今回は、性格判断とか、心理分析とかのお話です。
ダイエットともそれなりに関係はあります。
「はい」か「いいえ」で答える心理テストは、どう答えたらいいものかと悩むものが多くて困ります。
たとえば、「やると決めたことは、最後までやりとげられる方だ。」
「はい」or「いいえ」
そんなふうに聞かれてもなあ・・・
うーん、真剣に考えるほど答えようがなくなるぞ・・・
いちおう、そういうふうに心がけているつもりだから、「はい」
でも、そんな答えの出し方をしてしまうような質問で、性格とか分析できるものなのかなあと思ってしまいます。
自分はこういう性格になりたいというふうに、イメージで成り切ったつもりで質問に答えていくと、心理テストの結果は大きく変わるだろうと思います。
まあ、ある程度の傾向は分析できるのだと思いますが、自分が主観的にどういうふうに思っているのかと実際の自分とではかなり違うのではないかと思います。
そんな性格診断は「思い」が大きくからんでくるので、なかなか難しいものだと思うのですが、「具体的な事実」ではっきりと分かるものがあります。
それは、夏休みの宿題を先に終わらせてしまうか、最後の最後に追い詰められてから取り組むか、という違いです。
これは、本当に大きな差だと思います。
私は、まあかなりひどいものでした。
ずーっと宿題のことが気になりながら、夏休みをすごすのです。
「はぁー、宿題さえなければ、夏休みは本当に最高なのに・・・」
「宿題さえなければ・・・」
はやくやればいいのにって思いますよね。
今の自分だったら、きっと違うはずだと信じたいのですが、当時は、抵抗のしようがなかったです。
8月の後半あたりから、実際のところ、どれくらい時間が掛かりそうかの見当をつけ始めます。
「1日じゃとても無理だな。2日あれば、なんとかなるか?いや甘いか?うーん、2日あれば多分いけるだろう。でも、自由工作とか読書感想文とか、どうなるんだろう?」
そして、8月30日と8月31日で必死に頑張って、なんとか終わらせていました。
終わらせていたといっても、まあ、ひどいものです。
絵日記とか特にひどかったですよ。毎日の天気なんか、今さらわかるわけがない。
だいたいの雰囲気で、晴れ、晴れのちくもりとか適当に書いてました。
もう、ばればれもいいところだったのでしょう。
中学に入ってからも、内申点に大きく関わってくるというのに、宿題は超あとまわしで、最初の授業に間に合えばなんとかなるって感じで、9月に入ってからやったりしていました。
(9月に入ると、先に授業があった他のクラスで解答集が配られるのです。その答え(途中の式も)を書き写すだけで何時間も掛かっていました。ごめんなさい。間に合うわけがありませんでした。あれがなければ、どうなっていたことやら。)
でも、そんないやいややらされていただけの夏休みの宿題ですが、けっこう感謝もしています。
中2か中3のとき、国語の夏休みの宿題が、漢字のテキストを1冊全部覚えることでした。
夏休み明けの9月に漢字テストがあるからどうしてもおぼえなければということで、仕方がないと思って真剣に漢字の勉強をしました。
結局あのときに覚えたものが大きな支えになってくれました。
それ以降、まともに漢字の勉強なんてしたことがなかったのに、だいたいなんとかなったのは、夏休みの宿題のおかげだろうと感じています。
夏休みの宿題を先に終わらせようとするか、最後の最後に追い詰められてから取り組むか、というのは、性格的にきれいに分かれていました。
毎年、毎年、はやめに終わらせる人は終わらせるし、追い詰められる人は追い詰められるし、はっきりとした差を感じていました。
夏休みの宿題をはやばやと終わらせられる人がうらやましくて仕方がありませんでした。
あとまわしにばかりして、計画的に実行できない自分が情けなくて、いやだなあとずっと思っていました。
でも、なぜそういう違いがあるのかを詳しく調べていくと、夏休みの宿題をはやめに終わらせようとする人は、やらなければいけないことがあるという状態がすごくいやで、その状態からはやく逃れたくて仕方がないというふうに思っているみたいで、最後の最後にやろうとする人は、そうは言っても、まあ別に大した問題ではないと思っているみたいだということがわかるようになりました。
計画的に実行できるかできないかという要素よりも、どの程度恐れているのかという要素の方が大きいみたいだなあと思うようになったのでした。
芸術に関するいろいろなジャンルで、奇蹟的な作品が生まれてくるのは、時間的に追い詰められて、普段の自分の冷静さを失って、火事場のクソ力のようなものが働いたときがとても多いです。
自分でもよくこんなものができたものだと驚くような奇蹟的なものが生みだされるには、冷静で計画的な行動だけでは、きっと足りないのだろうと思います。
まあ、とは言え、最後の最後まで追い詰められないと行動に移せないのは、やっぱり情けないものだと思っていました。
そんなところに、最近の心理学に関する研究で面白いものを見つけました。
「宿題は8月31日にやる子ほど自信家で時間を有効活用できていることが判明」
http://www.yukawanet.com/archives/3875901.html
たしかに、心の底では、「宿題ごとき、本気になれば何とかできるはず」と自信は持っているなあと思いました。
時間を有効活用できている、っていうのはどうなんだろうかと思いますが。
宿題にはやめに取り組むことをメリットとデメリットで考えると、
メリット:もういやな宿題をやらなくてよくなる、気分が晴れる
デメリット:かなりしんどい
宿題ごときなんとかなるだろうと思っている人ほど、メリットは小さく、デメリットは大きく感じるのでしょう。
ちなみに、夏休みの宿題を後回しにして、最後の最後に追い詰められてやるという人は、太りやすいタイプです。
夏休みの宿題を後回しにするのがいやなので、なるべく先にやろうとする人は、最後に仕方なくという人よりは、太りにくいタイプです。
自分の周りの人を見ている限りでは、そのようになっています。
後回しにして追い込まれる人は、「まあ、なんとかなるだろう。」「まあ、なんとかできるだろう。」というふうに楽天的で、細かいことは気にしない。心の底では自信家。(でも、当の本人はそんなふうには思っていない)
こういうタイプの人は、「おなかいっぱい?そんなの関係ない。」「こんなにおいしいんだから、食べたいように食べさせてくれ。」というふうになるのでしょう。
追い込まれるのがいやで、なるべく先にやろうとする人は、追い詰められて苦しくなるのがすごく嫌で、少し繊細な傾向があります。
こういうタイプの人は、おなかがいっぱいになったら、これ以上食べるのは苦しいと感じて、食べ過ぎになりにくい傾向があるようです。(後回しにする人と比べるとということですが。)
夏休みの宿題というのは、その人がどういうふうに取り組むかで、性格や気質がはっきりと出るので、かなり興味深いリトマス試験紙だと思います。
次回は、にせの空腹感について、まさかこんなことが影響が大きかったなんてという話です。
おなかがすいたなあと思っても、実はあることが原因となっていてだまされているだけで、その影響をなくせば、実はおなかがすいていなかったということに気づく可能性がかなり高いです。
これに気づくか気づかないかは、ダイエットの成功ともかなり関係してきます。
ぜひとも知っておいて欲しいと思います。
このことは、人間と動物との大きな違いともなっています。言われてみれば、まったく違うと気づくと思います。
普段、意識していないので、そんなことが影響しているなんて思いもしないでしょう。
自分でも気づいたときまさかと思いましたから。
次回はアメンバー限定記事にする予定です。
P.S.
夏休みの宿題というと、どうしても思い出すことがあります。
それは、小学校時代に、読書感想文40冊分という夏休みの宿題を出す男の先生がいたことです。
私が3年とか4年のときに、5年生や6年生の担任を受け持っていて、その5年生や6年生の人たちから話を聞くたびに、震え上がっていました。
子どもや親からも反発の声が上がって、いろいろと揉めていたという話も聞き、そりゃあそうだろう、やばすぎると思っていました。
読書感想文以外にもいろいろと宿題を出されていたのかもしれません。
とにかく、1日1冊分の読書感想文というのノルマのインパクトは強烈で、もしも自分の担任の先生になったらいったいどうなるんだろう、と脅えまくっていました。
だいたい、読書感想文というのは、いまだにどのように書くのがよいのか、よくわかりません。
感想を中心に書いたら、「○○はすごいなあと思った」「○○が××したところは、よかったなあと思った」とかばっかりで、書いてて情けなくなるし、その本を読んだことがない先生もわからないだろうし・・・
かといって、説明的なことばかり書いていると、あらすじ文?みたいなものになってしまうし・・・
だから余計に読書感想文は、恐ろしかったのです。
40冊分なんて、お化け屋敷よりはるかに怖かったですよ。
でも、そのすぐあとに、その先生は、近くの小学校に転任していき、なんとか無茶な宿題を出されずにすみました。
そして、その先生は、その後事件をおこして、問題になったのでした。
かなり精神的におかしくなっていたみたいです。
読書感想文40冊分出す時点で、すでに正常な状態ではなかったのだろうなあと思います。
背が高くて足も速くて、みんなのあこがれの先生だったのですが、夏休みの宿題が、わかっているだけでも読書感想文40冊分とか、ちょっとまともじゃないとわかって、警戒するようになったのでした。
そして、その後、事件が発覚してということで、ちょっとほろ苦さもあります。
ダイエットともそれなりに関係はあります。
「はい」か「いいえ」で答える心理テストは、どう答えたらいいものかと悩むものが多くて困ります。
たとえば、「やると決めたことは、最後までやりとげられる方だ。」
「はい」or「いいえ」
そんなふうに聞かれてもなあ・・・
うーん、真剣に考えるほど答えようがなくなるぞ・・・
いちおう、そういうふうに心がけているつもりだから、「はい」
でも、そんな答えの出し方をしてしまうような質問で、性格とか分析できるものなのかなあと思ってしまいます。
自分はこういう性格になりたいというふうに、イメージで成り切ったつもりで質問に答えていくと、心理テストの結果は大きく変わるだろうと思います。
まあ、ある程度の傾向は分析できるのだと思いますが、自分が主観的にどういうふうに思っているのかと実際の自分とではかなり違うのではないかと思います。
そんな性格診断は「思い」が大きくからんでくるので、なかなか難しいものだと思うのですが、「具体的な事実」ではっきりと分かるものがあります。
それは、夏休みの宿題を先に終わらせてしまうか、最後の最後に追い詰められてから取り組むか、という違いです。
これは、本当に大きな差だと思います。
私は、まあかなりひどいものでした。
ずーっと宿題のことが気になりながら、夏休みをすごすのです。
「はぁー、宿題さえなければ、夏休みは本当に最高なのに・・・」
「宿題さえなければ・・・」
はやくやればいいのにって思いますよね。
今の自分だったら、きっと違うはずだと信じたいのですが、当時は、抵抗のしようがなかったです。
8月の後半あたりから、実際のところ、どれくらい時間が掛かりそうかの見当をつけ始めます。
「1日じゃとても無理だな。2日あれば、なんとかなるか?いや甘いか?うーん、2日あれば多分いけるだろう。でも、自由工作とか読書感想文とか、どうなるんだろう?」
そして、8月30日と8月31日で必死に頑張って、なんとか終わらせていました。
終わらせていたといっても、まあ、ひどいものです。
絵日記とか特にひどかったですよ。毎日の天気なんか、今さらわかるわけがない。
だいたいの雰囲気で、晴れ、晴れのちくもりとか適当に書いてました。
もう、ばればれもいいところだったのでしょう。
中学に入ってからも、内申点に大きく関わってくるというのに、宿題は超あとまわしで、最初の授業に間に合えばなんとかなるって感じで、9月に入ってからやったりしていました。
(9月に入ると、先に授業があった他のクラスで解答集が配られるのです。その答え(途中の式も)を書き写すだけで何時間も掛かっていました。ごめんなさい。間に合うわけがありませんでした。あれがなければ、どうなっていたことやら。)
でも、そんないやいややらされていただけの夏休みの宿題ですが、けっこう感謝もしています。
中2か中3のとき、国語の夏休みの宿題が、漢字のテキストを1冊全部覚えることでした。
夏休み明けの9月に漢字テストがあるからどうしてもおぼえなければということで、仕方がないと思って真剣に漢字の勉強をしました。
結局あのときに覚えたものが大きな支えになってくれました。
それ以降、まともに漢字の勉強なんてしたことがなかったのに、だいたいなんとかなったのは、夏休みの宿題のおかげだろうと感じています。
夏休みの宿題を先に終わらせようとするか、最後の最後に追い詰められてから取り組むか、というのは、性格的にきれいに分かれていました。
毎年、毎年、はやめに終わらせる人は終わらせるし、追い詰められる人は追い詰められるし、はっきりとした差を感じていました。
夏休みの宿題をはやばやと終わらせられる人がうらやましくて仕方がありませんでした。
あとまわしにばかりして、計画的に実行できない自分が情けなくて、いやだなあとずっと思っていました。
でも、なぜそういう違いがあるのかを詳しく調べていくと、夏休みの宿題をはやめに終わらせようとする人は、やらなければいけないことがあるという状態がすごくいやで、その状態からはやく逃れたくて仕方がないというふうに思っているみたいで、最後の最後にやろうとする人は、そうは言っても、まあ別に大した問題ではないと思っているみたいだということがわかるようになりました。
計画的に実行できるかできないかという要素よりも、どの程度恐れているのかという要素の方が大きいみたいだなあと思うようになったのでした。
芸術に関するいろいろなジャンルで、奇蹟的な作品が生まれてくるのは、時間的に追い詰められて、普段の自分の冷静さを失って、火事場のクソ力のようなものが働いたときがとても多いです。
自分でもよくこんなものができたものだと驚くような奇蹟的なものが生みだされるには、冷静で計画的な行動だけでは、きっと足りないのだろうと思います。
まあ、とは言え、最後の最後まで追い詰められないと行動に移せないのは、やっぱり情けないものだと思っていました。
そんなところに、最近の心理学に関する研究で面白いものを見つけました。
「宿題は8月31日にやる子ほど自信家で時間を有効活用できていることが判明」
http://www.yukawanet.com/archives/3875901.html
たしかに、心の底では、「宿題ごとき、本気になれば何とかできるはず」と自信は持っているなあと思いました。
時間を有効活用できている、っていうのはどうなんだろうかと思いますが。
宿題にはやめに取り組むことをメリットとデメリットで考えると、
メリット:もういやな宿題をやらなくてよくなる、気分が晴れる
デメリット:かなりしんどい
宿題ごときなんとかなるだろうと思っている人ほど、メリットは小さく、デメリットは大きく感じるのでしょう。
ちなみに、夏休みの宿題を後回しにして、最後の最後に追い詰められてやるという人は、太りやすいタイプです。
夏休みの宿題を後回しにするのがいやなので、なるべく先にやろうとする人は、最後に仕方なくという人よりは、太りにくいタイプです。
自分の周りの人を見ている限りでは、そのようになっています。
後回しにして追い込まれる人は、「まあ、なんとかなるだろう。」「まあ、なんとかできるだろう。」というふうに楽天的で、細かいことは気にしない。心の底では自信家。(でも、当の本人はそんなふうには思っていない)
こういうタイプの人は、「おなかいっぱい?そんなの関係ない。」「こんなにおいしいんだから、食べたいように食べさせてくれ。」というふうになるのでしょう。
追い込まれるのがいやで、なるべく先にやろうとする人は、追い詰められて苦しくなるのがすごく嫌で、少し繊細な傾向があります。
こういうタイプの人は、おなかがいっぱいになったら、これ以上食べるのは苦しいと感じて、食べ過ぎになりにくい傾向があるようです。(後回しにする人と比べるとということですが。)
夏休みの宿題というのは、その人がどういうふうに取り組むかで、性格や気質がはっきりと出るので、かなり興味深いリトマス試験紙だと思います。
次回は、にせの空腹感について、まさかこんなことが影響が大きかったなんてという話です。
おなかがすいたなあと思っても、実はあることが原因となっていてだまされているだけで、その影響をなくせば、実はおなかがすいていなかったということに気づく可能性がかなり高いです。
これに気づくか気づかないかは、ダイエットの成功ともかなり関係してきます。
ぜひとも知っておいて欲しいと思います。
このことは、人間と動物との大きな違いともなっています。言われてみれば、まったく違うと気づくと思います。
普段、意識していないので、そんなことが影響しているなんて思いもしないでしょう。
自分でも気づいたときまさかと思いましたから。
次回はアメンバー限定記事にする予定です。
P.S.
夏休みの宿題というと、どうしても思い出すことがあります。
それは、小学校時代に、読書感想文40冊分という夏休みの宿題を出す男の先生がいたことです。
私が3年とか4年のときに、5年生や6年生の担任を受け持っていて、その5年生や6年生の人たちから話を聞くたびに、震え上がっていました。
子どもや親からも反発の声が上がって、いろいろと揉めていたという話も聞き、そりゃあそうだろう、やばすぎると思っていました。
読書感想文以外にもいろいろと宿題を出されていたのかもしれません。
とにかく、1日1冊分の読書感想文というのノルマのインパクトは強烈で、もしも自分の担任の先生になったらいったいどうなるんだろう、と脅えまくっていました。
だいたい、読書感想文というのは、いまだにどのように書くのがよいのか、よくわかりません。
感想を中心に書いたら、「○○はすごいなあと思った」「○○が××したところは、よかったなあと思った」とかばっかりで、書いてて情けなくなるし、その本を読んだことがない先生もわからないだろうし・・・
かといって、説明的なことばかり書いていると、あらすじ文?みたいなものになってしまうし・・・
だから余計に読書感想文は、恐ろしかったのです。
40冊分なんて、お化け屋敷よりはるかに怖かったですよ。
でも、そのすぐあとに、その先生は、近くの小学校に転任していき、なんとか無茶な宿題を出されずにすみました。
そして、その先生は、その後事件をおこして、問題になったのでした。
かなり精神的におかしくなっていたみたいです。
読書感想文40冊分出す時点で、すでに正常な状態ではなかったのだろうなあと思います。
背が高くて足も速くて、みんなのあこがれの先生だったのですが、夏休みの宿題が、わかっているだけでも読書感想文40冊分とか、ちょっとまともじゃないとわかって、警戒するようになったのでした。
そして、その後、事件が発覚してということで、ちょっとほろ苦さもあります。