みなさま、こんばんはございます。
今年も、八月がやってきました。例年イロイロやりますが、今年は4-7月に禍事が多かったので、地元の鎮守様(武州琴平宮)に詣でて、お祓いをしてもらいました。琴平様は毎年1-2回は、特にお願いしてお祓いをしてもらっています♪
最近夏に(←夏に限らんかな?)行っているのは、近隣の戦争遺跡です。別に観光名所ではありません。
場所によっては、案内板も立っていません。それでも、ひとつ上の世代の方々の、ご苦労や艱難辛苦をしのぶために、様々な戦争遺跡を訪れるようにしています。
幸い、わたしが住んでいる神奈川県は、相模原~座間~横須賀あたりに、多数の戦争遺跡が残っています。そして、湾をはさんだ千葉県にも、同様に多くの名もなき戦争遺跡が、あります。
というわけで、第一弾(たぶん)。千葉県館山市および南房総市の戦争遺跡を、二か所訪れました。
↑ ほい。館山です。訪れたのは、8月6日でした。海上自衛隊の基地が、海に張り出すようにあります。なんでも、関東大震災で隆起した土地を、旧海軍の基地にしたのが始まりなのだそうです。
↑ 地図(ググールアース先生提供)によりますと、こんな感じです。館山湾に不自然に突出した四角形の土地が旧海軍、現海上自衛隊の基地です(←この周辺は、8月17日に再訪しました。機会があれば記事にします)。
米軍の侵攻に備えて、基地のすぐ南側の山の中に、地下壕を築いたのでした。
それにしても、地下壕は、多いですよね。日吉、東松山(吉見百穴内)、横須賀から三浦(「つぶやき岩の秘密」で地下要塞として描かれたもの)、浅川、松代などなど、各地にあります。
赤山地下壕、といいます。近くに看板がありました。当時、米軍が本土上陸する場所のひとつとして、館山も想定されていたようです。
↑ 受付をすませて、壕に入ります。壕は、砂岩を掘っており、かなり縦横無尽ですが、公開されているのはごく一部です。
↓ ツルハシ(?)の痕が残る、素掘りの壕がかなりの長さでひろがっています。
あちこちに、地上(?)へとつながる出入り口があったようです(↓)。
壕の見学のあとは、近隣の探索をします。実は、事前調査不足で、ほかにもいろいろあったようなのですが、今回は掩体壕を一か所発見したのみでした。
↑ 畑の中に、うずもれるように掩体壕がありました。
↑ 畑の下に回って見ると、掩体壕の全容が見えます。大型機用の掩体壕と、説明がありましたが、そうでもないように感じるのは、半分くらい埋もれているからなのでしょうか。
つづいて、館山湾をはさんだ北側の、大房岬(たいぶさみさき)へ移動します。
館山の自衛隊の裏から見ると、こんな感じ↓。
ググールアース先生提供の地図ですと、こんな感じ↓。
うえの地図でもわかります通り、東京湾に向かって突き出している岬です。標高は80mくらいあります。ここに、東京防衛のための砲台がありました。先日訪れました富津岬よりも、ずっと南に位置します。
標高80mというのは、そこそこ高いですね。ずいぶん、海を見下ろす感じになります。
↑ 岬のいたるところに、旧軍の遺構があるようです。
西側の対岸は、久里浜(横須賀市)です。指呼の距離にあります ↓。
↑ 砲台の、台座のあと。現在はベンチになっています。
↑ 周辺には、地面に埋もれるように弾薬庫跡(?)があります。 ↓
岬の先の方へ歩いて行きますと、これまた地面に埋もれるような通路が・・・・・↓
中へ入ってみると、
↑ 複雑な通路や部屋を抜けて、いったん外へ出ます ↓
出た先には、
長い下り坂のトンネルが・・・・ ↑
トンネルの突き当りは、
ナニヤラ、複雑な遺構がありました。下り坂のトンネルなので、地下数メートルに位置します。上を見上げますと、
↑ 地表がぽっかりと、口をあけております。
↑ カンバンによりますと、探照灯(サーチライト)の格納庫だったようです。
おまけ
↑ ナナフシがおりました。わかる?
後半(8月17日再訪編)に続く・・・・たぶん。