2年前に日本の風土に則った「自由の捉え方」について綴った記事です。よろしければご参照ください
なんでリグログしたのかと言いますと、ちょっと志向は異なるのですが、根ざす意は同じであると考えたからです。
先日、大変気が短くて職場でも家庭でもすぐにイライラするとお悩みの方から「如何にしたらもっと寛大な精神を持つことが出来るのか!」とご相談・・・(っていうか、恫喝じみた言い方で)を受けました。
このままだとすぐにDV扱いされて人生おじゃんになるかもしれないから、神様に毎日拝んだら良くなるのか?・・とか、どんな修練を積んだらいいのか・・・等等・・・。
焦る気持ちがわかりますが、わたし自身は、この方が如何なる行動をなされたとしても短気が治るとは考えておりませんでした。
したがってお答えは「無理ですね」と素直に言いました。
だって、人間の感情は氷山みたいなもので、見えている部分なんて海上にうかぶ先端ほどで、あとは目には見えない海中に様々な感情が入り混じって構成されているもの・・。
見える部分を見える行動に移したからとて本質的な「心=物事の捉え方」を変えない限りすべての修練などは形骸化するだけだと思うのです
そもそも人間誰だって「怒る」という感情は本能的に持ち合わせておりますし、あとはそれを「知恵・理性・道徳」によって上手に制御するほかないございません・・・。
ではイライラを制御する思考法ってどうしたら良いの?・・・ということですが、先人は一つのヒントとして「はてな?」という間投詞を残してくださいました
「はてな?」とは、疑問を感じた時に思わず口にする言葉で、これを文法では「間投詞」といいます。
「はて」が間投詞で、「な」は関東女子←わかったわかった・・・もうこういうのいらないから・・・はい!ごめんなさい・・・間投助詞ですね!
しかしですね~~間投詞とか間投助詞なんて教え方されるから「勉強嫌いじゃ!」なんて思われちゃうのかな~と思うこともしばしば・・・他方では、正確な文法なので、これはこれで理解しなきゃな~とも思うのです
さて、短気やイライラと対峙する思考法になぜ「はてな?」なのでしょう?
そもそも「はて」とは疑問に感ずる物事を突き詰めて、より良い答えを導き出すという意味です
とまり「はて」とは「世界の果て」というように、「果て」の意味なのです
したがって、イライラするのは避けられないながら、「自分がこの後、感情に任せて言いたい放題、やりたい放題の言動に出たら、周囲はどんなに嫌な思いになるだろう・・・」っと、「果てな?」っと自身の心に問いかけて、言動の「果て」を想像するのです。
現代に生きる私たちは案外とこの「はてな?」の意(こころ)を吟味しないまま口にしているので、なんとも「もったいない」と思うのです
人生には必ず「果て」が定められており、果てた時にこそ、その方の生き様が形となり記憶となり、しばらくは語り継がれます。
その時を常にイメージすれば、目先の悪しき欲望や感情任せの行動が如何に無駄な労力だったを前もって感ずる、後悔ならぬ前悔が可能となります
是非「はてな?」の意を理解して、幸せの処方箋として頂ければ幸いに存じます