「幸せの処方箋です」再アップです!
小生、根もアホなのですが、職制上常に心がけていることは「時勢を見る目の確かさ」です。
今年は建国2681年目ですが、重層的な時間を重ねた「国史」は昨今の文献だけを読むだけで理解できるような、否、たかだか100年弱の人生で悟ることなどは到底不可能なことは容易に理解できますネ
しかし、皆様方が今まさに歩いているその1歩・・・。それは昨日までこの世に存在し、私たちの生活を支えてきた数え切れない仲間達が踏んでいた「道」であることは実感可能ですよね
もしかしたら、昨日まで当たり前に歩いていた「見知らぬ誰か」は、もうこの世にはいないのかもしれません・・・。
もしかしたら、昨日まで当たり前に歩いていた「見知らぬ誰か」は、貴女のスマホや食材を生産してくれている身近な恩人かもしれません・・。
貴女が踏みしめているその1歩こそが、実は「歴史」そのものなのですネ
復習ですが、私たちは「何のために生きるにか?」と問われれば、それは「傍(はた)」を「楽」にする為。
すなわち「傍楽=働く」ことによって、自身の生活に足りない「モノ」を、他者から提供してもらい、他者が必要としている「モノ」を自身が提供するという「互助互譲(ごじょごじょう)」をそれぞれが発揮する為であります
従って「自分の命は自分だけのものではない」・・・・。
かけがいのないお子様、夫や妻、親、そして「自分」という「点」と他者という「点」が目には見えぬ「一本の線(=我が国固有の神社神道では赤い糸といいます)」で複雑に繋がり合って、私たちの社会は構成されているのです
「なんだ・・。当たり前じゃないか~。」と聞こえてきそうですが、「時勢を見る目の確かさ」とは、重層的に繋がってきた昨日までの「縦の赤い糸」=(国史)と、今まさに私たちが繋がり合って支え合い生きることができている「横の赤い糸」を意識することで養われていきます
これ即ち「共生する民族性」と言い換えても良いでしょう
さてっ今、お話した「縦横の赤い糸」から繋がり合う「共生」を心に留めて、もう1度、貴女の目に見える様々な「景色」を見直してみてっ
何気ないけれども、町並みを支える全ての「人々」になんとなくながらであっても「ありがとう~~君たちがいてくれるから、生きていることができているんだな~感謝!」って気持ちが「ふっ」っと湧いてきませんか?(逆に・・・こいつ何なの?少しは「お互い様」って気持ち持とうよっという輩もまたくっきりと見えてみるかも・・・)
貴女が持ったその「ありがとっ」っていう気持ちを、貴女の友達が、貴女の家族が、貴女の知り合いが、しっかりと思い出すことによって、実はこの国を覆っている様々な「負の空気」が洗い清められていくのですネ だって先人が蒔いた「根」はちゃんと生きているのですから・・・
「感謝」といたった一つの心を持つためには、どうしても「共に生きている」という「命の繋がり」を遮断してはNG
小生の持論ではありません・・。
縄文晩期に先人が蒔いた一粒の種はすくすくと生長し、「日本の固有文化」として深く根を張ってくれているお陰なのです(←ここに多くの著名な外国人が感嘆したのです)
親鳥が命をかけて卵を暖める姿を「羽で包(くる)む)」ので「羽包む=育む」と発音します。
親から子へ、子から孫へ・・・。「卵」を暖めるが如く、先人は「共に生きるアイデンティティー」を幼児の段階で伝える努力をしてきました
これを「教育」と言うのです
一つ良い例をあげましょう!
おとぎ話「桃太郎」で、桃太郎が鬼退治に行くときに、犬、猿、キジにキビ団子を上げる件がありますよネ
これこそが「例え他人ではあっても、共に同じモノを食べて、同じ目標に向かって一同、力を合わせる」という「傍楽(はたらき)の心」をおとぎ話という形で、子供達に教えている典型です
浦島太郎が亀を助けた件も、見返りを求めずに、困っている他者を楽をする心を教えていますネ
反面、自分さえよければ・・・・という欲望に走ってしまった結果、太郎は寂しい最後を迎えてしまいます・・・。
ここにもまた、自分という存在は、目には見えぬとも、どこかの誰かを楽にする可能性をもった「尊い存在」であることをちゃんと教えているのです
妙な理屈はいらない・・・。誰かを笑顔にすることそれが自分の喜びに繋がり、それがこの国の将来を確実なものにする
歴史というのは日々の積み重ねであることはすでに述べた通りです!
先人は「日々の積み重ね」を「知る」者こそが、人々の良い見本であると私たちに教えてくれています。
それを「日知り=聖(ひじり)」と言うのです
それぞれが生きた時代にはそれぞれに艱難辛苦がありました。
その時代時代に流れていた時代背景の中で先人は必死に「将来」を守ろうと模索してきたのです。
結果、その延長線上に私たちは生かされていることは事実であり、「今の空気感」だけを持って、あいつは悪い奴だった!非道な奴だった!などと言うのは卑怯者の理屈です。(そんなこと言っていたら、その当時の司法判断すら否定していることにもなるでしょ・・)
最近はやたらと「なんとかの自由」とか「なんとかの権利」があって、法律でどうのこうの!と騒ぎたてる人が多すぎると思います・・・。それでなんとか法案なんてよく考えずに国会で通してしまい、数年後には全国いたるところで裁判だらけになる。結局、差別という風潮を現代社会は世論で作り出してしまっているように思えてならないのです・・・。
数十年前にいっせいに騒がれた「お塩差別論」・・・。これだって以前綴った「お塩」のお話を、お目を通していただけたら、よりご理解いただけると思いますので、どうぞ宜しくお願い申し上げます