚児大師様」が小さく檜にプリントされています。

 

 

 

 

 

 

 稚児大師様は、文字の通り、お大師様のご幼少の頃のお姿です。

 

 お大師様は御幼名を「真魚まお」様といわれ、大変聡明なお子であられたようです。

 

 その頃のお姿だといわれています。

 

 話はかなり昔に遡りますが、私の母である住職が修行のため高野山に登ったのは

 

 もう、かれこれ50年前のことでした。

 

 当時はまだ私も幼く、母は私は一人置いて遠い高野山に登るのは気懸かりだったようです。

 

 しかし、周囲の勧めもあり、当時は私の父も健在でしたから、

 

 私のことは祖父母に任せ、一人、高野山に登りました。

 

 そのときの修行そのものは二週間でしたが、

 

 母にとっては長い時間であったようです。

 

 後に聞いたところろによれば、家に残してきた私のことを考えない日は無かったそうです。

 

 その修行の最中、稚児大師様の尊像を母が見かけたときの話です。

 

 母は一瞬、幼い頃のお大師様のお姿に、遠い我が家に残してきた幼い娘の面影を見たのだと

 

 語ります。

 

 畏れ多いことですね💦

 

 ですが、子を思う母の心は、そのようなものかもしれません。

 

 自分自身が母親になった今であれば、当時の母の気持ちはよく理解できます。

 

 片時も残してきた我が子を忘れられなかったからこそ、たまたま拝した稚児大師様のお姿が

 

 幼い娘と重なって見えたのでしょう。

 

 修行を無事終えた母は、その時、高野山であるものをお土産に携えて帰ってきました。

 

 そのお土産というのが、他ならない稚児大師様の小さなお像でした。

 

 小さいといっても、手のひらくらいの大きさで、かなり大きめです。

 

 母は私が日々使う勉強机の上に稚児大師様を飾りました。

 

 まさに、大学を卒業するまでの長い間、稚児大師様はいつも少し高みのその場所から

 

 私を見守って下さっていたことになります。

 

 今でも、その尊像はずっと同じ場所にあります。

 

 今ではその部屋を使うことはなくなったのですが、

 

 たまに行っては尊像を見上げ手を合わせます。

 

 私にとっては幼い時からずっと側にいて下さり、見守って下さったお像です。

 

 30歳を過ぎて写仏をするようになってから、稚児大師様のお手本に接する機会があり

 

 初めて稚児大師様を描いてみました。

 

 そのときに描いた尊像は、我が娘の勉強机の側に飾っています。

 

 まさに、母娘二代にわたり、稚児大師様はその成長を見守ってくださいました。

 

 さて、その母ですが、今は80歳を過ぎ、高齢になりました。

 

 多少足腰は弱りましたが、元気です。

 

 その母からは私が幼い頃の話を様々と聞きましたが、中でも忘れがたいものがあります。

 

 私の祖父母ー先代住職は、立派な人でしたが、明治生まれの気むずかしい人でもありました。

 

 祖母も同様です。

 

 この世代の方は気骨のある方が多い反面、今の若い方からは信じられないような気難しさが

 

 あったのです。

 

 しかも、我が家は寺でした。

 

 一般家庭から寺という特殊な環境に嫁いできた母は、気むずかしい祖父母に仕え

 

 (現代では嫁が義両親に「仕える」なんて言葉はナンセンスですけど、当時は、それが当たり前でした)

 

 時には実家に戻りたいと思うほど辛いこともあったそうです。

 

 あるとき、里帰りした母は母方の祖母にふと弱音をもらしたそうです。

 

 まあ、てっとり早くいえば、実家に帰りたいといったところだったのでしょうか。

 

 その時、祖母は

 

 ーそんなに辛いなら、帰っても構わないけど、らび子はお寺の跡継ぎじゃから一緒に連れて

 

 帰ることはできない。あんたが育てることはできないよ。

 

 と母を諭したそうです。

 

 それを聞いた母は、一人娘を手放すほどなら自分が泣いても我慢しようと決意したそうです。

 

 そんな母は、

 

 ー義両親に叱られる度に、こっそりと泣いていたけど、らび子の笑顔を見ると救われた。

 

 最近、よく言うようになりました。

 

 私自身、父方の祖父母とは大学生になるまで一緒に暮らしました。

 

 私には優しい祖父母で、可愛がってもくれましたが、やはり

 

 気むずかしい面はあったと記憶しています。

 

 ましてや母は嫁ですから、私が感じる以上の気苦労があったのでしょう。

 

 もし、私がかつての母の立場であったとしたら、泣くほど辛いなら

 

 たとえ娘を手放すことになっても、実家に逃げ帰っていたかもしれません。

 

 それだけ母の愛情が深かったことになります。

 

 今から思えば、よくぞ思いとどまってくれたと心から感謝したい気持ちです。

 

 母が側に居ない子供時代など、今でも考えられませんから。

 

 「稚児大師様」には、様々な想いがあります。

 

 こちらの購入したお守りは、檜で出来ていますので、何とも清々しい香りがほのかに

 

 漂います。

 

 お大師様がいらっしゃる奥の院に参詣したときに感じる、あの清々しさに

 

 よく似ています。

 

                              合掌