天上堂のちょっとそこまで -198ページ目

YUJI 〜3〜

「こ」
 これだ!これが・・・!

 だが、あえて言おう。

誰もがこのような逆境に耐えられるわけではない!
「誰か・・・誰か助けてくれ!」
 降りしきる雨の中、俺はカバンも持たずに歩いていく。さっき貰い受けたノートは濡れないように抱え込み、家路を急ぐ。
「よお」
 クラスの中でも腕っ節が強く、生意気な口ばかり聞いてくる、沖ノ宮が、ニヤニヤとしながら俺に向かって言う。
「若くして独立とは、うらやましい限りだなあ!ユウジ!」


はは
はははははははははははは!!


 何人ものクラスメイト達が、俺を見て笑っている。中学二年にして中退。もう夢を見ることもできないだろう。これから現実に押しつぶされるだけの男に、クラスメイトは皆嘲笑を与えるのみだ。

 あの時、校長は言った。
『お前の名前を言ってみろ!』
『ゆ、勇次』
『そうだ!勇気の次と書いて、勇次!勇気の次はなんだ!』
 しらねえよ!
『希望だ!』
 は?
『愛と、勇気と、希望!そう言うではないか!お前の名前は、希望なのだ!勇次!』

 ワケがわからない。雨が目に染みる。成績も悪い、運動神経も鈍い俺が、何を成せるっていうんだ!ロボットなんて、アニメや漫画でしか見たことがないというのに、どうやって作るんだよ!
「立ち止まるな!」
 背後から誰かの声がする。俺は涙でぐしゃぐしゃの顔を袖で拭くと、後ろをおもむろに振り返る。
「え、親父?」
 そこには、雨でぐしゃぐしゃになったスーツを着た親父が立っていた。親父は崩れた七三を手で振り払うと、ニヤリ、と口の端に笑みを浮かべて、こう言った。
「俺も、会社を辞めてきた!」

YUJI 〜2〜

『退学だっ!』

 何を言われたのか、よく分からなかった。校長室の中、扇風機が回る音だけがただ響いている。昼休みの終了と同時に呼び出された俺は、なんの心当たりもないままに校長室に入ったのだが。
「入室と同時に退学って、何ですか!」
 何か理由があるにしても、余りにもおかしい。確かに成績は常に下から数えたほうが早かったし、運動神経も特に秀でているわけでもない俺は、学校側にしてみれば大した価値のない男なのだろうが、それにしたってこの勧告はおかしい。
「理由を説明していただかないことには、納得できない!」
「理由なら、ある!」
 校長がおもむろに席を立ち上がり、カーテンを閉める。部屋にいる教師達を外に追いやると、二人きりになったその部屋でかすかに震える俺に向かって、校長がとんでもないことを言い出した。
「宇宙怪獣がこの地球に迫ってきているのだ」
 退学と、宇宙怪獣。
(何の繋がりも見出せないのは俺の頭が悪いせいか?)
 困惑する俺を尻目に、校長が続ける。
「理解できないのは無理もないだろう。だが、これは国合軍から知らされた一番ホットな話題だ。そして」
 校長は俺を指差し、目じりを吊り上げながら言う。
「そしてお前が、そいつらに勝利するための鍵を握っている」

 こ、こいつ

(なんてことを口走りやがったんだ)
 卒業まであと一年と八ヶ月残っている中学生に向かって、なにを言っているのか!
「ユウジ。お前、爺さんがいたよな。二年前におっ死んじまった、ゴウだ」
「あぁ」
「ゴウのやつ、生前になにか言っていなかったか?」
「す」そうだ。爺ちゃんが死ぬまで言っていたことが一つある。
「スーパーロボット・・・」
「それだ」
 校長はおもむろに一冊のノートを取り出すと、俺に渡してくる。
「ゴウのノートだ」
「爺ちゃんの・・・」
「お前が、お前がゴウの遺志を継げ!」
 そう言うと、それきり校長は黙り、俺を部屋の外へ追いやった。

YUJI 〜1〜

「俺は!」
 僕が五歳の頃、祖父が庭で叫んだ。
「俺は!絶対に等身大のスーパーロボットを作ってみせる!」
 夕飯時、近所の方達が何事かと出てきて、タンクトップ姿の祖父をみてため息をついた。

 YUJI

「いいかユウジ。男には、逃げてはいけない事がある」
 そして今。西暦も2500年を数えようと言う年。僕と祖父は実家の縁側に二人より沿うようにして座っている。夕闇が辺りを包み、鴉が鳴きながらどこかに飛んでいく。祖父はいつものタンクトップにハーフパンツ。対する僕も似たような格好だ。僕は、スイカをほおばりながら祖父の話に耳を傾ける。
「逃げてはいけない時・・・?」
「ああ、逃げてはいけない時だ」
「どんなときの事を言うの?」
「それは」
 話がそこまで及ぶと、決まって祖父は笑顔で答えた。
「その時になったら分かるさ」

 中学も二年生。もう桜なんて見飽きていて、友達と話すことも毎日似たような事ばかり。つまらない日常の中、僕は祖父の話をネタにして、昼休みの退屈を紛らわしていた。
「おいおい、その爺さんマジヤバじゃね?」
「だろ?でさ、そのあと食ったスイカの皮を持ってさ、空に掲げるわけよ。そこでいつも一言『俺は!必ず等身大のスーパーロボットを作ってみせる!』」
 その話をすると、友達は皆腹を抱えて笑ってくれる。俺自身も、そんな話は信じていなかった。それどころかネタにしてしまうほどだ。一通り笑ったあと、友達の一人のショウタが言う。
「てかさ、もう最近そういう暑っ苦しいの、やってねえよな?」
「そうそう。あれだろ?日本が負けてさ、戒厳令がずっと敷かれてるもんだから、アニメとかも全部制約受けてるもんな~」
 相槌を打ったのはコウだ。
「ま、どの道、やっててもそんなの見ないし」
「だな」
 ショウタ、コウ、俺の三人は、爺さんの話の後、いつもこういう結論で終わる。俺達だけじゃない。日本中の、かつてヲタクだなんて呼ばれていた連中ですら、皆同じ意見だろう。
『圧倒的な力の前では何もかもが無力』
 敗戦した日本で生まれ育った俺達が悟った言葉が、これだった。

短編小説「罪と罰の肖像」

「くそ、なんだってんだ!」
 私はセイジ。ただその名前だけは覚えている。ほかに覚えていることといえば、恋人の名前だ。恋人の名前は、ミク。カツラギ・ミク。ただその二つの事柄だけはしっかりと頭の中に残っていた。
 腐り、崩れていく体を抱えながら、私は暗い廊下を一心不乱に走っていた。白い壁に囲まれた空間。ズタズタに引き裂かれたベッド。医療機器。メス、ピンセット、注射器。・・・男の遺体がホルマリン漬けになったものまで、様々なものが壁一面に飾られているようだった。
――なにかの研究所か?
 だが、私が目覚めたときからずっと、執拗に鼻をついてくる異臭が、思考を正常に保たせない。肉が腐る臭い。鉄が錆びる臭い。何もかもが腐っていた。研究員も、建造物も、私自身でさえも。

ぼと

――くそ、右腕が
 細胞が腐るとはこういうことを指すのだろうか。自分を自分で形成できなくなる恐怖に、体が芯から震えるようだ。寒い。ウジが全身を這うような感覚と、目の奥、頭の中、隅々が痒くて痛くてきもちわるい。
 分かっているのは、彼女が、ミクがこの建物のどこかにいるということだけ。そしてまた、彼女自身も私と同様に腐り始めているかもしれないということだけだった。
「ミク!どこだ!ミク!」
 何度も声を掛けながら廊下を走るが、応答がない。声帯まで腐ってきたようだ。のどの奥が痒くて、痛い。

こん、こん

 かすかに、背後で物音が聞こえ、私はその場で立ち止まった。白いドアが一つ見える。病室とは違う、何かの研究室。窓はない。ドアの表札は・・・
――カツラギ・ミク・・・彼女のものだ!
 私はとっさにドアノブに手を掛ける。早く助けないと!声が出ないということは、おそらく。



うう

 だが、その中から聞こえてきた声は、明らかに男性のものだった。それも無数。さらに言うなら、異常な。手が震える。体が芯から寒くなる。痒い。痛い。痛い。痛い。

こん、こん

 再度、中から何かがノックを返してくる。
――くそ!
 私は、意を決してドアノブをひねる。震えているせいか、ドアノブが廻らない。両手を使い、さらに力を込める。もう、筋肉まで腐り始めているようだ。
 がちゃ、と。音を立てずにドアが開く。

肉片
白衣


 散らばった肉片と、ボロボロの白衣。女性の白衣。男。

 頭が、真っ白になった。


 一人目は不意をついて頭を砕いた。
――こいつら・・・!
 指が骨折したが、かまうものか。敵はあと、三人。一人、低い姿勢で走りこんでくる。牙を構えている。
――狙いは足か
 くれてやる、そう言わんばかりに私はそいつの前に足を差し出す。男の顔が卑しくゆがんだのを見受けるや、差し出した足に重心を移動。その勢いにのせて、固めた左腕を男の頭に打ち込んだ。男は驚愕し、目を白黒させながら、床に倒れ、勢いよく滑っていく。強打した際に左腕が折れ、違う方向に曲がったが、構っている暇はない。
――筋力がなくても、戦う手段はある
 残りの二人がかすかにひるむ。私は間髪入れず、折れた左手の指を片方の男の目に向けて放り投げる。男は、その指を見て素早く反応し、払いのける。
――そうくると思ったよ
 そのわずかな間を使い、私は男の側面に回りこむことに成功する。右足を前にだす。重心を移動する。あとは、体重を乗せて、折れた左腕を叩き込む。

ぎゃあああああ

 薄暗い廊下に、男の断末魔が響き渡った。
――あと、一人!
 男たちの最後の一人が、何事かを懇願するように手を合わせながらうめいている。
「何言ってるか・・・何言ってるのか分かんねえよ!」
 ゾンビの弱点は、頭だ。頭を潰せばいい。一撃で死ぬ。それも、弱い力でも充分に砕けるほどに、やわらかい。私の体が、私の心が、それを本能的に知っていた。最後の一人は、手を合わせたまま、自分の腐った体を眺めながら絶命していった。

パン!パン!パン!

「え」
 突然、私の体を乾いた音が貫いた。痛みはない。だが、左腕が、残った腕が吹き飛んでしまった。突然のことに、思考が混乱する。新手の敵か?だが・・・拳銃を使えるほどの筋力が残っているとは思えない。
 私は、恐る恐る、銃声のしたほうを振り向く。入ってきたほう。入り口。ドアのそば。

――ミ・・・ク?
 廊下から入ってくる電灯が、かすかに彼女を照らす。その手には、今もなお硝煙が立ち昇る拳銃が握られている。
「おまえ・・・は、み・・・く?」
 声帯が思うように働かない。思考も、ぼやけてきた。血が足りないのか。
「失敗、だったのね」
 彼女がおもむろに口を開く。失敗?
「所詮はクローン。か。腐った細胞を元にしたのがいけなかったのね。残念だわ」

 彼女は何を言っているんだ。

「あなたは、セイジに一番近い個体だったわ。生きていたときのセイジに。でももう終わり。ジ・エンドよ」
「な、にを」
「さようなら・・・私の、セイジ」

パン!

 乾いた音が頭の中を貫いた。倒れながら私は、目が覚めた部屋にあったホルマリン漬けを思い出していた。男の死体がまるまる一つ入っていたあのホルマリン漬け。あの顔は・・・

――ああ、そうか。おれは

 そこで、私の思考はぷっつりと切れた。

とろけるほどに甘く

 あの人にチョコレートをあげなくなって何年だろう。

 亜美は内職の造花を束ね、ひと息つく。四畳半の狭い部屋の中、ストーブの上でヤカンから小刻みに湯気が立ち上る。ふと、窓から外を見やる。
「雪・・・」亜美は造花の入ったダンボールを部屋の隅にやりながら呟いた。
 隣の部屋から、仲むつまじい一家の笑い声が響いてくる。亜美は、どうしようもなく外に出たい衝動に駆られた。部屋を見回し、造花とは別に洋服の入ったダンボールに目を留めると、中から毛皮のコートを取り出す。まだ痛んでいない、と呟く。自分の、あまりにか細い声が反響してくる。亜美はむしょうに悲しくなってきて、コートを胸に、強く抱きしめた。
 差し押さえで、唯一残ったコート。どれか一つ、と言われて、手に取ったものがこれだった。亜美はコートにハンガーを通して壁にかけると、別のダンボールを開け、化粧道具を取り出し、窓ガラスを鏡がわりに化粧をする。靴箱の奥深くにしまってあったハイヒールを履き、支度を済ませると、亜美は一人、檻から飛び出すように扉を開け放った。
 街が近づくにつれ、派手なネオンが増えてくる。夜道を照らすそれは、人々を明るく照らす。だが、亜美にとってはその明かりすら疎ましく思える。

「あんなことがなければ・・・」亜美の声は、派手なネオンの中に溶けた。

 半年前に盗人が家に押し入った時、夫は、妻である亜美を残して一目散に寝室から逃げ出した。
 誰かが通報してくれなければ、今頃犯人に何をされていたことか。パトカーの音を聞くやいなや、犯人が逃げ出してくれたことも幸いだった。
 犯人が逃げてから数分後、夫は怯えたままの表情で寝室に姿を現した。その手には、冷蔵庫から取り出したであろう長ネギが握られていた。

 あの頃からだろうか、と亜美は思う。あの頃から、夫への愛情が崩れていった。今となってはもう、破片すら残っていない。あの時、犯人が逃げおおせた次の日に銀行に問い合わせてみると、知らない男が夫を名乗り、金を全額引き出してしまっていた。通帳と印鑑のみで、顔の照会が無かった事が災いした。
 もう、全てが手遅れだった。

 赤を基調に、街は恋人達で彩られている。結婚した当初、夫に作るチョコレートの材料を選ぶのに必死で目に入っていなかったものが、いちいち目に付く。かつては心躍った街のネオンも、踊る気力のない亜美にはもう、意味の無いものとなっている。

「よお」野太い声にはっとなり、亜美は思わず振り返る。
 亜美の目の前には、見覚えのある男が立っていた。
「俊・・・」
 幼馴染の俊。乱暴者の俊。亜美の知る限りでは、札つきの悪。喧嘩っ早く、強情で、意地っ張り。そのくせ行動力に溢れ、古いものを嫌う節がある男であった。
 以前は親戚中から疎まれていた俊であったが、野生的な魅力も同時に持ち合わせていたため、若い女性にはもてた。いつも違う女性と歩いていたのを、亜美は度々見かけた。
「今は、誰も連れてないのね」
皮肉を込め、亜美は俊に笑いかけた。すると、俊は驚いたように視線を上から下に泳がせると、照れ臭そうに微笑みかけ、
「いっしょに、飲みに行かないか?」と持ちかけた。

(たまにはいいか)亜美は二つ返事で了解した。

 数分後、豪奢なホテルの一室で、二人の男女はテーブルを挟み、向かい合って座っていた。机の上で絡み合う手の感触に、亜美はしばしば身を捩る。
 初めて飲んだジン、度数の高いアルコール、自分を射抜くような視線、握られた手。俊の逞しく、荒々しい手に包まれ、その深い瞳で見つめられると、亜美はたまらなくなる。その目は海溝のように深く、黒い。その色に恐怖を覚えるも、荒々しい高揚が身を包み、麻痺させる。亜美は堕ちていく自分を繋ぎとめるのに精一杯だった。
「俺が馬鹿だったよ。一番近くに、こんないい女がいたのに気づかなかったなんてな。」
 俊がソファーを立ち、亜美の隣に腰掛ける。二人がけのソファーが小さく軋む。
「亜美・・・」太く、逞しい腕が肩を抱く。亜美は動悸が高まるのを感じる。

 と、不意に夫の姿が浮かぶ。

 盗人により何もかも失って自暴自棄になり、八つ当たりばかり繰り返していた自分を、優しく抱きとめた夫。悲しそうな瞳で自分を見つめてから、何も言わず、静かに会社へと出かける夫の、か細い背中。
 日々の労働で痩せていくのも構わず、夜遅くまで仕事をし、朝早く出かけて・・・今、自分がこうしている時も、必死に働いている。
 亜美の目に、夫の姿が浮かんでは、消える。亜美は、夫の姿がだんだんと薄れていくのを感じると、安心ではなく焦燥を覚えた。

「だめ!」

 亜美は、口づけを迫る俊を両手で押しのけ、はだけた服を直した。ソファーから転げ落ちた俊は上体を起こし、驚いた顔で亜美を見つめる。亜美は、自分が発した声の大きさに驚きながらも、凛として言い放つ。
「もう、二度と会わないで」
 男が何か言うのも構わず、亜美はカバンとコートを手に取ると、ホテルを後にした。


 ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい・・・

 何度も心の中で謝る。
何度も、何度も。

 悪いことをしてしまった。
 その思いだけが亜美の心を支配する。夫の姿が、だんだんと色あせていく。
「清二さん・・・!」
 久しく呼んでいなかった、夫の名前。路地裏の闇が、亜美の心を押し包む。消えかかった街灯の先にあるはずの我が家が、亜美にはどこまでも遠く感じた。

 背後から、誰かがついてくる。

 その足音は乱暴で、乱雑で、まるで・・・思わず亜美は立ち止まって、後ろを振り返る。青黒い眼が、遠く路地裏の闇に浮かんでいる。
「亜美―!」
 俊が追ってくる。逃げなくては。
踵を返し、亜美は家路を思い起こしながら路地を駆ける。

 男の足音がついてくる。亜美は必死に走る。昔は履くだけで嬉しかったハイヒールが、今は憎い。
 と、踵がなにかにかかり、ヒールが折れる。亜美はその拍子にアスファルトの地面に叩きつけられる。痛みに耐え、顔を上げると、そこには酷い顔をした俊がいた。
「ちょっと甘い顔をすれば調子にのりやがって」
 その声には怒気がこもっている。

(この眼・・・この青黒い眼、どこかで・・・)

 俊の手が伸びてくる。亜美は挫いた足をかかえてあとずさる。背中につめたく、硬い感触を覚える。コンクリートの壁。亜美は恐怖に震える喉を押さえ、声を絞り出そうとする。
「どいつもこいつも・・・馬鹿にしやがって!」
 そこには、出会ったときに亜美が感じた魅力を、全く欠いた男がいた。逞しい四肢も、深く黒ずんだ瞳も、今はただ、恐怖でしかない。
「いや・・・!」

 刹那、鈍い音がした。次いで、なにかが弾けるような音がしたかと思うと、俊のうめき声が響く。
「え・・・」
 顔をあげるとそこには、買い物袋を持った痩せ身の男が立っていた。その手には、半分に折れた長ネギが一つ。俊は、長ネギの汁を顔に浴び、目を押さえながら悶えている。次いで、清二が何事かをたしなめる様に静かに言う。
「また、亜美を、亜美を苦しめるつもりか・・・貴様!」
と、俊は一瞬怯えた表情を見せ、その場を後にした。
「亜美・・・」
 街灯が、男を照らす。
消えかかった姿が、また蘇ってくるのを亜美は感じた。泥だらけの靴、ぼろぼろのスーツ、涙と鼻水でぐしゃぐしゃの顔。この人は、どこまで私を探しに行ったのだろう。だが、亜美は考えるのを止め、男の胸に飛び込んだ。細くて、頼りないけれど、どうしようもなく愛しい。
 清二は抱きしめた亜美の耳元に顔をよせ、震える声で囁く。
「君なしじゃ、僕は、生きられないんだ・・・!」
どうしようもなく情けないその男の腕の中で、亜美は自分の心が溶けていくように感じた。

(終わり)とろけるほどに甘く