楽しむ気持ち、楽しむ心 | リリくんのぶろぐ

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~踊り子さん応援ブログ~
ストリップは女性美を最大限に追求した総合芸術だ!
華麗なダンス、豪華な衣装やステージ…
観客を魅了する美女たちの精一杯のパフォーマンス。
まさに大人のエンターテイメント。
ストリップ~リリくんの楽しみ方
※禁・未成年閲覧

カエサルの言葉
「人間ならば誰にでも、現実のすべてが見えるわけではない。 多くの人は、見たいと欲する現実しか見ていない」
とても深い表現です。
この言葉の意味にもさまざまな解釈があり、それぞれの解釈自体がまさに「見たいと欲する現実」なのかも知れません。

ストリップ劇場でのある公演。100人の客がいたとします。そこにも100人それぞれの見たいと欲する現実が100通り存在するわけです。
踊り子さんのステージを観て、大感激し絶賛する人がいれば、正反対にひどくつまらないと批判する人もいるでしょう。
同じものを観ていても実は人それぞれ異なるバックボーンの中でみんな別々の見方をしている…だから感じ方も人それぞれ。
少し解釈が飛躍しているかも知れませんが、隣合う2人の客。一人は手拍子して楽しんでいる。横の客は手拍子がうるさいと顔をしかめる。その客がオープンショーでいきなり踊り子めがけて構ってアピールを始めたら、手拍子していた男は横の男をなんてウザい奴だ!と顔をしかめる。楽しみ方も人それぞれ。
要するに誰もが自分の見方(感じ方、楽しみ方)が一番正しいと思っていて、それ以外は認めずウザいと批判する。

ただここで自分の見方が正しいとしてもその正しさしか受け入れず他人の見方を一切無視や排斥するのか、他人の見方にどこまで気持ちを寄せられるか、そこは人間としての度量や心の幅に関わってきます。他人に心を寄り添える気持ちがあれば、異なる意見もなるほどと理解できることがあります。ウザいと思っていた行動も案外楽しかったりします。あるいは他者の目から自分のウザさ加減を自分で気付けることもあります。

頭脳明晰なエリート政治家がまったく人の気持ちに寄り添えない人格を露呈した一件が最近ありました。どこまで人の気持ちを受け入れ寄り添えるかというのは知能指数(頭の良さ)よりもその人の性格(思いやり)や育ちの環境や社会性に寄与するのでしょう。

ストリップは大衆娯楽。
気楽に楽しんで1日の疲れを癒す一服の清涼剤のような存在。
そこに大仰な芸術理論を持ち込んで評論家ぶって云々するのは愚の骨頂、ストリップの見方に理屈は不要。観る客にも優劣はありません。先輩も後輩も上下関係もない。決して常連客が偉いとか正しいわけではない。
そこは楽しんだもん勝ちの世界。だけど、自分の見方が正しく他は認めないと言った頭の客ばかりでは自分に合わない客の存在が気になって結局お互い心底楽しめないことなってしまいます。昨日の記事「スト客エレジー」で書いたような踊り子さんとの個人的接触、構って、他のファンへの嫉妬などステージとは直接関係のない自己中の狭小な個人的こだわりに終始する人たちも同じ。あるいは匿名掲示板で踊り子・客叩きばかりしている人たちも結局劇場では楽しんでいない人種。

あなたの楽しみたいと欲する現実と他者のそれとは違うというまずその現実を受け入れながら観劇を楽しむだけでも楽しみ方の質は変わってきます。

私にも私の楽しみ方があります。ふだんはくそ真面目にお行儀よく楽しんでいるけれど、時には自分の殻を破って思い切りバカになって楽しむこともあります。それが案外爽快だったりします。
他のお客さんの楽しみ方やステージの感想を積極的に聞いたり語り合ったりしつつ、その人の気持ちになって楽しんでみると別の発見が出来たりします。自分の見方の狭さに気付くこともあります。
踊り子さん自身からその作品のテーマや見どころ、意図、意気込みなどを伺って観るとさらに楽しいです。それまでそれほど好きでなかった踊り子さんのステージがそのことですごく楽しくなって一気に好きになったりします。

楽しむ気持ち一つでステージの楽しさは10倍にも100倍にもなります。

あのハゲーー!の政治家や被災地蔑視で大臣をやめた政治家たちじゃないけど、人を見下したりバカにする人、個人的こだわりの強い人は人の気持ちに寄り添えない人、自分しか認めない人、そして何事も心底楽しめない人。そういう人は劇場に来てもろくに楽しめず自分の思い通りにならないことや気に食わないことに文句ばかり並びたてるのでしょう。スト客エレジー各位や掲示板でうっぷん晴らしや誹謗中傷ばかりしている人たちも。
どうせ劇場へ行くなら楽しまなきゃ損々。あなたの気持ち一つ。
ストリップ観劇に少々お疲れの方に、この記事が何かの参考になれば幸いです。楽しさは無限に存在します。それを見つけてみませんか。