天上堂のちょっとそこまで -199ページ目
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短編小説 【野菜と肉】

夜の7時を回った頃、築五〇年のアパートの外壁が微かに揺れた。
「ほら、ちゃんと野菜も喰え!」
 光輝はそう言いながら、浩介の皿から肉を取り上げ、野菜と入れ替えていた。その度に浩介は父である光輝を無言で睨み、抵抗していた。
「ちゃんと野菜も喰わんと、強くなれんぞ!」
 腕を捲り、五〇歳とは思えない豪腕を見せつけながら光輝はいつも浩介に言って聞かせた。光輝の言葉は、いつも浩介にとって正しいものであった。

「おらあ!遅れるな!」怒声と共に、竹刀でアスファルトの地面を叩く音が響く。
 五ヘクタールはあるだろうか。野外演習場は今日も数十人の若者達が緑色の軍服を着てトラックを走っている。走る若者達は皆、総重量三〇kg近い装備を着ているため、動きはぎこちない。浩介は彼らの動きを目で追いながら、遅れる者がいないか確認し、いれば即怒声をあげて怒鳴りつけ、彼らの足を早める。
 ふと浩介は空を見上げ、あれから何年だろう、と呟いた。空は常に黒く淀み、たまに稲妻が走る。浩介が小学生の時から、空は常に黒いものであるという認識が常識になっていた。
 演習場にサイレンが鳴る。昼休みを知らせる警笛だ。兵士達は皆サイレンが鳴った途端に走り出し、教官の前で一列に並ぶ。幾度も注意を受け、訓練に励んできた若者達の隊列は、一ミリのずれもなく直線に並んでいる。
「竹崎浩介教官に、敬礼!」列の右端に立つ、ひときわ大きな体格を持った青年が言うと、隊列に並んだ兵士達は右手を高く挙げ、肘から先を折り、手の平を右目にかざすようにして敬礼する。
「よし、午前の訓練はこれまでだ。午後はイチサンマルマルより開始する。解散!」
 浩介がそう言うと兵士達は表情をぴくりともさせずに敬礼を解き、号令をかけた兵士の命令で回れ右をして食堂に向かう。その動きは軍隊蟻にも似て、確実に同じ通路を歩んでいる。
「軍隊蟻、か・・・」浩介の目には、若かりし頃の小学校が浮かんでいた。
 現在、戒厳令レベル3が発令され、日本中の家庭ではテレビが見れないようになっている。水道、電気、ガスの供給も一定量に制限され、夕方の十六時には外を歩く人影が全く無くなる。
 誰も通らない夜道、浩介は一人、家路を急ぐ。

 家に帰り着き、ドアを開けると、いつもの匂いが鼻をついてくる。焼き芋の匂いだ。
 浩介の親である光輝は、浩介に向かって戦時中の苦労話を毎日のように語っていたが、その状態が目の前にある。浩介は三五歳になる体を引きずりながら玄関から中に入った。
「おかえりなさい。あなた」
 妻聖子の目は、三年前の空襲の折に使い物にならなくなった。聖子は当時、夜の九時を回った頃に買い物から帰っていて、自宅が燃えていることに気づき、中に居た息子の敬一を助けるために中に飛び込み、目を焼いた。
 以来、聖子は杖を付き、息子の敬一の手を借りながら場所を移動し、家事に従事している。思えばあの頃からだろうか、と浩介は聖子の右頬を撫でた。
「あなた・・・?」聖子は突然夫に触られた事に驚きながらも、頬を赤く染めた。
「お、す、すまん。つい・・・」
 微かに狼狽しながら浩介は聖子の右頬を撫でるのを止め、リビングまで聖子の手を引いて歩く。
(思えば、あの頃からか。聖子の笑顔が少なくなったのは)
 理不尽な戦火が自宅を焼いた後、世界中を震撼させた日本テロが発覚し、某国は世界中に対し、警告を発した。某国は警告の後、日本に対し自衛隊の強化を迫り、「9条」の撤回を進言した。
(思えば、あの頃からか・・・)

 また、永遠に正される事のない間違った戦いが始まるのか、と浩介は唸り、どうしようもない怒りで手が震える。その震えが聖子にも伝わったのか、聖子は体を震わせ、顔をこわばらせる。と、浩介は、いかん、と自分を律し、仮初めであっても笑顔を作った。

「な・・・」浩介はリビングの中で、思わぬ光景に目を止める。
「何事だ。これは」
 浩介は声を震わせながら、リビングで焼き肉をしている息子の敬一を見て戦慄した。なにも知らずに肉を焼いていた敬一は、父親に気づき、顔をぱあっと明るくさせた。が、すぐさま表情をこわばらせ、持っていた箸を落とし、その場から立ち上がり、後ずさった。
「私が、やりました」聖子の凜とした声が浩介を背から貫く。
「おまえ・・・これが、どういう事か、分かっているのか!?」
「ええ、分かっていますとも。お叱りなら受けます。ですが・・・」
 言い終わる前に、浩介は聖子の頬を平手打ちした。息を乱したまま、髪を振って崩れる聖子の体を浩介は震える目で見た。
「このご時世で、このような・・・このようなはしたないこと」
 浩介の声は地の底からわき上がるように聖子に押し迫った。
「よかれと思ってやりました。だって、今日は・・・」
「黙れ。すぐにこれを片付けろ!」
浩介の怒声が、消え入りそうな聖子の声を押しつぶした。これはいかん、浩介は握り拳を作り、すぐさまカーテンを少し開き、外を伺って誰もいないことを確認する。続けて浩介は聖子の方を振り向こうともせず、淡々と告げる。
「芋でいい。そんなものを食べて何になる」
 その言葉は一定の冷たさで聖子を押し包む。聖子は、目を覆いながら息子の敬一を促して片付け始めた。
「焼き肉など・・・」
「ですけど、貴方。お国を背負って戦うお方がこれだけのものすら食べられなくてなんとしますか。貴方は敵兵を前に、芋だから力が出なかった、とでも言い訳して、討ち死にするおつもりですか」
 聖子の言葉が、父である光輝の言っていた台詞と重なり、浩介はあの頃をふと思い出してしまった。
 光輝は今、その面影すら残さず、遠い戦地で生涯を終えたらしい、という伝令だけは聞いている。父は、日本全国で輸出入が禁じられ、芋だけの生活になってから、常に浩介に言っていた。
「あんなのぁ、ただの見栄っ張りってんだ。ったく、負けた時の言い訳にすりゃならねえってのにな。浩介」
 その言葉にはいつも、国家に対する反逆の意識と、毎日のように討ち死にしていく若者達への哀しみがこもっていた。

 浩介はカーテンを閉めると、リビングの机に座り、聖子に向かって言った。
「そうだな。喰おう。もうもらってしまったのだ。喰わなければ、それこそ大罪というもの。すまなかったな。聖子」
 浩介の口調が柔らかくなると、五歳の敬一は表情をぱっと明るくして、すぐさま焼き肉の準備を始めた。
「さあ、おまえも喰え。またいつ貧血で倒れるやもしれん。そうなったときの言い訳には、したくないだろう?」
 浩介は言いながら席を立ち、台所で肩を震わせる聖子を優しく抱きしめ、食卓へ連れてくる。食卓についた浩介は不意に壁に掛かったポスターを眺めると、今日の日付に目を止めた。
(今日の日付に丸がついている・・・)
 それを感じてか、聖子は一言付け加える。
「今日はあなたの誕生日なのよ。だから、少しだけ贅沢をしようと思ってしまいました。ごめんなさい。あなた」
 浩介はうん、と無言で一度頷くと、野菜をとり、息子の皿に乗せて、一言、父親の言葉を息子に継いだ。浩介は、明日、死地に赴くことが決まっている。

 せめて最後は、と、浩介はひとりごちた。

短編小説   鉄火の剣

「我が名は、鉄火!!いざ、いざいざ、参られよ!」
 ボロにボロを着せたような格好と、錆びた刃物で削り取ったような、髷の無い頭、異様な形状をもつ、大きな鉄クズ。男は甲高い声で、全身から声を発した。二万の軍勢を前に一人で戦いを挑む。男は確かにそう宣言したのだ。

二万の軍勢を率いる、堀川惣次郎は唖然とした。
――開いた口が塞がらないとは、この事だ
 飛騨の山奥に、今もなお聳える古城の中に惣次郎が求める鈴姫が居る。先の戦により、本城を落とした際に逃げだした、絶世の美女だ。惣次郎は主君の言葉を思い出して身震いする。本城が落ちた直後の反応と、その後悪い知らせを聞かされたときの反応には、天と地ほどの差があった。下卑た妄想に顔を歪めていた主君は、一変して鬼の形相になった。
『鈴姫を手に入れられなかった時は、死ね!その場で武士らしく切腹せよ!』
 惣次郎を始めとする二万の兵達全員に、同様の通達があった。期限は今日の夜。既に日は山に差し掛かり、赤い光を放っている。時間が無い。
――急がなければ・・・だが・・・
少なからず、惣次郎も目の前に居る鉄火という男の力量を見誤っていた。二万と言わず、一人二人ぶつければ、すぐに決着はつくと思っていた。
――だがこれはどういうことだ!

『一騎打ち』
 鉄火はこの言葉で他を翻弄した。
『貴君らも武士である以上、己が体一つで立ち向わんで、なんとする!どうした!・・・矢をいるか、この愚か者どもが。おぬし等の剣が泣いておるぞ!恥を知れ!一人で来い!腰抜けが!』
 齢二十ほどの若い男、それも武士ではなく、ただの刀鍛冶であるという男に言われたのだ。怒るな、と言うほうが難しいというものだ。誇りを傷つけられた武士達は、言われるがまま男に立ち向い、そのことごとくが粉砕された。先陣を切り、一人の男が躍り出たのは、今からほんの半刻前だ。そして今、城門の前は男の亡骸により、絨毯が敷き詰められたように赤く染まっている。
 横たわっている男は、かつて負け知らずであった重臣、半兵衛だった。
 この事実と、鉄火のなんとも言いがたい雰囲気に、二万弱の兵士達は動揺を隠し切れない。ただ半兵衛が斬られただけなら、惣次郎も動揺はしなかっただろう。だが、半兵衛が一合も刃をあわせることなく倒れていったのだ、異様だと言うしかない。一太刀というべきか。一撃で葬られた。
 もはや、日は完全に落ちている。地面がどこにあるのかすら見えないようになると、鉄火は一言言い放つ。
「姫が目当てか?ならば諦めるがよいわ。私がここに居る限り、姫は死なぬ!私が打ちひしがれようと、我が秘剣ゆえに、貴様達は何も得られぬ!分かったら、去れ」
 地の底から這い出るような、だが高く若い声に、惣次郎は一度身震いする。惣次郎の顔にうっすらとではあるが、焦りが浮かび始める。手綱を握る手が滑るのを感じるや、はっとなり、両手を確認する。赤く両手に手綱の跡が残っていた。
――血が滲むほどに手綱をにぎっていたのか。気圧されているというのか・・・この男一人に対し、二万の軍勢が、気圧されていると言うのか!
 半刻前なら、自分が出ようと思っていたが、半兵衛と鉄火の死合いを見て、考えが変わった。

「大将の手はわずらわせません」
 半刻前、脇差より少し長く拵えた特注の刀を用いて、幾分武士離れする戦いで有名な半兵衛が名乗り出た。半兵衛は剣術には詳しいが、実際に習う事がないままに戦場に出たため、知恵を絞って戦法を考える癖がついている。最近よく使うのは『蟷螂』(カマキリ)と呼ばれる戦法だ。
 刀の柄―通常は存在しない、小さな輪っかがついている―に鎖を絡めておき、死合いになるとその鎖を腕にも絡めて走り出す。走った先で居合いのように刀を抜き、鎖をつけたまま刀を手放し、弧を描く軌道で刀を振り、通常ではありえない間合いで相手に攻撃を仕掛ける、というものだ。
――負けるはずが無い
 半兵衛はそう確信し、軍勢の中から駆け出した。だが、鉄火も同時に駆け出した。
「なに!」
 二人の影が交差する。半兵衛はやむを得ず、居合いに切り替え、刀を振り切る。鉄火は半兵衛が刀に手をかける前に、後ろに半歩下がる。刀身がきら、と走り、鉄火の胴あたりの服が裂ける。すかさず半兵衛は柄を持つ手を緩め、返す刀を勢いよく鉄火の喉に向けて放つ。
――秘剣、蟷螂
 そこで、鉄火が前に踏み込む。半兵衛は目をむいた。
――まずい!鎖で伸びた分、間合いが!
 鉄火の持つ鉄の塊が地面を擦りながら上がってくる。半兵衛の鼻をつく、肉を焼く臭い。半兵衛が見ると、鉄火の手は焼けただれ、今や黒ずんでいた。
――まさか!こやつの秘剣とは
 半兵衛が声を上げようとした瞬間、鈍い音が荒野を駆けた。

「やむを得ん・・・放て」
 惣次郎はゆっくりと左手を天高く掲げる。兵達がにわかに動揺する。矢を放て、との合図だ。
「し、しかし」
「このようなことで、切腹したくはないだろう」
 この一言に、一同が揺らぐ。
「放て!」
 鉄火の前に、弓兵が数十名現れる。鉄火は不敵に笑い、最後に惣次郎を見据える。
「後悔するぞ。貴様は、必ずな」
 全員が矢を放つと、無機質な音が荒野を走り、鉄火は絶命した。
――後悔?我が主君に仕えた時から、ずっと後悔しておるよ
 惣次郎は一人呟き、自虐的な笑みを浮かべて城に入っていった。

「姫は?いないと申すのか」
刻一刻と時が迫る。逃げたかとも考えたが、城は二万の軍勢で囲み、常に気を配っていた。それはありえない。惣次郎の胸に、一つの懸念がよぎる。もう一つの、ありえない事態。
 惣次郎は足早に城門に戻る。すると、妙な人だかりが確認できた。
「ほ、堀川殿」そこにいた武士達の顔が、歪み、恐れおののいていた。
 誰が脱がせたのか、鉄火のボロをはいだ者がいる。金になる物を探していたのだろうが、それ以上に見てはいけないものを見たのだ。ボロで隠れていた胸が盛り上がっており、その所々が矢で貫かれているのが分かる。
「鈴姫、なのか」
 美女でありながら、強い将軍として名高かった鈴姫。だが非力な女ではやはり勝てないはずだが。惣次郎は、彼女が持っていた鉄の塊を持ち上げてみた。
「つっ」
 篭手越しにも伝わってくる熱量。見た目以上に鋭い刃先。半兵衛に刻まれた切り口を見れば分かった事だった。燃えるような熱く重い剣で目を焼かれ、怯んだところに薙ぐような一太刀。初戦でやられれば、惣次郎であっても一撃で葬られたに違いない。
「ふ・・・鉄火の剣、か。ふふ・・・ははは、はっはっはっはっは!」
 惣次郎は笑った。悲しみと嬉しさを入り混ぜた奇妙な顔で、空を仰ぎながら大きく笑った。
――まさか、こうまでして我が主君を拒むとは。我侭を通り越して、爽快だな

 惣次郎は、ひとしきり笑うと、呆然とする重臣達に告げた。
「介錯を頼む。それと・・・これが終わったら、皆は逃げるといい。わし一人で充分じゃ」
 隣に居た武士が頷く。と、また惣次郎は笑った。これまで忘れていた笑いだった。
――介錯を頼まんと、ろくに腹も切れぬとは、難儀よの
 腰から小刀を取り出す。月光により、刀身がきらめく。介錯人に会釈すると、惣次郎は天に向けて大きく言い放った。
「鈴姫様の秘剣、確かにお見せいただきましたぞ。お見事!」

 そう叫ぶと、惣次郎は自ら腹を突き刺し、果てた。


鉄火の剣_Ver2

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