凡例


・以下の記録は、2011年12月08日から、2012年1月13日までのTwitterでの呟きを主題別にまとめたものの一つ、「震災と支援をめぐる雑感」である。
・収録した呟きは、著者本人の独白形式のみを採り、RTとそれへのコメント、@付きでやりとりをした会話は除外した。
・各呟きは、ほぼ時系列に沿って提示している。("2011.07.17. at 15:23:10" で呟いた日付と時間を指示する。)

・その時々の印象を呟いたものがほとんどであるので、後に諸状況の変化が生じて事実とずれてしまった記載も認められるが、その時点での記録として収録している。
・収録にあたっては、誤字脱字を訂正し、必要最低限の補足修正に留めている。
・「※」を付して、呟きの背景を注記した箇所もある。
・一連の内容がまとまっている場合は、適宜、小見出しを付けた。


本文


歴史と観光


三陸沿岸被災地に「外貨」を呼ぶため、観光資源の発掘が次の課題になるはず。いつまで歴史ブームが続くか分からないが、ある程度の継続性は期待できそう。三陸沿岸は山と海両方にまたがる中世以来の遺跡・遺物が数多い。この地域の史跡を網羅的に観光の点から調べ直す意義はあるはず。 (2012.01.14. at 10:00:14)


観光に関する実務やノウハウは、ツーリズムや観光学の方にお任せすればよいだろうけど、自然を満喫しながらできる歴史散策のネタ探しは、郷土史関係者が積極的に出ないとダメだろうなあ。 (2012.01.14. at 10:08:32)


三陸沿岸は化石も掘れるし、魚介類が美味しいし、山菜も期待できる。民俗も含めた歴史遺産は、古いものだけでなく、明治以降の産業遺産もある。各エリアごとに道の駅付随施設や公民館レベルで展示施設と紹介があると、気軽に立ち寄れるだろう。 (2012.01.14. at 10:26:41)


地域の歴史遺産の保存は、急を要するけれども、継続する体制構築は一朝一夕にはいかない。地元の理解と関係機関によるメンテナンス・サポートが不可欠。多賀城のように、とてつもない遺跡を抱えながら、宝の持ち腐れ状態になっている所もある。もっとやりかたはあるだろうに。 (2012.01.14. at 10:46:56)


暇な旅人は看板一つで名所旧跡に誘導されるから、それへの投資はバカにできない。例えば、三陸道の東和ICを降りたT字路。右に曲がれば南三陸町へ。左へ曲がれば米谷。実はこの米谷には原田甲斐の菩提寺がある。この情報を矢印付きの看板にして設置すれば、かなりの見学客を期待できるはず。 (2012.01.14. at 11:10:48)

   歴史と観光(了)


そういえばくまモンは、5歳で熊本県の公務員だったはず。。。 (2012.01.15. at 12:49:19)


時限的な施策でいいので、被災地の保育園・幼稚園に複数回、人気ゆるキャラを招いて遊んでもらうような企画、どこかやっていないかな。。。 熊本県からはくまモンの公費出張慰問を期待。 (2012.01.15. at 13:45:51)


学生諸君と


今日の午後から先ほどまで、陸前高田・気仙沼・一関の出身、あるいはボラ活動をしている学生諸君と打合せをし、飲んできた。これからの地域を担う彼らの意見をこそ吸い上げ、共に議論していく事があらためて大事だと思った。大人は真摯に彼らと向き合うべきだし、至らぬ点があれば補ってあげればよい。 (2012.01.15. at 21:05:23)


被災地を出身地とする学生諸君が持っている復興に向けた利点は、郷土を出てからさほど時間が経過していないので、震災以前の町の様子が分かっていること。そして、地域の若い世代とつながれること、外から郷土を見る視点を持っていること、これらだろう。郷里を離れて20年以上も経った自分には無理。 (2012.01.15. at 21:08:44)


学生諸君の話題の端々に滲み出る復興への焦燥感を、彼らの倍以上生きている自分はどのように受け止めるべきか、正直なところ悩む。勢いだけのボランティアに走る時期はもう終わった。かと言って、復興のグランドデザインに関与する能力も機会もない。(それは私も同じ。)考えよう、とだけアドバイス。 (2012.01.15. at 21:27:05)

   学生諸君と(了)


震災の記憶


この震災の「記憶を風化させない」という理念を実現するためにすべき事は、「記録を作り保存すること」。証言を丹念にインタビューし、避難所のチラシやポスターまで集め、地方欄の新聞記事も整理しておくこと。そういう地味な作業をしなければ、人間の記憶は簡単に風化する。まさに歴史の営みだが。 (2012.01.15. at 22:56:56)


「記録」のなくなりやすさを分かりやすい例で言うと、スケジュールを記しておくカレンダー。日付に予定を記入するけど、一ヶ月、あるいは一年経ってしまうと、そのカレンダーは普通捨てられます。意外にも、残りにくい歴史資料はカレンダー・暦なんです。毎年、何百万部と刷られている物なのに。 (2012.01.15. at 23:04:28)


これから震災関係資料を集める作業に入るが、被災地の皆さんにとっては「廃品回収?」と思われるかもしれない。チラシや紙くずのような物まで集めるのだが、避難所でのお知らせとか、配られた物資の包装紙でさえ、そこで避難していた様子を示す大事な証人なので集める。その際はよろしくお願いします。 (2012.01.15. at 23:14:27)


17年目の1月17日に向けて、合掌。まだ一日あるが、当日はその時刻に時間が取れないため、今ここで。 (2012.01.16. at 00:32:29)


いわゆる災害時の「ボランティア論」として簡単に入手できる本を数点読んだが、ボラ側だけの視点での実践論が多いことに違和感を持った。受援側の立場、意識への配慮が薄いという印象。授援と支援のコミュニケーションを取込んだ議論をしないと、ボラの独善論に陥ってしまうだろう。 (2012.01.16. at 09:57:45)


現地に行って誰もがすぐできるボラの仕事が少なくなっているのは事実。ある種の特殊技能や経験を求められる場合が多くなる。むしろ、支援者を支援する間接支援を意識的に広げねばならないだろう。これは半年前ぐらいから言い続けてきたが、年を越して改めて強調しなければ、と感じている。 (2012.01.16. at 11:55:18)


歴史や文化財の関係者によるボラだと、震災直後は文化財レスキューが緊急に求められた。(かなり専門技能に近い。)次の段階として、復旧が一段落した時のボラは、震災関連資料の収集になるだろう。これは昨夜呟いたような内容。チラシやメモなどの「廃品回収」にも見えてしまう作業。 (2012.01.16. at 12:00:57)


震災記録の収集と保存のモデルになるのは、神戸大学「震災文庫」スタッフの活動。今回の震災は広域にわたるので、一大学では無理。被災地の地域図書館、大学図書館が連携して資料収集にあたることになるだろう。それだけに、資料収集の実務、情報提供のボランティアは不可欠である。 (2012.01.16. at 12:21:24)


どこまでコンセンサスを得られるか不確定だが、震災関連資料のアーカイブズ化は、収集段階での人海戦術が確実なので、人件費が相当必要。国や県に働きかけて、基金化か、CFW的雇用創出+ボラで対処するかかな。 (2012.01.16. at 14:39:50)


17年、あるいはそれ以上の時間が経過したことで見えてくる震災の様相というものもあるはずで、記憶の風化を食い止め、未来への指針を残すためにも、証言と記録の保存は続けねば。センセーショナルな報道やイベントに惑わされないためにも、信頼できる情報は保存しておかねば。 (2012.01.17. at 07:32:47)


未来への指針ということであれば、我々にとっては不運であるが、一世代の間に巨大震災を二度も経験した。三度目に来るであろう地震への備えを我々の世代が残さねば、後々の防災対策への社会的信頼は得られまい。当たり前のことだが、敢えて。 (2012.01.17. at 07:41:33)

   震災の記憶(了)


まだEM菌がネタになってるのか。。。 最初にこの代物を被災地で聞いたのが5月ぐらいだったから、しぶといなあ。。。 いや、菌そのものよりも信奉者の方がよほどしぶとい。 (2012.01.17. at 20:27:29)


皮肉を込めて言えば、3.11に東京で国の追悼行事をしてくれるので、多くの被災地は静かに、自分の望む方法で慰霊追悼ができる。原発関連デモも東京で併せてやれば、アピール度は高まるし、被災地の反発も受けないはず。だから、国の追悼行事は東京でやってくれ。 (2012.01.21. at 06:55:23)


今回の震災の被災地はあまりにも広いから、国の慰霊行事を東京の外でやろうとすると、会場以外の県に対する不公平感やら地域軽視を言う批判が出るだろう。むしろ東京でやることで、国の復興にかける強い意思表示を、西日本にも向けて発信できるのではないかな。東日本だけで閉じないためにも。 (2012.01.21. at 07:18:33)


京都検定


今日の研究会で「京都検定」の事が話題になり、面白いシステムだなあ、と感心したことが幾つかあった。第一に、検定一級に合格すると京都産業大学で特別研究員の資格がもらえて、一年間(だったかな)研究活動ができること。 (2012.01.22. at 18:38:31)


第二に、検定合格者は京都府内協賛店の優遇割引サービスが受けられること。これは商工会議所が主催だからできること。第三に、検定合格者のグループが作られる場合もあり、歴史イベントボラなどに参加していること。 (2012.01.22. at 18:43:02)


これに類似の企画は全国あちこちにあるかもしれないが、やはり京都検定のように、合格者に目に見えるメリットとモティベーションを与えることが大事なんだろうなと考える。東京では大手出版社の主催で「江戸検定」が実施されたが、あえなく。。。何もメリットなかったからなあ。 (2012.01.22. at 18:52:02)


これをヒントにして考え付いたアイディア。例えば「防災」「減災」をテーマにした検定イベントみたいな企画はどうだろう?知識・実践・ボラなどの普及教育も兼ねる試み。合格者には研究や実践の特典を与える。課題は誰が主催し、何を特典にするかかな。 (2012.01.22. at 19:00:08)


まあ、防災アドバイザー、ボランティア的な資格はもうどこかで実現しているかもね。 (2012.01.22. at 19:10:23)


自分の住んでる自治体が、既に防災方面でさっきの話に近いことにとりくんでいるみたい、とのお知らせをいただく。うむ、これは恥ずかしい事態だ。申し訳ないのであります。 (2012.01.22. at 19:59:03)

   京都検定(了)


なんだか、震災1年目の3月11日が近付くにつれ、不毛な騒ぎが多くなっているように思う。予想はしていたものの、騒ぐ人にとっては多分最後の節目になってしまうんだろうなあ。記憶の風化の派手な序章になるに違いない。 (2012.01.23. at 05:40:18)

普通に交わしている何気ない言葉が、相手に絶望や悲しみをもたらすかもしれない状況。それが格差なんだろう。 (2012.01.23. at 05:52:53)


こうして度々地震の脅威にさらされていると、復興のプロセスには常に「防災・減災」と一体化したプランが必要なんだな、と痛感する。復興までの間、仮設住宅の防災体制は大丈夫か、学校教育の現場は?などと考えてしまう。いつ次の地震・津波が来ても大丈夫なようにしておかないと。 (2012.01.23. at 21:03:20)


そういえば、去年の7月に長野の木祖村に行ったとき、名古屋市の職員の方とお会いして名刺を交換したが、その方もやはり、「陸前高田市に派遣されて行きましたよ」、とおっしゃってたなあ。その方は水道方面で支援されていた。 (2012.01.24. at 22:03:20)


これから1ヶ月近くの間、東日本では震災・原発絡みのイベントが増えるだろう。できれば一過性のものにはリソースを投じたくはない。継続して支援や復興に取り組む団体を見極めて、応援したい。もちろん、イベントなど打たずに黙々と活動されている方々も忘れずに。 (2012.01.27. at 10:24:47)


戦前の三陸津波の時に展開した軍による救援・広報活動と、戦時中に起きた震災の救援・広報活動を比較してみるのは、歴史的に重要なテーマじゃないかな、と思う。 (2012.01.27. at 10:33:46)


こんなに自然災害の頻発する国でありながら、千年以上も保存されてきた文物が多数あるということは素直に驚き。失われてしまった物も多いはずだが、それだけに、今に伝えられた物を残す取り組みは十分に施されねば、とあらためて。 (2012.01.28. at 08:48:31)


だったら、まずは自分の部屋を片付けろ!ということですね。はい。。。 (2012.01.28. at 08:49:54)


北国で積雪時に地震があった時の避難誘導、地元の方は注意していらっしゃるでしょうが、旅行客は気を付けておくべきなんだな、と今更ながらに気がついた。 (2012.01.28. at 10:24:44)


関東大震災が9月に起きたので、たぶん、防災関係行事がこの季節に偏っている。公的機関の開設時間の関係だろうが、夜間防災訓練の機会もまれ。災害はいつでも起こることを考えれば、訓練の季節と時間帯を分散させることは重要なんだろうなあ。 (2012.01.28. at 10:39:55)


もはや覚悟を決めて動かねばならないことだが、首都圏のラッシュアワー時に直下型地震が起きたならば、群衆津波・将棋倒し、車内缶詰は避けられまい。それを恐れてできる限り、混雑時を外して動くようにしているが、さすがに今朝はそれもできなかった。 (2012.01.30. at 08:00:12)


今でさえこんな感じなんだから、3.11に近づけば近づくほど、各方面の対立や煽り合戦は激化していくんだろうなあ。覚悟しとかないと。 (2012.01.31. at 05:59:22)

これからの被災地支援活動は、見えない対象、見えない現場にシフトしていく。雇用対策、除染活動、地域の見守り、等々。公私ともに、専門的知見がさらに求められる。それだけに、被災地外の人たちの支援活動への理解は重要。記憶風化を危惧する一つの側面がこれ。 (2012.01.31. at 06:41:18)


被災地を語る言葉が、明るい絶望か、暗い希望にしか聞こえないやるせなさ。なぜ、絶望を語る口はすずやかで、希望を紡ぐ言葉が重いのか。 (2012.02.04. at 01:10:43)


「忘れはしないけれども、過剰な反応はしたくない」震災後、一年を迎えるにあたっての正直な気持ちかも知れない。物理的に騒ぐことは控えたいし、精神的にはフラッシュバックを誘導されるような状態には自らを追い込みたくもない。そういう思いは尊重されたいし、過剰な反応から身を守るすべも大事。 (2012.02.06. at 05:06:26)


一・二ヶ月前の報道であったと思うが、二年前のハイチ地震以後、いまだに50万人規模の避難生活・テント生活者がいるとのこと。元々政府機能が脆弱だったこともあるが、災害後に政治的・経済的に取り残された地域の現実がこれなのだろう。 (2012.02.06. at 05:42:36)


この半年、同じことを考えている。100年単位で振り返ると、三陸の津波からの復旧・復興は、2回とも同じパターン。高台移転など、新しい町作りの機運が最初に盛上がり、ある程度復旧すると急速に内外の熱が冷めて、それ以後の政策・財政支援も急減。このパターンからどうすれば逃れられるか。 (2012.02.06. at 06:12:56)


震災後、一年が経過したからと言って、今の状況が劇的に変わることは無いだろう。煽るマスコミや団体が「一年目の真実」を告げ、以下同様に「三年目」、「十年目」…の真実を語り続けるに違いない。えてして、状況の変化は目に見えないから、それに耐えねばならない現実から逃げられない。 (2012.02.06. at 07:46:08)


この一年、様々なボラや支援活動をされた方と意見交換する機会を得たが、直面する課題が複雑多岐だったため、例えば、物資支援・原発・地域復興・瓦礫処理、を挙げただけでも、様々な意見の組み合わせが可能だった。こちらには賛同できても、あちらは過激でついてけないなあ、という人がいたのも事実。 (2012.02.09. at 08:52:21)


震災以後、著名人のアホなツイートが物議を巻き起こすケースを何度か見てきた。そのような事態を招く人たちには、何か発言の傾向に共通点がありそうなんだけど、まだよくわからない。 (2012.02.10. at 02:19:59)


がんばれる人だけがんばればいい。その気持ち、がんばろう!を面と向かって言われると、辛い人がかなりいることを忘れちゃいけない。春休みに時間のできる学生諸君などは、特に気をつけてほしい。もうこれ以上頑張れないし、むしろ、東北の海や山を前にして、人間の頑張りの小ささを体感してください。 (2012.02.11. at 08:57:54)


これから一ヶ月は静かに情勢を見て、10年単位で考える東北地方への関わり方を探ってみようかな。 (2012.02.11. at 09:01:00)


仙台の街中だけを表面的に見ていると、地震なんてあったのか?と思ってしまうのは仕方ない。これが、ビルや高速道倒壊の目立った阪神・淡路大震災の時と大きく違う印象だろう。仙台の中心部の建築物が倒壊しなかったのは不幸中の幸い、とあらためて思う。 (2012.02.11. at 10:02:07)


宮城県図書館調査報告


宮城県図書館特別展「絆の証し」、今日から。震災以後収集の資料や新聞、写真を展示。避難所のチラシやポスター、「おぢゃとも」のようなミニコミ誌、等々。あらためて当時の雰囲気を蘇らせる貴重な震災の証言資料の数々。今後の収集にも弾みがつくよう、多くの皆様にご覧いただけますことを。 (2012.02.11. at 11:20:31)


宮城県図書館にて、黙祷 2012 02 11 (2012.02.11. at 14:46:04)


明治29年の津波は旧暦の5月5日に発生し、昭和8年の津波は3月3日に起きた。偶然とはいえ、子供たちの節句の楽しい笑顔が暗転したことを思うと、あまりにも哀しすぎる。 (2012.02.11. at 16:48:57)


昭和8年に津波が発生した時の大蔵大臣は高橋是清だったか。これもあらためて気が付いたが、仙台藩関係者というのも奇遇だな。今の財務大臣とはおおちが。。。 (2012.02.11. at 16:53:10)


宮城県による昭和8年の津波の報告書の巻末には、100ページにわたる被害統計表が載せられている。これらのデータはなんと、村の中の字(あざ)単位で集計されている。このデータの細かさは、町内会単位の防災教育に役立つと思うなあ。 (2012.02.11. at 17:02:07)


今日見た、宮城県の昭和8年津波の報告書。被災地写真を数十枚収録するが、不思議なことに、当時の茅葺き屋根の骨組みが比較的残っていて、ちょっとだけ高い敷地の家だと原形を留めている。つまり、今回の津波が比較にならないほど巨大だったということなのだろう。 (2012.02.11. at 23:07:14)


この津波報告書には、宮城県が設計施工したバラック(今の仮説住宅!)の設計図と現地写真もあった。間取りは、八畳一間に押入れ、台所、土間だけ。木造。材料は現地切り出しだった模様。 (2012.02.11. at 23:17:11)


(昭和8年津波)よく考えてみれば、当時は当たり前だったはずのことがいくつか。/緊急通信手段として伝書鳩が用いられていたこと。/東京での支援物資受付窓口が上野駅に置かれていたこと。/母親が「後片付けに全力を傾けられるように」被災地に私設託児所が設けられたこと。 (2012.02.11. at 23:36:04)

   宮城県図書館調査報告(了)

凡例

・以下の記録は、2011年12月08日から、2012年1月13日までのTwitterでの呟きを主題別にまとめたものの一つ、「震災と支援をめぐる雑感」である。
・収録した呟きは、著者本人の独白形式のみを採り、RTとそれへのコメント、@付きでやりとりをした会話は除外した。
・各呟きは、ほぼ時系列に沿って提示している。("2011.07.17. at 15:23:10" で呟いた日付と時間を指示する。)

・その時々の印象を呟いたものがほとんどであるので、後に諸状況の変化が生じて事実とずれてしまった記載も認められるが、その時点での記録として収録している。
・収録にあたっては、誤字脱字を訂正し、必要最低限の補足修正に留めている。
・「※」を付して、呟きの背景を注記した箇所もある。
・一連の内容がまとまっている場合は、適宜、小見出しを付けた。


本文


支援の様式と機能について雑感


(素人発言です)支援形式を考えると、「個人→個人」とイメージするのがまずいのかな。「個人→社会(仲介団体)→個人」として間に社会をかませて、「社会に正常に参加できない状態の人をケアする」という観点から支援を考えると、今起こっているような支援トラブルはかなり解消するのではないかな。 (2011.12.08. at 21:17:23)


「個人の幸福」だけではなく、「社会の機能維持」をも目標に掲げる支援活動の必要性。個人の不具合は社会の機能不全をもたらす。だから支援をするという発想。日本のボランティア風土にはこの意識が希薄なのではないか。 (2011.12.09. at 07:16:21)


「社会機能維持」のための支援という発想は、OECDのDeSeCoプロジェクトの目標「個人の成功と良好に機能する社会の達成」がヒント。このプロジェクトは本来教育政策関連のものだが、教育を支援に置き換えてみれば良いかも、というのがこの発想。 (2011.12.09. at 07:23:49)


長期継続支援を維持するためにも、そういった支援の必要性を訴えるためにも、社会・公共性を伴った視点は不可欠だと思う。情に訴えるだけではとても続かない。だから、社会的責任を標榜する支援仲介団体が求められると考える。 (2011.12.09. at 07:33:02)

   支援の様式と機能について雑感(了)


震災直後からたくさん言われて、無意識の内に自分も使っていたフレーズ「東北人は我慢強いから…」。よくよく考え直せば、これは長い歴史的経験から、「待ったところで誰も助けてくれないから諦めた」という側面もありそうな気がしている。ひねくれた印象かな。 (2011.12.09. at 09:21:01)


東北は日本のごみすて場かよ、おいおい(苦笑) (2011.12.09. at 09:26:19)


正月三が日ぐらい、静かに勝手にさせてほしいわなあ (2011.12.09. at 12:40:06)


被災地が、あまりにも広すぎる (2011.12.10. at 06:47:40)


9ヶ月目の朝。冬の寒さに身を切られ、いつにない虚無感に包まれる年の瀬。 (2011.12.11. at 07:07:45)


雇用の有無が、あらためて被災地に重くのしかかる課題であることを忘れずに。失業保険の切れた後の対処。せめて、子供のいる世帯には、教育費の無償化・奨学金枠の拡大で、家計負担を減らせないものか。 (2011.12.11. at 07:14:03)


宮城県中央部の場合、避難先と職を求めて仙台周辺に若年人口が集中していく傾向が強まっていくのじゃないかなあ。年度末にかけて。 (2011.12.11. at 07:25:21)


支援の形、様々。人の内面(メンタル)を、人の外面(生活)を、人と人の繋がり(共同体)を、人の活動(労働・教育)を、支援する多様さ。そして文化への支援も。支援は、それぞれのゴールと限界を忘れずに。 (2011.12.11. at 07:33:07)


弱小学会の事務局を引き受けていることが、なんということはない、ボランティアじゃないかと、今さら気が付いた。自分が好きだからやり、会員に押し付けもせず、本業の成果以外何も求めないし、後任が現れれば譲ればいい。被災地の支援も、態度は同じなんだろうな。 (2011.12.11. at 08:06:20)


学会中。2時台に時間がとれないので、今、心の中で祈ります。 (2011.12.11. at 13:46:08)


「生き残れて良かった」という思いが、「生き延びることは苦痛だ」という思いに逆転してしまう非情。これが、人間というものなのか… (2011.12.12. at 00:31:14)


金光図書館にて


岡山出張から、帰りの時間に余裕があったので、金光図書館に寄って、金光館長先生と司書の金光さんにご挨拶してきた。2年ぶりかな。帰り際、震災が話題になり、金光教と金光図書館の支援活動についてお聞きした。石巻と気仙沼を中心に活動され、図書発送など、現地にも何度か「お忍び」で行かれたとのこと。 (2011.12.13. at 16:31:12)


この金光図書館には和算家・小野光右衛門の資料があるので私は何度か調査したのだが、一般図書の特徴的なコレクションとしては、戦後まもなくから一貫して児童書と女性問題専門書を集めてきたこと。金光司書いわく、「うちは女子供のための図書館なのよ」と。 (2011.12.13. at 16:38:14)


金光教では被災地教会を拠点とし、継続的にボラと支援物資を投入してきた。気仙沼の仮設に図書も発送したとのこと。自分も被災地出身であることを告げ、僭越ながらお礼申し上げた。ぜひこれからもご協力をということで、一も二もなく、こちらからもお願いしました。和算研究からの不思議なご縁に感謝。 (2011.12.13. at 16:47:16)


世の中、クリスマスムードか。西日本はしっかり楽しんでくだされい。明るい日本を今こそ。 (2011.12.13. at 18:37:24)

   金光図書館にて(了)


仙台の冬


この年末の時期、普通の業務をこなすだけでも難しい一般人が、被災地ボラに参加できるかどうかは相当の調整が必要なはず。それだけに、マンパワーを有効に活かすためにも、ボラの業務内容の精査は求められるし、不要不急の仕事は後にする判断もしなければなるまい。 (2011.12.17. at 08:14:06)


仙台周辺は例年、東北で一番暖かい冬になる地域なので、東北人の中でも仙台人は一番根性無しな気がします。私だけを例にして一般化してみました。 (2011.12.17. at 10:13:45)


仙台近郊の冬の甘さは、他の東北豪雪地帯からみれば「ふざけるな!」というレベル。膝上積雪となる日は年に数回。(子供の頃は雪だるまやかまくらを作るのがあこがれ…)日中最高気温氷点下になることもまれ。大変といえば、強風が多いことぐらい?これじゃ、一般的な東北の冬のイメージとは違うよね。 (2011.12.17. at 10:23:40)


冬もダメなら、夏もダメな仙台人。7月の最高気温が札幌よりも低い日すらありますし。そう、宮沢賢治の「雨ニモ負ケズ」で言われてることは、仙台人にとっては、究極の努力目標なんです。 (2011.12.17. at 10:42:40)


いえ、冬の寒さを話題にして何が言いたかったのかというと、東北の冬を仙台基準で見るととんでもないことになる、ということです。関東以南からいらっしゃるボラのみなさん、仙台程度で寒い寒いと言ってたら、他の東北での冬作業は無理。安全と保温には十分注意してください。 (2011.12.17. at 10:54:56)

   仙台の冬(了)


これだけ災害の多い国なのに、災害時支援の理論的枠組みが脆弱というのもお寒い状況なのか。そもそも、平時支援の枠組みも不十分であれば、それも致し方ない。単なる体験記、実践記だけが大手を振っているようでは、それこそ「想定外」を想定することすらできないのではないか。 (2011.12.17. at 17:09:04)


だから、こういう方面の研究をされている方たちに期待をしているという事なんです。 (2011.12.17. at 17:10:42)


どんな問題状況でもそうだけれど、対処すべき案件が多くなればなるほど、対応法は個別化し、特殊化(専門化)していくもの。一方で、問題状況そのものに対する総合的理解も絶対に必要。だから、専門家をつなぐコーディネーター、ネットワークが必要になるわけ。被災地の状況が、今まさにこれです。 (2011.12.17. at 17:20:20)


震災の記録について


明治29年の三陸の大津波から、今年の津波までの間、災害復興の街作りの経過を追跡しておく必要がありそうだな。。。 特に、明治29年の津波の時の沿岸部の復旧が気になる。なぜ津波の浸水地域に再び集落が形成されたのか。。。 (2011.12.17. at 18:44:51)


明治29年の浸水地域への集落建設の問題は、2004年のインドネシアの津波の時と同じ構造の問題かもしれない。当時作成された宮城県編資料を読み解かねばならないが、かなり古い文体と語彙で書かれていた記憶がある。宮城県図書館でコピーして、今の文体に直して公開しないと読みにくいかも。。。 (2011.12.17. at 18:49:42)


これから、震災の記録のアーカイブを作っていかなければならないけど、どんなモデルが必要かな。。。 中国清華大の張さんたちが立ち上げた、殷墟の発掘品をデータベース化するシステム、e-Archeologyあたりが参考になりそう。。 (2011.12.17. at 20:36:45)


何を記録・資料として残すかという問題は、常にアーキビストや歴史家の悩み。大きな物は現場の遺跡から、小さな物は津波で流された生活用品。文字として見える文書に、文字としては見えない被災者の証言、ツイッターの呟き。その時代が切り取る断片を、いかにして後世にも意味ある物として伝えるか。 (2011.12.17. at 20:45:44)


震災の記録を残す作業は、もちろん現代史の課題として既にたくさんの方が取り組み始めていると思う。災害の記録は、ともすると悲惨さや被害の甚大さを強調する嫌いがあったと感じているが、今後は、発災から被害状況、救援、復旧、復興までの流れを総合的に見通せるような視点が必要だと切に思う。 (2011.12.17. at 20:54:49)


震災の体験談を語っていただく方とその証言を指して安易に「語り部」や「民話」と一括する風潮に違和感。多少言葉は固くなっても、証言・記録・体験談などを使って欲しい。「民話」だと記憶の風化を助長してしまうような気がする。言葉の親しみやすさと伝えるべき内容の重大さは別次元の話。 (2011.12.18. at 10:08:53)


東京で震災が起きたら、その証言のことを「民話」と呼ぶだろうか? (2011.12.18. at 10:13:11)

   震災の記録について(了)


何でもいいけど、被災地支援のために即売会や販売会で売り子になったら、営業意識出さないとダメだよね。通行人に素通りされてくのを見て、「震災の記憶が風化されてく。。。」と愚痴るのは筋違い。自分の営業スキルを上げることを考えないと。これは、実体験からの結論です。 (2011.12.18. at 17:53:35)


こういう状況になってしまうと、あれも読んでおけばよかった、これも勉強しておけばよかった、となるわけだが、その時々の限界を今さら自己否定しても仕方ない。自分に欠けているものを、どれだけ他人様から教えていただくかが大事になるのだろう、これからは。 (2011.12.19. at 01:43:23)


オウム真理教との対比が何かと各方面で話題になっているが、「友達の友達」ぐらいの関係者が逮捕されているその世代の者としては複雑な心境。カルト集団に共通な面もあれば、全く無関係な面もある。いまだ、カルト的な集団との対峙の仕方が社会的に解決されていないんだな、と思う。 (2011.12.19. at 07:22:07)


そうか。他人の困りごとを何とかしたいと思って立ち上げた組織が、自分自身の困りごとを抱えてしまうようになってしまうというのは、不可抗力の事故などに由来しているのでなければ、制度設計の段階で間違えてしまってるということなんだな。 (2011.12.19. at 08:23:07)


今年何度目かの同じつぶやき。「大ニュースの陰に隠れて、重大発表をさらりと流す奴に注意」 (2011.12.19. at 13:28:50)


江戸期の豪商が記した火事の事後処理の史料を見たことがある。見舞としてもらった物品が手拭い、タクワンの一本まで几帳面に記されている。小まめだなあ、と思ったが、いや、これはお返しの時に絶対必要なデータだ、と気付いた。もらった品物に相応しいお返し。この気質が現代まで?と思えた。 (2011.12.20. at 08:30:00)


近世の生活で、互助の精神はかなり徹底されていたが、それは無償の物資提供ではない。貰った物に対して、次の災害時に見合った物を送り返す。家の格や経済力などが、そこには如実に反映される。このような災害時の贈答文化意識が、地域社会に残っているとしたら、ボラの実践にも注意が必要かも。 (2011.12.20. at 08:38:52)


やっぱり、ボランティアの日本的な起源って、「義民」じゃないの? (2011.12.20. at 21:10:16)


失業者がボランティアって、そりゃ変だよなあ。人の心配するより、まず自分の生活何とかしろよ。 (2011.12.21. at 00:56:00)


今取組んでる本。遠藤薫編著『大震災後の社会学』(講談社現代新書2136、2011年12月、税別800円)、伊藤・奥野・他編『東日本大震災復興への提言 持続可能な経済社会の構築』(東大出版会、2011年6月、税別1800円)前者は読了。後者はこれから。 (2011.12.22. at 11:34:07)


出張やら何やらで、しばらく家族と話をしていなかったので最近知ったのだが、明日から一泊二日で、小5の息子が宮古にボラに行く。(^-^; もちろん学校単位の募集で、教員・看護士さんがついていく。 (2011.12.22. at 23:49:17)


息子のボラツアーは、慶応の学生諸君が企画してくれたもの。計画説明書を見る限り、うちのガキが行っても被災地にご迷惑はかけないだろうと判断。ただ、くどいほど、はしゃがないこと、写真でVサインはするなと注意した。まだ被災地を見せていなかったので、子供自身の思いで見るのが良いとも思った。 (2011.12.23. at 00:02:15)


息子のボラツアーは、学年から7名ほど、志願していくらしい。まあ、そんなところだろうな。 (2011.12.23. at 00:27:17)


おはようございます。うちのガキども、北に向かいました。もし何か粗相がありましたら、遠慮なくボラメンバー含めて注意・ご指導をお願いいたします。被災地のみなさま m(__)m (2011.12.23. at 09:33:37)


飲んでた店で流していたテレビで、多賀城市内の津波映像が映されていた。産業道路、これは逃げられないよなあ、とあらためて見入っていた。。。 実家も偶然、津波を免れたんだなあ、と再確認。 (2011.12.23. at 21:49:17)


さて、帰るかな。息子もボラツアー(そんな大層なものじゃないけど)から帰ってきたようだし。たまには何もしないクリスマスもいいだろう。 (2011.12.24. at 23:40:03)


ここまで地元から反発食らって、やってくるパンダは初めてじゃないのかな。。。 少なくとも私のTL上では (2011.12.26. at 18:26:46)


あれだけ人気者のパンダですら、来仙を拒絶される雰囲気があるのだから、今自分がやっている歴史研究に国費を投じることなど復興の無駄だ! と言われないように、気を引き締めて仕事をしなければならないと切に思う。 (2011.12.26. at 19:46:30)


貝塚以来、人様のいらなくなった物を拝見して仕事にしているのが、考古学者と歴史学者なんです。でも放射性廃棄物は遠慮いたします。将来、そんな物を掘り当てたりしないように世代間教育も必要ですね。千年単位で。 (^-^; (2011.12.27. at 08:25:46)


鳴瀬で気温3℃。多賀城高橋地区の津波を被った水田を目視したが、やはり水の残り具合が明らかに違っていた。母校・多賀城二中脇の瓦礫置き場は、ほぼ、残土の山だけになっていた。 (2011.12.28. at 10:43:08)


年末年の瀬の仙塩地区を走っていると、子供の頃に親父に連れられて、お得意先にお歳暮のカレンダーを配っていたことを思い出すなあ。 (2011.12.28. at 10:46:45)


東京にいると「支援」の言葉だけに振り回されてるけど、育った町に戻れば、普段の生活のついでにお歳暮を回していくような感覚で動いている。肩肘張らず、普通の生活の中で誰かをサポートする、そんな気持ちでいいと思う、特に被災地出身者は。そしてそれが普通の生活を戻すための近道だろうなあ。 (2011.12.28. at 10:54:10)


震災後、宮城の沿岸部を何度か走ったが、地形と人口の集密度の違いで、こんなにも被害の様子が変わるのかと訪れる度に考えさせられた。砂浜平野部(団地/商店街/工場群)・リアス式海岸(湾の内と外/低地と高地)に起因する相違は少なくとも認められる。常にこの相違は意識しておかねばなるまい。 (2011.12.29. at 10:06:44)


昨日、牡鹿を走っていて見かけた、地域復興の思いを込めた看板に、「海は産み」とあった。いいフレーズだなあ。 (2011.12.29. at 10:51:27)


一個体の生物として生きる人間である以上に、社会・共同体に組み込まれてしか生きていけない人間の姿を過酷な形で見せつけられた一年であったように思う。 (2011.12.29. at 11:37:44)


今年の7月に木祖村の道の駅で購入した本を、今、ぱらぱらとめくっている。長野県林業後継者対策協議会編『山菜の栽培と村おこし 信州山菜の風土と技術』(川辺書林、2006年)地域の取り組みの事例がふんだんに記されていて、参考になる。東北の山村でも適用可能なヒントがあると思った。いずれ。 (2011.12.29. at 16:27:23)


図らずも、東北の春夏秋冬を通覧した一年であった。 (2011.12.29. at 21:38:16)


30年に一度の頻度で地震や津波が襲う地域ならば、それを織込んだ復興計画・事業計画・ライフプランニングが必要なんだろうなあ。永続的な耐久性を求めず、壊れることを前提としたシステムに見合ったリソース配分とセキュリティーネットの構築が鍵になるかな。 (2011.12.30. at 07:19:09)


セキュリティーネット?セーフティーネット?語感としては後者の方が的確か。復興計画の場合。 (2011.12.30. at 07:39:55)


三陸沿岸の地理的条件を考えると、そこにある集落は「漁村」ではなく、「漁山村」と言った方がよいように思う。ただ、東北地方は西日本に比べて、私有林よりも国有林の比率が高いんだよな。。。土地利用についてはそこがネックになるかな。 (2011.12.30. at 07:44:11)


理由なく他人を差別しておく心を宿しながら、美しい心について御託を述べられてもなあ。。。 (2011.12.30. at 08:04:25)


復興を考えていくうえでの「分散と集中」のバランス。地域に流れ込む「外貨」を稼ぐためには、主力産業へのリソースの集中。次に来る自然災害によるシステム崩壊に備えた、多方面へのリソースの分散。そういうイメージかな。 (2011.12.30. at 08:13:04)


オウム真理教事件や阪神・淡路大震災の時もそうだったけど、年末にドーンと特番を立てて振り返ってみて、お正月からはすっかり気分も仕切り直し、という番組構成になると思うんだな、今年の震災についても。 (2011.12.30. at 22:18:54)


この数年、テレビは見ていなかった。自分が出演した番組ですら見ていない。さすがに震災直後の一週間はテレビの前に座っていたが、耐えきれずにツイッターを始めたという経緯があったことを、思い出した。。。 (2011.12.30. at 23:53:26)


日本の国家予算にせよ、自治体の予算にせよ、年度をまたいでの執行は困難で、様々な領域でその硬直性が指摘され、弾力的運用への改善が叫ばれている。一方、我が家の大掃除は、年度を跨ぐ実践をいち早く決定し、諸方への参考事例を提供している。 (2011.12.31. at 12:13:26)


私もそうだが、震災直後からツイッターを始めた人間にとって、今日はこのメディアを使う最初の年越しとなる。今年、旧知の人との思わぬ再会があり、新しい繋がりもたくさんできた。感謝と共に、震災での犠牲者へのご冥福と、復興途上にある皆さんへの心配りを忘れぬようにしたいと思う、来年への抱負。 (2011.12.31. at 14:39:10)


思いを新たにすることは、忘れることではない。 (2011.12.31. at 17:01:10)


再生は、思い出を糧にして (2011.12.31. at 17:34:54)


正月読書録


フォロワー(@kei0441さん)に教えて頂き、読み始めた本、宮地尚子『震災トラウマと復興ストレス』(岩波ブックレット、2011年8月)を読了。被災者・支援者の今後を考えていく上での必読書だと思う。現場の様相が著者の予想通りに展開していることがすごい。。。 (2012.01.01. at 20:25:05)


まだ読んでいなかったのか?と怒られそうだが、永松伸吾先生(@shingon72)の『キャッシュ・フォー・ワーク』(岩波ブックレット、2011年9月)を読了。CFWの歴史は示唆的。CFWの撤退・縮小を織込む議論の健全さに共感。「つなぐ」CFWと「みたす」CFWの提案にも期待。 (2012.01.02. at 08:41:36)


伊藤・奥野他編『東日本大震災復興への提言 持続可能な経済社会の構築』(東大出版会、11年6月)読了。経済学、都市計画他、50名による緊急提言集。震災直後出版であることを忘れずに読まねばならないし、その予測の当否は問題ではない。各提言を今一度現在の文脈に照らすと非常に有益である。 (2012.01.02. at 21:09:14)


この提言集の著者の一人、安藤浩一氏は懐かしい名前。同じ寮の一つ上の先輩だった。マクロ経済をやってたのは知ってたけど、まさかここで名前を見るとは。そういえば、安藤さんと同じ学年で同じ寮にいたSJさんは、気仙沼出身で、市の復興に奔走されている。震災で不思議な再会が続くなあ。。。 (2012.01.02. at 21:16:01)


この提言集、経済周辺の執筆者で固められているので、普段、そちらには縁遠い自分にとっては勉強になった。当然だが、通常の経済行為には該当しないボランティアや支援がほとんど話題に上っていないのは、ハッとさせられた。それにしても宇沢弘文先生はすごいですね。あちこちの章で引用されまくり。 (2012.01.02. at 21:24:20)


中原一歩『奇跡の災害ボランティア「石巻モデル」』(朝日新書、2011年10月)読了。石巻専修大を拠点としたボラの協議会の活動を、ピースボートスタッフに密着取材したレポート。まあ、知っている人も出ていたので想像はしやすかったが。。→ (2012.01.03. at 00:42:54)


「石巻モデル」→行政・ボラ・自衛隊の連携を可能にした石巻モデルは、果たして災害時救援体制の汎用モデルとなりえるかいなか?石巻は様々な点で、偶然が作用していたように思う。これをいかにして、モデル化するかはボラ理論の作業かな?それから、→ (2012.01.03. at 00:45:47)


「石巻モデル」→ボラに密着したので仕方ないが、被災者の視点、ボラを受けた側の叙述が手薄かな。どうしても取材者は、ボラの側から彼岸にいる被災者を眺めるような筆致で描きがち。バランスをとるためにも、被災地発の住民立ち上げボラの情報は重要だと思う。→ (2012.01.03. at 00:50:57)


「石巻モデル」→多分、色々と書けない事もあったんだろうなあ、と思います。旧石巻市街と、広大なそれ以外の地域(合併前の自治体)の間の支援格差など。たとえ石巻モデルでも、カバーできないほど石巻市が広すぎた現実。。。→ (2012.01.03. at 00:56:48)


「石巻モデル」→ピースボートは方針として、支援内容を無制限に拡大せず、撤収時期を見計らっていた。これは大事だと思う。住民の自立を促せるし、小回りの利く一部だけ残して、要望の多様化にも対処できる。これは見習うべき。 (2012.01.03. at 01:02:59)


中村・寺崎編『東日本大震災復興への地域戦略』(エネルギーフォーラム新書、2011年10月)読了。編者は日本政策投資銀行地域振興グループスタッフ。昨年9月頃までの災害情報に基づく手堅い概況と提言。地域振興、自治体財政、経済特区、復興まちづくり会社に関心のある方にはタイムリーな一冊。 (2012.01.03. at 16:24:59)


(地域戦略)第2章「分野別・エリア別の被災状況と復興への地域戦略」は岩・宮・福・茨4県のインフラ、住宅、医療、製造業、観光、農林水産業の概況と提言をまとめている。→ (2012.01.03. at 16:30:56)


(地域戦略)第4章「財政制約下での復興戦略」地方自治体の財源について解説し、今回の震災後の被災県財政事情の展開を、阪神・淡路大震災後の兵庫県、神戸市の事例から予測する。→ (2012.01.03. at 16:36:48)


(地域戦略)第5章「復興特区の可能性」この章はいわゆる経済特区について、基本的な知識がまとめられていて解説としてありがたい。ただ、現時点ではまだ復興特区は実現していないので、注視する必要があるだろう。→ (2012.01.03. at 16:40:56)


(地域戦略)第6章「新たな復興主体の形成」国の復興構想会議でも話題になった「復興まちづくり会社」の説明と提言。従来の三セク失敗の轍を踏まないよう、安定的な売上と組織マネジメントできる人材が必須、と。(CFWの次の段階として適切な経営形態かと思ったが、どうなのだろう?)→ (2012.01.03. at 16:48:40)


(地域戦略)メモ。復興を完成させるには厳しい財政的な制約と、被災地行政機能の一部不全状態がある。地域振興、支援活動の観点からは機能不全な部分を補完して共に進むという意識が大事だろう。「選択と集中」は精査してすべきかと。(行政と敵対するなんて復興の文脈ではナンセンス…) (2012.01.03. at 17:00:17)


色々読んでおかなきゃなあ、ということで、以下の岩波ブックレットを読了。飯田・今井他『原発をどうするか、みんなで決める』、鶴見・澤池他『原発への非服従』、秋山豊寛『原発難民日記』 (2012.01.03. at 20:39:39)


池田信夫他『3.11後日本経済はこうなる!』(朝日新書、2011年6月)読了。震災直後1ヶ月頃の対談形式提言集。続く数ヵ月で話題になった論点はほぼ出ていたが、予想以上の民主党政権の混迷がすべてを狂わせた。この対談時点で福島の避難所を見た小幡氏の提言は、殊に的確であったと思う。 (2012.01.04. at 01:42:38)


何とはなしに過ごした三ヶ日。それでも、ブックレットや新書ばかりだったが、10冊ほど読了。10本入った論文集を1冊読むより、即物的な充実感を味わえたのは確か。電子書籍でもこれは味わえないだろうなあ。。 (2012.01.04. at 01:54:27)


にわか勉強だったけど、過疎化地域向けの都市計画、再開発の発想はコンパクトシティー化が一般的なのかな。三陸だとどうなるかな。。。 (2012.01.04. at 13:20:14)


これも素人の恥かしい呟きだが、衰退局面にあった中小企業の企業価値、資産を査定せずに新規融資を引き出すことは、通常ありえない。今まで意識しなかったが、そんな主体にボラが無制限に支援しちまってよかったのか?まあ、回り回って不良債権化しても支援だからいいのだと言えばそうなのだが。。。 (2012.01.04. at 13:27:19)


仁平典宏『「ボランティア」の誕生と終焉』(名古屋大学出版会、2011年2月)の第1章まで読む。正直に告白すれば、昨年の震災とそれ以後の実体験が無ければ、決して手に取ることはなかった著書である。→ (2012.01.04. at 18:29:47)


(ボラ・誕生・終焉)→自分にとっては未知の領域である「ボランティア論」の片鱗でも知りたいと思い、歴史研究をしている者として、素直なアプローチと思えた本書を手にした。「ボランティア」(とその周辺語彙)に関する言表・言説分析。→ (2012.01.04. at 18:36:48)


(ボラ・誕生・終焉)→戦前の「慈善」を巡る議論の中に既に、この震災で話題になった論点が全て出そろっていたことに愕然とした。この第1章では、「慈善」・「奉仕」・「奉公」の語彙を巡る言説分析を展開。(まだボランティアの用例はわずか。)引き続き、第2章以下も読み進めていく。 (2012.01.04. at 18:38:18)

   正月読書録(了)


被災東北3県の瓦礫処理の遅れが、どれだけ復興の足を引っ張っているか、どなたか試算した方はいらっしゃらないだろうか?… (2012.01.05. at 00:00:37)


震災・復興絡みの学術的イベントだけでも、全国でどれだけやられているのか分からないほどだし、もちろん全部をカバーできるわけもない。主要大学、主要学会でのシンポ、報告会の情報だけでもひとまずアーカイプ化しておかないとダメだろうなあ。。。 (2012.01.07. at 08:02:11)


2極に分断されがちな集団の中に、3極目を構築することは無理かな。原発の是非や放射能汚染の評価についての見解はどうしても両極端に走り、先鋭的なコメントほど流通する。一方、中立層、無関心層は背景に退いている。積極的に発信する第3極が必要なんだろうなあ、と思うこの数日。 (2012.01.07. at 08:13:06)


東北太平洋側だけで瓦礫処理を進めると仮定すると、どれだけの経費が必要か。集積場・焼却処理施設の建設、それらが稼働するまでの間の現地復興の凍結、等々。誰か試算してくれ~ それに見合った財政支出の増加に合意出来るなら、そこから議論を進めないと。 (2012.01.07. at 08:26:49)


正月読書録(Ⅱ)


仁平典宏『「ボランティア」の誕生と終焉』(名古屋大学出版会、2011)の第2~4章を読んだ。敗戦直後から60年代初頭までを扱う。「ボランティア」の語がようやく、普及し始めるのが実はこの60年代初頭。 (2012.01.07. at 09:20:34)


赤い羽共同募金の立ち上げとそれへの批判、社協の成立事情など、門外漢にとっては現在のボラを考えるうえで参考になる歴史的背景を教えられた。(著者の趣旨とはずれた感想で申し訳ありません。)全体のコメントについては、さらに読み進めてからとしたい。 (2012.01.07. at 09:26:51)


仁平『「ボランティア」の誕生と終焉』(名大出版会、2011)の第5・6章を読んだ。70年前後の「奉仕」「ボランティア」の意味の変容が劇的。68年の学生運動と距離を置きつつもソーシャルアクションを志向した左派。戦後引揚者の互助組織から出発した右派組織がなぜか市民運動推進へと大転換。 (2012.01.08. at 22:37:52)


個人的には、現在も続いている組織や社会運動の歴史を知ることができて有益だった。例えば、「青年海外協力隊」。福祉行政の専門家にとってこの組織の形成史は自明なのであろうが、驚愕の一言。。。それにしてもボラを巡る発言・意識は戦前から一貫して変わらないことも確認。→ (2012.01.08. at 22:41:23)


ボラを巡る認識が、結局「自己満足ではないのか?」という疑念と自己否定に向かったとき、次の行動をどこに向けるかという選択が、その時代の条件に束縛されるのかな、と感じた。「ボラを無くすためのボラ」という発言も70年代には既にあったとのこと。→ (2012.01.08. at 22:46:43)


逆に、ボラに参加する人たちは、なぜ全く同じ意識と行動様式を繰り返し出現させてきたのだろう?と自分なりに考えてみた。震災後の10ヶ月間で交わされた膨大なボラに関する呟きのほとんどは、70年代までの状況で全て言われ尽くされていたように私には見える。→ (2012.01.08. at 22:50:08)


恐らくそれは、ボラが必要となる現場が突然出現し、それまで全く現場とは関係の無い大多数が当事者として放り込れ、ボラについて一から考え直す経験を迫られるからだろうと思う。歴史と経験の蓄積を継承する機会を得ぬまま、実践を迫られるが故の反復であったのではないかと。→ (2012.01.08. at 22:55:08)


「経験の無い現場に飛び込まされる」という話はよく考えれば、人間が「生きていくことそのもの」に他ならないが、ボラという特殊に見える行為に意識が集中すると、途端に、他人との関係性や自分自身の在り様について、反省をしてしまうのかもしれない。/さらに読んでいきます。 (2012.01.08. at 23:00:01)

   正月読書録(Ⅱ) (了)


明るい悲観論を語れないものかなあ。。。 (2012.01.09. at 00:30:44)


「みちのく震録伝」国際シンポ


これから、仙台国際センターで開かれる、国際シンポジウムに向かいます。駅から広瀬川まで、また歩こう。 (2012.01.11. at 08:56:16)


震災から10ヶ月目の今日、「これから」のことを考える一日にしたい。 (2012.01.11. at 08:59:33)


午前中の各報告を受けて、考えたこと。震災の記録、写真、証言…を集めて公開する(アーカイブ化)する体制は、省庁、企業、大学レベルでかなり進んでいる。並列して進んでいる各PJの間でいかに連携していくかが次の課題か。あとは現地からどうやって記録を集めるかだろうか。 (2012.01.11. at 12:56:52)


細かい話だが、記録・証言の集め方は、インタビュー、オーラルヒストリーの専門家の他に、メンタル・サポートも必要なんだろうなあ。IT関連技術は現状で問題ないだろうが、人間の生活、心理、復興のプロセスのどこまでをどのように記録、保存するかの議論も大事かな。 (2012.01.11. at 13:02:32)


現代史の記録の残し方の難しさは二つある。物としての資料・史料の膨大さ。何を残し、何を捨てるかの判別の困難さ。もう一つは、オーラルヒストリーのような証言収集。時間の経過と共に、人の記憶はどうしても「整頓」される。災害時は特に、通常の心理状態ではなく、そうなるかもしれない。 (2012.01.11. at 13:18:55)


黙さず、祈りを (2012.01.11. at 14:49:15)


国際シンポ休憩中。神戸大の震災文庫設立から運営業務の円滑化までのあゆみは、非常に参考になりました。被災三県図書館+仙台市+東北大の取り組みは、やはり地域市民の視点の重要性を再確認。チラシから手書きメモまでとにかく集めないと。。。 (2012.01.11. at 16:07:31)


今回の国際シンポのまとめを東北大学のHPで公開するとのことです。一週間後ぐらいには。。。とのことでした。「みちのく震録伝」がプロジェクト名です。 (2012.01.11. at 17:22:19)

   「みちのく震録伝」国際シンポ(了)


宮城県図書館調査報告


宮城県図書館で調査終了。帰りはバスで泉中央駅へ。明治と昭和それぞれの三陸津波被害報告書(宮城県)を調べた。昭和の報告書は写真が多数収録されているが、とても正視できないカットもある。このあたりは一部写真を除いて、デジタル化して公開するのが良いと思う。 (2012.01.12. at 12:12:16)


二言目にはまだ普通に震災を話題にする地域と、地震の一語すら発しない地域を行ったり来たりしていると、日本国内は意識面でたしかに二極化しつつあるな、と感じさせられる。これに原発事故が加わると、さらに事情は複雑になるのだろう。。。 なんとかしないと。 (2012.01.12. at 21:25:35)


やっと昨日、宮城県図書館で一部をコピーした宮城県による明治29年津波の報告書、『宮城県海嘯誌』(明治36年刊)。パラパラとめくっていたら、ちゃんと貞観地震から直近までの歴史的記載もあった。翻刻してWebに載せる積もりだけど、単位がすべて尺貫法なので注が大変そう。。。 (2012.01.13. at 10:30:17)


宮城県図書館で、昭和8年の津波の報告書も、目次部分だけコピーしたが、閖上と坂元にも被害のあったことが確認できた。しかしほとんどのページは牡鹿以北の情報で埋まっている。「記録されなければ記憶に残らない」という例だろう。昭和の津波の時、仙台平野部にも津波が来ていたのである。 (2012.01.13. at 12:07:24)


この昭和の報告書に三本序文が載せられていたが、三つとも「東北地方は天恵が少なく」、だから住民は「剛健不屈」だと一括りにされていたのには滅入った。東北に対する地域的イメージの根深さを見せられた思いである。 (2012.01.13. at 12:12:34)


昭和8年に仙台平野南部にも津波が来ていたことは、関係者の間の伝承では記憶されていたかもしれないが、全県的な記憶になっていたかな、というと怪しいだろう。歴史記録の利活用の話題になるな、これは。。。 (2012.01.13. at 12:24:11)

   宮城県図書館調査報告(了)

凡例

・以下の記録は、2011年11月02日から、2011年12月8日までのTwitterでの呟きを主題別にまとめたものの一つ、「震災と支援をめぐる雑感」である。
・収録した呟きは、著者本人の独白形式のみを採り、RTとそれへのコメント、@付きでやりとりをした会話は除外した。
・各呟きは、ほぼ時系列に沿って提示している。("2011.07.17. at 15:23:10" で呟いた日付と時間を指示する。)

・その時々の印象を呟いたものがほとんどであるので、後に諸状況の変化が生じて事実とずれてしまった記載も認められるが、その時点での記録として収録している。
・収録にあたっては、誤字脱字を訂正し、必要最低限の補足修正に留めている。
・「※」を付して、呟きの背景を注記した箇所もある。
・一連の内容がまとまっている場合は、適宜、小見出しを付けた。


本文


今年の自然災害(私の記憶から)。豪・水害、NZ・地震、日・地震、津波、中・干魃、米・竜巻、タイ・水害、トルコ・地震。他にもあったような気がするが… (2011.11.01. at 11:31:19)
※他に、紀伊半島の台風、アイルランド噴火


自宅被災者の状況管見


週末の宮城行きでは、自分なりに意識転換を促すためもあって各地を見た。(お邪魔した皆さん、本当にありがとうございました!)震災後8ヶ月近く経過して、いつまでも漠然とした印象論や感情論だけでは何の役にもたたないと思い、被災地の統計データなどを県図書館で調べることから始めた。 (2011.11.01. at 11:44:12)


地域産業や社会統計の専門家ではないけれども、被災地のこれからを知識労働者の端くれとして語るには、最低限の情報は仕入れておかねば、と考えているので。震災前の人口動態、県内商圏の推移、農林水産業の経済規模ぐらいは調べておこうと思った。また3日に調査に行きます。 (2011.11.01. at 11:56:20)


被災地の被災者の方をひとくくりにまとめて状況説明することは無理。私が集められた情報も、その中の一部に過ぎないことは十分自覚しなければ、と思っている。以下の事例、条件も、そのつもりで列挙する。 (2011.11.05. at 05:49:30)


仮設に入った方、半壊自宅で過ごす方。前者は家電他の支援が届く。後者は改築資金の一部が公的支援を主として届く。(個人的な保険ならさらに条件は良い。)課題はここから。被災者の仕事、年金の有無が明暗を分ける。失業・廃業された方の再スタートまで、自宅生活者のハンデが大きすぎる。 (2011.11.05. at 06:14:18)


自宅改築資金をもらっても現場の大工さんが足りず、でも冬まで待てないので、自分で修理を始める被災者の方もいる。就活に当てる時間も少なくなる。仕事が無いから生活費も切り詰める。これは悪循環。他地域の大工さんを融通するか、冬服などの物資支援は緊急だと実感した。 (2011.11.05. at 06:24:38)


生活条件が最悪になる前に、再スタートを切れるような支援体制が必要。これは仮設に入った方へも同様。もちろん、垂れ流し的な物資支援や、押し掛けイベントは論外。ニーズ吸い上げ、情報収集の地元ボラと、その活動を支援する人たちの連携は、むしろ必要性がより高まったと思った。 (2011.11.05. at 06:38:44)

   自宅被災者の状況管見(了)


宮城県図書館資料報告


知っている方には釈迦に説法な話です。宮城県の原子力行政について、総合的な情報を得たい方は、宮城県の報告書「宮城県の原子力行政」が便利です。毎年発行。原子力問題は物理学、地域産業、法律、環境問題など、必要な知識が多岐にわたりますが、最低限の知識はこれ一冊でわかります。 (2011.11.05. at 06:50:29)


「2010宮城県の原子力行政」には、県の安全確保対策、放射能の測定・監視体制、電源三法、各種協定書、女川の発電実績、各委員会名簿、年表、交付金実績、原子力・放射能の用語説明、などを収録。宮城県図書館みやぎ資料室に所蔵あり。自由に閲覧可。(番号・GK04,15―3) (2011.11.05. at 07:23:05)


この他にも宮城県が出している専門的な報告書(年報)が数点ある。宮城県図書館の番号とタイトルを紹介。「原子力防災訓練の記録」(GK04,15―7)、「女川原子力発電所環境放射能調査結果」(GK04,15ー4)、「女川原子力発電所温排水調査結果」(GK04,15ー2) (2011.11.05. at 07:31:56)


県の報告書の最新版は2010年の情報なので、もちろん震災以後の原発関連事象は含まれていない。しかし、これまでの県の方針、取組を知るには最適。印象論・感情論的な批判を無くすためにも、このような基本資料の参照は大事だと思う。 (2011.11.05. at 07:52:19)

   宮城県図書館資料報告(了)


震災後、何度も深夜の首都高を走ったが、思い返すたびに、このあたりに地震が直撃しなかったことは不幸中の幸いであったと思う。深夜の首都直下巨大地震は、もはや地獄以外のなにものでもなかったはず。(だからこそ、現在の復興に対する遅々たる歩みに苛立ちさえ覚えるわけで…) (2011.11.06. at 14:25:51)


宮城県沿岸部の人口動向瞥見


宮城県津波被災地の過去10年程度の人口動態を、旧市町村別に調べてみた。復興に向けて考慮しなければならない基礎データだと考えるので。平成8年~20年の人口の平均変化率を、8年を1として算出した。 (2011.11.07. at 09:59:39)


利府町[1.26]岩沼市・名取市[1.11]宮城野区[1.06]亘理町・多賀城市[1.05]矢本町[1.04]若林区・七ヶ浜町[1.00]河南町[0.96]石巻市・鳴瀬町[0.94]塩竈市[0.92]山元町・気仙沼市・松島町・歌津町[0.90] (2011.11.07. at 10:09:59)


本吉町・桃生町[0.89]志津川町[0.88]唐桑町・河北町[0.86]北上町・女川町[0.83]牡鹿町[0.76]雄勝町[0.75]→市町村区分は合併以前のもの。仙台市は津波被災区のみカウントした。 (2011.11.07. at 10:19:03)


人口増加率で突出しているのは利府町。大型店舗、住宅団地の新設ラッシュからもこの値は想像できる。若林区がほぼ横ばいなのは意外だった。新石巻市地域と女川町は、すべて減少傾向。原発立地自治体でも減少。グラフにすると横ばい地域を除いてすべて単調変化をしているのも顕著。 (2011.11.07. at 10:28:31)


津波で甚大な被害を受けた牡鹿半島は先に見たように、急激に人口が減少。震災でさらに少なくなった。震災前からの構造的問題をも解決するビジョンを早急に打ち出す必要がある。被災地を元に戻すだけでは人口減少傾向を変えられないということ。(釈迦に説法の方はごめんなさい。) (2011.11.07. at 10:41:22)

   宮城県沿岸部の人口動向瞥見(了)


自分はしばしば被災地の現状や復興の見通しについて悲観的な言葉を並べるけれども、だからといってすべてに絶望しているわけではなく、絶望のように見える状態から生まれてくる希望もあることを願って、言葉を発しています。そんな気持ちがうまく伝えられると良いなあ、と思いつつ。 (2011.11.07. at 16:35:26)


宮城県の商圏瞥見


人口動態に続き、被災地のこれまでの消費者の購買行動がどうなっていたのかが気になり宮城県の統計を調べた。以下、情報源は「宮城県の商圏 消費購買動向調査報告書」(H21年、宮城県)これは3年ごとに調査。住民が日用品・大きな買い物・サービスをどこで買うかを調査する。 (2011.11.07. at 21:28:33)


宮城県の商圏の最大のものは「仙台青葉商圏」。県南部から県北の一部まで、住民がここ[青葉区]を目指して買い物に来る。その商圏人口は約162万人で県の総人口の69.4%を占める。この商圏は超広域で、山形県の一部まで包摂している。(但し細かく見ると仙台駅前の集客力は減少傾向) (2011.11.07. at 21:35:43)


津波被災地の商圏では、仙台青葉商圏の下層に位置する「名取商圏」が66万人規模。イオンモール名取エアリ、他の開業が商圏形成に寄与。(商圏=地元購買率が30%以上で、かつ吸引率が15%以上の市区町村を有する地域/吸引率=吸引人口÷商圏人口/吸引人口=商圏人口×購買先支持率) (2011.11.07. at 21:52:22)


仙台青葉商圏と全く独立しているのが、「石巻商圏」(36万人、平均吸引率60%)と「気仙沼商圏」(8万人、平均吸引率84%)の二つ。気仙沼は仙台との位置関係からも独立していることは納得がいくが、石巻商圏もまた、仙台近辺ではなく石巻だけで完結する購買行動が主となっていた。 (2011.11.07. at 22:03:15)


購買行動から定義される商圏であるが、流通面から考えれば、やはり商圏単位での物流の制約があったのではないか、と素人考えながらに予想を立ててみる。仙台とは独立した商圏二つの中枢部が今回の津波で壊滅したことは、被災地支援の現場に流通面からも大きな影響を与えたのではないかと。 (2011.11.07. at 22:09:12)


補足。「商圏」は固定地域ではなく、交通網の変化や大型店舗の出店などで調査の度ごとに流動的に変化する。だがこの十年近く、石巻商圏と気仙沼商圏は、継続的に仙台とは独立してあった。今回の震災でこのバランスが崩れるのか、あるいは独立性が強化されるのかは復興計画次第なのだろう。 (2011.11.07. at 22:21:28)

   宮城県の商圏瞥見(了)


更地になった被災地で見つけた、お椀と子供の長靴。拾って供養すべきか、そのまま自宅跡地に置いたままにしてあげるかしばし悩み、そのままにした。合掌。野蒜にて。 http://t.co/tINVRG7P (2011.11.08. at 01:55:10)


福島廃炉まで30年必要と言われれば、当然、その間の現場指揮者・エンジニアをどこかで教育して継続投入しなければならない。原子力工学志望学生の意気を喪失させるような偏見や圧力は極力排除する方策が今から必要になる。 (2011.11.08. at 05:55:24)


ドカンと 大きなものが 目の前に あらわれて 飲み込んで 飲み込まれ 振り向けば 黒い大地だけが 広がって 凍みついて いく 今は そんな気持ち (2011.11.10. at 17:57:54)


たった一人の証言と憶測だけで、被災地の人間関係に生じたやりとりの因果関係を決めつけてしまう怖さを実感してしまうインタビュー記事を見た。少なくとも記事内に役職を明記された場合、利害関係両サイドの見解を載せないとフェアじゃないよね。これは取材側の姿勢の問題。 (2011.11.11. at 08:45:14)


こんな残念なことを震災8ヶ月目に言いたくはなかったのだが… (2011.11.11. at 08:46:28)


それでは、謹んで黙祷を (2011.11.11. at 14:45:14)


どうでもいいことがあふれている日常にあらためて気が付く節目の日 (2011.11.11. at 15:09:02)


どうでもいいことを積極的に、哀しいことを忘れるために使えるならば、それは珠玉の経験となる。 (2011.11.11. at 15:10:11)


野菜販売手伝い


今、深大寺境内で福島県産野菜の直売手伝いしています。電通大界隈のみなさん、ぜひ。 (2011.11.12. at 11:03:33)


本日分の野菜販売@深大寺、無事終了できました。売れ行き好評でした。情報拡散にご協力をいただいた皆様、どうもありがとうございました。明日も同所にて、福島県産野菜販売いたします。プチトマト、ハウス栽培キノコ詰め合わせ、カキ、小松菜、大根、お薦めです。 (2011.11.12. at 23:34:28)


振り返るまでもなく、今年は激動・予測不能な年であった。震災以後の活動が積もり積もって、なぜか今日は、勤務先の近くで福島県産の野菜売り子をしていた。…普通に考えても、ありえない人生の展開だよなあ。なんで自分は今ここで、福島の野菜を売っているんだ?!という、思い。 (2011.11.12. at 23:53:05)


親戚に農家がいるとはいえ、作物に関するこちらの知識は20年以上も前の物。しかも、流通の末端を垣間見たのは今日の販売手伝いが初めてだったので非常に勉強になった。消費者と生産者を繋ぐ現場の話。やはり、実際を見ないことには軽々しいことは言えないなあ。 (2011.11.13. at 02:14:58)


プチトマトやキノコ詰め合わせの原価と青菜類の原価の大体の違いが分かっただけでも、素人には重要な、面白い情報。農協を通すとまた違ってくるわけだ、と納得もしながら。 (2011.11.13. at 02:25:42)

   野菜販売手伝い(了)


たしかに、東北地方は地球儀の上では微々たる広さしか占めていない。でも、一人の人間が走り回り、情報を集めようとするには広すぎる。どちらのイメージで東北を語ろうとするのかによって、支援の姿・意識も変わってくるんだろうな。 (2011.11.13. at 02:44:37)


自分探しするくらいの暇があるんなら、存在論こそ探究しなよ。 (2011.11.13. at 02:49:49)


哲学・思想方面ではさんざん言われたことだけど。人は己が死ぬことを知っているが、誰も死を自分の経験として語れない。今生きてる人は、死んだことはないから。自我やら意識やら、これが途切れて、後のことを全く無とも空とも言えない気持ちだけを感じる今。今年はそんなことを度々考えさせられた。 (2011.11.13. at 03:14:41)


復興と景観


帰宅。東京近郊の深夜電飾は震災前の元に戻った感じ。全国どこを走っても、主要国道沿いはほとんど同じ景観。どうにも殺風景で。 (2011.11.14. at 01:20:20)


被災地の復興プランは色々あるんだろうけど、製造業雇用重視型、第一次産業+観光重視型あたりが素人でもすぐに思い付くものかな。ただ、これまで観光資源の無かった地域中核都市に、急には観光産業は根付かないだろうなあ。松島と平泉の集客力のおまけでくっつくのが関の山か。 (2011.11.14. at 12:07:51)


結局、青森を除く東北地方の観光って、「奥の細道」ブランド以外に何か大きなものはあるだろうか?と自問してみる。(芭蕉は青森まで行ってないんだなあ、残念ながら。) (2011.11.14. at 12:10:47)


景色と食い物、レジャーだけで観光が成り立つかどうかの議論は業界の人たちに任せても、観光したい人たちのニーズが何なのかは、復興支援を考えるうえでは重要な情報なんだろうと思う。今さかんになっている復興市なんかが情報収集のいい機会になると思う。リピーターを増やすためにも。 (2011.11.14. at 12:20:52)


今ツイートして再認識したけど、「歴史キャラの聖地巡り」元祖としての松尾芭蕉という位置付けも可能か… (2011.11.14. at 12:44:03)

   復興と景観(了)


地震直後の研究室です。8ヶ月経っても、何も変わっていません。復興はこれからです。(ウソです!すみません。) http://t.co/9OpzwNOq (2011.11.14. at 14:13:42)


被災地の悲惨さを言葉で示して何が得られるのか、という反省無しに語る者こそ悲惨を増幅させている。物と心をともに満たすことの困難さを、どれだけ自覚しているのか。問わずして赴くくらいならば、日々の生活を全うしてくれることの方がよほどよい。 (2011.11.14. at 21:23:44)


管子に「衣食足りて礼節を知る」という言葉があるが、その前段階として「足るを知る」という意識が必要なことを、ともすれば忘れがちである。「満足」を自覚することもあり、他人から教えてもらうこともある。そしてその提案を受け入れるだけの信頼関係が必要。被災地の現実を変えていくためにも。 (2011.11.14. at 21:50:57)


なぜ被災地を単純化して理解したがるのか?あるいは、単純に語る言葉を信じたいのか?被災地の問題は複雑化し、多様化している。そのことを無視してまで、安直な言葉は重要か?もしその単純な理解が正しいのなら、8ヶ月も過ぎた現在、多くの問題は片付いているはずではないのか? (2011.11.15. at 02:46:12)


仮設は個人生活の集合体で、自治会確立途上の区域がほとんど。中にはカウンセリングが必要な人、役所に出向くときの補助が要る人も。そういう支援も入るべきで、イベント空間=仮設住宅という意識は違う。イベントはできるだけ公共空間で。住民総意のイベントは別です。 (2011.11.15. at 09:44:13)


その昔、阪神大震災のニュースもオウム事件に掻き消され、このオウムのニュースも、年を越したらぱったりと途絶えてしまった。災害や事件への社会的関心は、かくも簡単に変移させられてゆく。 (2011.11.18. at 06:25:53)


ボランティア・マネジメント


フォロワーさんから紹介していただいた文科省報告書『諸外国におけるボランティア活動に関する調査研究報告書(平成19年3月)』。( http://t.co/nHOWoYIM )各国のボラの状況を比較して参考になった。特に被災地支援が長期化する中、重要と感じたのが「ボランティア・マネジメント」の発想。以下、文章を抜粋する。(専門家の方へは釈迦に説法。) (2011.11.20. at 17:26:51)


「アメリカ、イギリス、韓国などのNPO、ボランティア団体は、必要が生じた場合に、その都度ボランティアに仕事を依頼しているわけではなく、ボランティアにどのような仕事をしてもらうのが双方のためによいのかを考えて、ボランティア活動プログラムを組み立てている。」 (2011.11.20. at 17:30:08)


「活動してもらうボランティアは募集をして面接の上採用し、必要な研修や訓練を行ったうえで実際の活動をしてもらう。活動開始後は、ボランティアの活動状況を管理し、評価し、必要に応じて人員の補充と再配置等の調整を行う。」 (2011.11.20. at 17:31:24)


「さらに、ボランティアに感謝する集いを開催したり、感謝状を贈ったりするなどして非経済的な対価をボランティアに返していく配慮もなされている。」 (2011.11.20. at 17:33:06)


「こうした一連のプロセス全体をボランティア・マネジメントと呼び、アメリカやイギリスの多くのNPOには、ボランティア・マネジメントを専門に担当するスタッフ(ボランティア・コーディネーター、あるいは、ボランティア・マネジャー)が配置されている。」 (2011.11.20. at 17:34:13)


「また、アメリカでは、ボランティア・マネジメントのスキルを習得する講座が大学、NPO、ボランティアセンター等で実施されており、資格認定を行うプログラムもある。」以上、下記報告書の6頁より引用。http://t.co/0dlqIS8q (2011.11.20. at 17:35:51)


ここから考えさせられた事は、緊急状況後のボラ組織の運営体制の重要さ。適材適所は相応のマネジメントの結果という認識が必要。そしてボラのモティベーションを維持するための非経済的対価の付与も重要。だが、そのためのイベントは被災地の外でやることが重要なんだろうな。 (2011.11.20. at 17:40:20)

   ボランティア・マネジメント(了)


ボランティア・ミーティング


今日、日帰りで石巻まで往復した理由は、被災地の現場(主として宮城沿岸部)で活動するボラ団体の間で情報共有しようというミーティングがあったから。大西恒樹さんから案内が回って来たので、参加することにした。 (2011.11.23. at 01:55:11)

全体で20名ぐらい参加。ツイッターでフォローしている方とも、数名お会いした。まあ、色々な実践と考え方はあるだろうけど、復旧・復興の長期化に伴い、マンパワーの減衰は不可避。ならば、活動継続中の団体間での連携は必須と考え、参加した。 (2011.11.23. at 02:01:13)


自己紹介の後、初回ということで、色々と雑談も交えた意見交換。第三次補正予算が話題に。農林水産省関連予算を例に、補助金獲得可能な活動を探る。例えば、事業者が耕作放棄地を農地に戻すことに対して原案では10アールあたり約25万円の補助金が降りる。これを使わない手はない。 (2011.11.23. at 02:10:39)


ただ、現場には障壁がある。農水省提供の資料を見せてもらったが、ともかく分厚い。ファイルがパンパンに膨らむほど。市町村役場でそれを把握し、的確に申請者に情報を伝えられるかどうか、申請業務をスムーズに行えるのか、かなり不安になる。 (2011.11.23. at 02:16:51)


予算は農水省だけではない。現場業務は大変になりそう。申請のアドバイスや補助金事業の周知広報活動にもボラが必要とされる余地があるな、と思った。(まあ、各省庁が自治体に説明要員を派遣するのが先だろうとも思うが…) (2011.11.23. at 02:22:51)


次の話題は、被災地の住宅再建問題。政府発表ではこの震災で全壊・大規模半壊・半壊家屋の合計は約83万戸。一方、ここ数年の東北地方の新築着工数は4万戸。つまり、この着工数に見合うだけの大工さんしかいないので、現地の人手不足は明白。 (2011.11.23. at 02:32:34)


大工さんの人件費で見ると、震災前の日当り経費は1万4千円ぐらい。現在は、バブル期よりも高い2万5千円を出しても人手が集まらない。そこで東北以外から人手を回してもらう計画を進める団体もあった。(一部情報は企業秘密のため、概要のみ。) (2011.11.23. at 02:39:26)


その他、子供の遊び場や教育支援、コミュニティー確立などが話題なったが、詳細は略。この数週間思ってきたことだが、現場は復旧と復興のフェーズが無秩序に並行していることを再確認した。 (2011.11.23. at 02:50:12)

   ボランティア・ミーティング (了)

夜中に三陸道を南下して利府塩釜ICにさしかかると、視界が広がり、仙台の夜景を正面に見る。夜景が光の海となり、被災地の真ん中にバッと現れる。そんな印象。 (2011.11.24. at 00:16:44)


三陸道からさらに仙台東部道路に入ると、右手には光輝く市街地、左手には街灯だけが点々と灯る闇の世界が広がる。あまりにも対照的な日常と非日常の世界。その境界上に車を走らせる違和感は今なお残る。 (2011.11.24. at 00:24:47)


自分は仙台の隣町に生まれ育ったので、生活圏は松島ぐらいまでで収まっていた。石巻や三陸方面に行くことはほとんど無かった。ところが今年は何回、この方面に行っただろう?まさか石巻市街をカーナビ無しでも走れるくらいここに来ることになるなんて… (2011.11.24. at 00:30:57)


仙台北部道路の4kmポスト付近は、私の母方の先祖が(どうやら)元禄以来住み続けていた場所だったが、この道路建設に伴い、実家は立ち退かされた。ここを通る度に昔遊んだ記憶が蘇り、全国の道路建設の裏側には多かれ少なかれ、同じような事情の人がいるんだろうなあ、と考えられるようになった。 (2011.11.24. at 01:07:45)


その母の実家があった場所の目の前は、今は宮城県の公園施設。三十数年前はこの山の近くでもよく遊びました。まさか、この場所が今年の三月にはご遺体の安置所となり、桑田がやって来てライブするような事態になるとは、… 全くもって何とも言えない不思議な感じがします。 (2011.11.24. at 01:19:30)


江戸時代の断片的な記録を追いかけてみると、約300年前の富士山宝永噴火の前後もやはり、群発地震が長く続いたようですね。気を付けるに越したことはないです。 (2011.11.24. at 19:51:02)


陽明学と震災ボランティア


先日、與那覇潤先生(@jyonaha)にご恵贈いただいた御著書『中国化する日本』(文藝春秋)。新しい切り口から中世以降の日本史を語る労作です。読みやすい文章で、なおかつ専門書への入門ともなっている好著です。その一節に、ふと目がとまったので紹介します。 (2011.11.24. at 21:50:26)


最近、震災被災地で活動するボラの意識が取りざたされ、違和感を覚えることがありましたが、その深層には何があるのだろうかと考えていたときに、幕末の日本人を突き動かした陽明学の「動機オーライ主義」(155頁)という言葉が目に入りました。與那覇先生の本から引用します。 (2011.11.24. at 21:55:52)


「動機オーライとはもちろん「結果オーライ」の対義語で、「おわりよければすべてよし」ではなく「はじめよければあとはどうなってもよし」、純粋にピュアな気持ちで考えて「今の世の中は間違っている!こっちが正しい!」と心の芯から感じ入ったのであれば、…」 (2011.11.24. at 22:00:23)


「…、あとは既存の法令や社会の通念はおろか、自分の行為がもたらす帰結についても一切考慮することなく突っ走ってよい、結果は必ずついてくるはずだ、いやついてこなくてもそれはこの俺様の魂の叫びに反応しない周囲の不純な連中が悪いのであって、…」 (2011.11.24. at 22:04:49)


「…俺のせいではないのだからかまやしない、というような発想のことです。」(155頁)このような思想を與那覇先生は「気分としての陽明学」と呼んでいますが、「陽明学って何?」と分からずとも、この引用文の心理が一部のボランティアの発想によく似ているのは気付くでしょう。 (2011.11.24. at 22:14:08)


日本的なボラの発想。なぜ被災地の意向や人間関係を気にせずに物資を送ったり、押しかけイベントをするのか。不思議だったが、この「気分としての陽明学」が根底にあるとすればうまく説明できるかも。次の問題は、なぜ日本人の精神にこの考えが染みついてしまったのかだろう。難問。 (2011.11.24. at 22:23:49)


「気分としての陽明学」に仏教的な俗っぽい「お布施」の意識が結合すると、日本型ボラ意識が導き出されるのかな。。 要検討ですね。 (2011.11.24. at 22:34:47)

   陽明学と震災ボランティア(了)


今、気になっているのは、歴史的に見て、人口が減少局面に入った社会・国でありながら、経済成長を維持できたケースがあったのかどうかということ。人口減少分を移民でカバーするケースは幾らでもあったが。 (2011.11.25. at 08:41:35)


十年程前の話。関東大震災で焼失した東大の図書館の事を調べた関係で、震災を題材にした写真絵葉書を集中的に見た。現在と違い、あちこちに大量の焼死体が写り込み、とても正視できない。強烈だったのは、同じ避難所の火災前と火災後のカットを並べた一枚。今でも思い出す。(続) (2011.11.25. at 10:38:47)


(続)このように凄惨な情報を共有した関東大震災当時の人たちの地震イメージと、今回の震災のイメージは決定的に違っていると思うし、今回も現場で凄惨な体験をした方とメディアのみで情報を得た人の間の感覚の差は大きいはず。その差があることの理解は必要だと思う。 (2011.11.25. at 10:46:13)


おはようございます。今日も色々。福島への差し入れ発送手配。資料整理して、何人かの方にお会いして、やっと暇になるかな… (2011.11.26. at 08:28:17)


野菜や味噌を普通に売って、普通に食べてもらう。そこにどうして「支援」という言葉が入っちまったんだよ… (2011.11.27. at 18:16:00)


今日、野菜販売のお手伝いをした深大寺は東京の西、いわゆる多摩地区にあるが、そこで買い物がてら雑談されるお客様の内、お年をめされた方に、かなりの数の東北出身の方がいらして、ちょっと驚いた。なぜだろうと世代的な理由を考えてみたら、多分「金の卵」世代の皆さんかな、と思い当たった。 (2011.11.27. at 19:11:46)


石巻のあのでかい缶詰、動かしたんですね。関係した皆様、おつかれさまでした。港方面から回る時、いつも度肝を抜かされます… (2011.11.27. at 20:22:04)


(メモ)今の日本で、参入障壁などが撤廃され、ある程度の所得の見込みがついた場合、どれくらいの若年労働力人口が農林水産業就労を希望するのだろう?データを集めにくい統計ではあるだろうが… (2011.11.28. at 07:17:21)


(メモ)マクロな視点で見れば、全産業が等しい重要度を持つことは理解できる。(個人の側からすれば職業選択の自由がある。)一方で、生物として必要最低限生きていくための食料確保が「産業」の枠組みだけで議論可能かどうかも疑問… ああ、だから保護しましょう、ということになるのか。 (2011.11.28. at 07:25:56)


(メモ)既得権益を守ることだけがある集団にとっての保護ではない。若年層の就労を支援し、技能伝承を定着させることも保護の一形態なんだろうなあ。実業系の学校以外の進路選択も、幅を持たせないとダメなのかも。 (2011.11.28. at 07:40:57)


金がなきゃ出来ない支援ねえ… 発想が貧困だな (2011.11.29. at 02:59:04)


自分の陣営に利益誘導できる情報ならば、捏造・改竄をしてでも世論に垂れ流す連中が現れてきたのは怒りとともに危惧を感じる。(これまでもいたのかもしれないが…)あらためてメディア・リテラシーとモラルの課題を考えさせられた。 (2011.11.29. at 07:35:59)


今後の被災地支援は、金のかかる復興事業でなければ、成果が目に見えない種類の支援に移る。つまり、災害時ボラではなく平時のボラ。それだけに、これまでのボラに対する個人の意識や考え方、生き方そのものが露骨に出ることになる。(平時ボラへの移行を理解できない団体さんは論外…) (2011.11.29. at 07:59:20)


と言って、お前はどうなんだ?という突っ込みには、ちゃんと答えを出す用意をしておかないと。>平時ボラ (2011.11.29. at 08:02:06)


なんでもかんでも「リテラシー」を付ければよいというわけではないが、状況と人間関係を判断して支援活動を実践できる「ボランティア・リテラシー」は支援者に必要かも。福祉系の専門では既に研究されているのかもしれないけど。 (2011.11.29. at 08:13:47)


自己満足ボラでもいいけどさ~ 他人に覚られないようにしてくれよ (^-^; (2011.11.29. at 09:47:53)


いやあ、涙が金に変わるなら、俺は幾らでも被災地で泣いてくるぜ (2011.11.29. at 19:25:57)


ボランティア・ホームレスを作ってしまうような支援環境はまずいよなあ。 (2011.12.01. at 11:33:00)


東北には今、余剰な支援物資と行き場の無い瓦礫が集積している。何時になったら身軽になれるのだろう? (2011.12.01. at 20:34:43)


「今年は正月に帰ってくるな」と、宮城の実家から通告された。大変だからなあ。ま、普段からちょくちょく行ってるからいいんだけど。 (2011.12.02. at 12:17:16)


世間のムードは、年末年始で一区切り置いて、震災1周年で何かけじめが着いたような思いになるに違いない。本当は逆で、1周年を迎えてやっとこれから復興に立ち向かえる、という人たちが多いのが現実。ボラ組織も1周年を機に撤退する所が増えるだろうと予測されている。現地組はここからか。 (2011.12.02. at 17:23:00)


仙台光のページェント。今日からですね。毎年の行事を何事もなかったかのように同じようにやれること、ありがたいです。ちなみに、20数年前、このイベントの計画が立上ったとき、地元の寄付がほとんど集まらなかったことは、もう時効だから言ってもいいでしょう(関係者の談)w そんなもんですね。 (2011.12.02. at 17:50:18)


石巻・牡鹿界隈を巡る


昨日牡鹿半島で知り合ったボラ仲間の話によると、給分浜で炊き出しをしているところに渡辺謙さんが通りかかって話をしていってくれたそう。すげーな謙さん。さすが。石巻の渡波より向こう(牡鹿半島方面)に来てくれる芸能人はなかなかいないという話だったが、いやあ、渡辺謙さんは特別でしょう。 (2011.12.07. at 15:23:05)


昨日は給分浜からさらに足を延ばして、鮎川の仮設保育所の様子も拝見してきました。(園児たちはお昼寝中だったので、建物だけ外から見てきました。) (2011.12.07. at 15:24:25)


昨日はボラ仲間にくっついて、牡鹿・石巻の在宅被災者のお宅を四件訪問した。色々お話を伺い、皆さんそれぞれの境遇の違い、引き受けられている苦悩を的確な言葉で表現することが困難である事実に直面した。そして、そこより先には慰めもいたわりも決して届かない心の領域があることにも否が応でも気付かされた。 (2011.12.07. at 18:31:40)


昨日は石巻のA地区で、在宅被災者の皆さんが集まって話される会話も脇で聞いていた。今になってようやく、安否・生死情報のようなデリケートな問題を語ったのだ、という場面がしばしばあり、そういうものなんだなあ、と思わされた。同じ町内でも個人の安否情報を正確に把握できないのが普通だった。 (2011.12.07. at 19:13:04)


やっぱり「自宅避難」という言い方は変だなあ。「在宅被災」という言い方が、よりしっくりくると思う。もちろん、言葉の言い換えだけで被災された方の苦しみが少なくなるはずはないのだが、それでも、現実をしっかりと表現できる言葉から生まれる前向きの意識というものもあるに違いないと信じている。 (2011.12.07. at 20:11:06)


昨日お邪魔した牡鹿給分浜の県道2号沿いのCoCoストア。駐車場地面に水色ペンキで大きく"HELP"の文字。高台にあるこの駐車場の震災時の状況が一目で分かるものかな(ただの落書?)この文字、もし地元の皆さんの了解が得られるなら、震災・津波の記憶を残すモノとして保存できないだろうか。 (2011.12.07. at 21:04:05)


本当の家族の間ですら、被災以後の心境をお互い正確に理解してきたかどうかと振り返ると、とても心許ない。一度や二度、ボラで来たからといって、その目の前にいる人たちの何を分かったと言えるのか。だから、何も考えないことにしている。特に昨日の石巻・牡鹿訪問ではそう思った。 (2011.12.07. at 22:01:31)


ゆとり教育全盛の頃、「生きる力」がキーワードだったが、昨日会った被災地の中学生は、あの過酷な環境を生き延びたことを考えれば、誤解を恐れずに言うと、「生きる力」は確かである。問題は、震災ストレスを心の中にためていないかどうかだろう。ともかく、青少年向け専門のメンタルケアは急務と思う。 (2011.12.07. at 22:30:18)


今週、石巻で在宅被災者の何人かの方とお話したが、どうしても踏み込んではいけない気持ちの領域があることは、痛いくらいに感じられた。私はただただお話を伺うだけであった。津波のフラッシュバック、救えたかもしれない命への悔恨、将来の生活への身を切られるような不安。。。如何ともし難い。 (2011.12.08. at 20:29:05)


ともかく、ここには到底書けない津波以後数日の出来事までうかがい、物質的な支援、精神面の支援、地域全体に関わる支援、それらのバランスを考えさせられた。支援側の役割と各々の支援の限界の自覚は絶対に必要。支援を受けた方々はとりあえずその場では笑顔を見せてくれる。その先を想像せねば。 (2011.12.08. at 20:40:11)


それでは自分に何ができるのかと言えば、この地域とここに住んでいる・住んでいた人々の歴史を記録することなんだろうなあ、と自分なりの原点に戻ったわけだが、伝えねばならないことの手がかりさえ見つけられないほどの膨大な情報と深刻な現実。整理できない内に時間だけが過ぎていく。 (2011.12.08. at 20:58:49)

   石巻・牡鹿界隈を巡る(了)



いつからおせち料理が全国標準の正月料理になっていたのかそれすら疑問なのだが、せめて同じようなことをやるのなら、「ナメタガレイ、焼きハゼの買い付け支援します」ぐらいのデリカシーがあっていいと思うのよね。(例として宮城県沿岸部の場合を想定すると。)現地の文化慣習調査は必須でしょう。 (2011.12.08. at 13:20:43)
※お正月、仮設住宅におせち料理を支援しようという報を聞いて。


ずっと以前に食文化の歴史の本で読んだことだから記憶が曖昧なのだけれど、おせち料理は江戸の町人文化が起源。年末年始は使用人が里帰りするので、台所に誰もいなくなり、家主家族が料理しなくて良いように作り置きとして作ったのがおせち料理の実態だったはず。だからおせち料理は都会のもの。 (2011.12.08. at 14:01:26)


祝い事というのは気持ちの問題で、どのような形で示されるかは千差万別。かたや、「餅つき」というとおめでたいイメージが強いかもしれませんが、うちの田舎ではお葬式が終ったら餅をつきます。哀しいことを忘れるためにみんなで餅をついて新たに出直そうという意味合いです。そんな発想も大事かも。 (2011.12.08. at 14:22:08)

凡例

・以下の記録は、2011年9月2日から、2011年10月28日までのTwitterでの呟きを主題別にまとめたものの一つ、「震災と支援をめぐる雑感」である。
・収録した呟きは、著者本人の独白形式のみを採り、RTとそれへのコメント、@付きでやりとりをした会話は除外した。
・各呟きは、ほぼ時系列に沿って提示している。("2011.07.17. at 15:23:10" で呟いた日付と時間を指示する。)
・その時々の印象を呟いたものがほとんどであるので、後に諸状況の変化が生じて事実とずれてしまった記載も認められるが、その時点での記録として収録している。
・収録にあたっては、誤字脱字を訂正し、必要最低限の補足修正に留めている。
・「※」を付して、呟きの背景を注記した箇所もある。
・一連の内容がまとまっている場合は、適宜、小見出しを付けた。


本文


地震直後からの各フェーズの課題


(1)震災直後は、要請があろうが無かろうが住民人口の1.5倍ぐらいの支援物資を現地に急送することが一番大事だと痛感した。そのためのボラ活動も大事だったのはもちろん。人命確保の支援段階。(かえすがえすも原発事故さえ起きなければ、と悔やまれる…) (2011.09.02. at 08:50:35)


(2)避難所、ボラセンが立ち上がり、そこを拠点とした支援の第2段階。ただ、このあたりから、自宅避難された方の状況把握の困難さと、支援情報へのアクセスの格差拡大が問題に。被災地のとてつもない広さと点在する孤立集落がボラ活動の横断連携を阻んでいたように思われる。 (2011.09.02. at 08:58:09)


(3)仮設住宅ができ始めた第三段階。いまだライフラインの途絶した地域、避難所生活地域、仮設入居地域が混在。それぞれの支援の形態は異なり、多様な活動が求められる時期でありながら、社会全般的に震災への関心が風化しはじめる。 (2011.09.02. at 09:05:23)


(4)震災から半年。瓦礫撤去のような労働支援、給食支援といった直接見える活動の他に、仮設地域の運営支援、住民の生活相談など、ソフト面での支援も重要。生活保護の必要な世帯には行政への仲介を後押しするのも大事。個別の状況を見極めた支援が必要。現地ボラさんへの資金支援はさらに必要。 (2011.09.02. at 09:17:21)


(5)何と言っても、今回の災害復旧活動の従来のシナリオを完全に狂わせたのは原発事故である。東京にいると、福島発の情報は原発関連に偏り、宮城発の情報は逆に原発絡みは少なくなる。東北大の堀田さん、仙台の津田さんらが発信される放射線データの情報がツイッター上ではありがたい。 (2011.09.02. at 09:25:44)


(6)私の印象では、[津波]被災地はまだ復旧段階。復興はビジョン提示段階で、その後に住民との対話・合意形成が必要。被災地の多くは震災前には過疎、不況に喘いでいたこと。震災前の水準に戻すだけでよいのか、それ以上の何かを復興策に求めるのか。 (2011.09.02. at 09:45:01)


(7)今、心配しているのは被災地を食い物にするような便乗商法や詐欺。支援どころか、いわれの無い差別を助長する哀れな人々。記憶が風化する裏ではいつもこういう悲劇が拡大していくもの。被災地のボラの皆さん、可能な限り連携してください… (2011.09.02. at 10:10:52)


(8)支援内容の見極め、役割分担については、できる限り地域行政が円滑に進むことを目標にしなければ、不毛な対立しか生み出さない。前に述べた生活保護受給などはその一例。本来、生活困窮の支援は行政に委ねるべき。そのための税であるから。 (2011.09.02. at 10:19:25)

   地震直後からの各フェーズの課題(了)


今日は、突然、当研究室出身のOBたちが訪ねてきて、さっきまで飲んでいた。こんなこともあるのは、たまには良いかも。震災後のホッと一息。
(2011.09.02. at 21:00:38)


【震災後・半年】一部には釈迦に説法だが、被災地向け備蓄用物資の更新と追加にも支援を振向けるべきだろう(自治体経由で)。今回の台風被害でも分かるが、国内どこでも備蓄が必要。復旧途上でも備蓄は必要。支援実践と防災意識増進で一石二鳥。 (2011.09.04. at 07:31:00)


地震津波・台風豪雨と連続する自然災害に、今更ながら、この東アジアの一地域の歴史と環境を見つめ直す。虚無に襲われるか、未来を信じて前に進むか。いずれにしても、即効薬はない。 (2011.09.05. at 06:12:50)


EM菌に関する河北新報の古い記事がまだ出回ってるのか… (2011.09.06. at 13:47:47)


台風12号による死者・行方不明者の計105人(読売・7日朝刊)。平成になってから最悪の被害。被災された皆様の一刻も早い安全確保を願います。 (2011.09.07. at 06:40:38)


震災直後にもつぶやいたけど再度。3月の震災で多くの老人ホームや介護施設が津波、土砂崩れの被害にあったが、多くの類似公共施設は地価の安い所、つまり災害時には危ない場所も含んだ立地条件に建設されやすい。真っ先に災害弱者となる人たちの収容施設がこれではまずいだろう。 (2011.09.07. at 12:45:26)


これまでも生きていくことは大変だったはずなのに、「個々人に訪れる不運」のレベルで、何となく思考を止めていたのが大抵のケースなんだろうな。程度の多少はあれ、百万人単位の人たちが同時に不幸に放り込まれている現在。どんな言葉が救いをもたらしてくれるのか? (2011.09.08. at 06:27:52)


震災半年経過の新聞記事


震災半年を迎え、全国紙はそれぞれ特集記事を組むだろう。今朝、私が見たのは読売。ぶち抜き3頁。女川町の復興計画紹介に1頁。それは良いとして、沿岸市町村ばかり取り上げ紹介する方針に私は疑問。内陸部は建物被害、風評被害も甚大。同等に統計等を入れてほしかった。 (2011.09.08. at 07:51:09)


読売特集記事は復興対策に向けた課題を幾つか挙げているが、何を紹介するにしても、震災前のデータを提示した比較が必要だろう。震災前の各自治体の人口、税収・予算規模、被災地の国内GDP比率、等々。そのようなデータがあれば、復興に必要な経費の現実感も増すはずと思う。 (2011.09.08. at 07:58:27)


読売震災特集の感想。結局「復興」と言っても、それを担保する資金とビジョン、イニシアティブがまだ無いわけで、どうしようもない。(自治体負担が重すぎる…)どの記事も最後には「だから、どうすればいいんだ?」という後味の悪い絶望感を残すばかり。 (2011.09.08. at 08:07:23)

   震災半年経過の新聞記事(了)


反原発派と科学者 雑感


放射能の人体への影響は長期的。何か起きても、過去の公害裁判のように因果関係を立証するのは至難。そもそも誰に頼って立証して補償を勝ち取る?この問題を理解し、協調してくれる専門家だね。そんな専門家を探さない、育てない運動は、最初から負けてるよ。相手は一番手強い国だからね。 (2011.09.08. at 08:30:34)


放射能関連で将来の訴訟を闘いたいなら、信頼できる専門家との協調戦略は必須でしょう。ではどんな人が信頼できるか?煽らない・人の話をちゃんと聞く・証拠を挙げる・疑問は確かめる、科学コミュニケーションのうまい人。少なくともマスコミ著名人で、素人に矛盾を突っ込まれるレベルはダメね。 (2011.09.08. at 11:04:20)


くどいけど独り言。今の訴訟システムで勝訴するには、そのシステムが妥当とする合理性を備えた議論ができなきゃダメ。トンデモ科学や陰謀論は無理。訴訟に勝ちたければ現在の合理性を前提とした科学者と協調するしかない。もしいなければ適切な人材を育てる努力をすることです。 (2011.09.08. at 11:44:16)

   反原発派と科学者 雑感(了)


新宮市えらいなあ。外国の住民の方がいらっしゃるのかもしれませんが、英語でツイッターを発信。 (2011.09.08. at 15:46:15)


知者の愚と、愚者の知。いずれを採るべきか。   (2011.09.09. at 00:26:52)


はーーっ? 辞めたんか? (2011.09.10. at 20:25:21)
※復興大臣が失言がもとで、着任後数日で辞任したことを受けて。


東北独立… それしかあるまい (2011.09.10. at 20:26:27)


いつぞやの国々の歴史を振り返るまでもなく、ニヒリズムと破滅主義が蔓延するのを危惧している… (2011.09.10. at 20:40:05)


震災から半年。カレンダーの上では分かっていても、虚ろに積み重なった時間ばかりが過ぎていたのではないかと自問。自然が人間のためを考えてくれるわけがないのは当然だが、だからこそ、人間が人間のことを思いやらねば何とする?朝の秋空を仰ぎながら。 (2011.09.11. at 06:17:21)


今日の午後は会合があり、一人の時間を取れないので、今、半年経過後の追悼の意を。どうか安らかに。 (2011.09.11. at 06:26:20)


最早、夏ではないが、この夏ほど芭蕉の一句「夏草や 兵どもが 夢の跡」を強烈に思い起こさせられた時はなかった。茫々と広がる津波跡の緑。人間の営みを覆い尽くしてしまった水と草。車を停めて一人佇んで聞いた、風の音。 (2011.09.11. at 06:43:58)


一月毎の節目には反省やら展望を記すことにしているのだが、今月は社会的な規模の無力感・虚脱状態に襲われ、何とも… ろくな検証もせず、大臣の言葉尻をとらえて弾劾するような大新聞が、どれだけページ数を割いて震災復興特集を組んでも、空々しいだけだ。読む気が失せてしまった。 (2011.09.11. at 07:39:52)


単純な時代の比較はできないが、幕末の幕府中枢機能はボロボロだった。今の内閣に相当する老中たちは、平時で何事もなければ任期無し。しかし幕末はみんな数ヵ月単位でコロコロ辞めていった。江戸城開城を仕切った勝海舟なんて、本来なら口すら出せない身分の人。今の日本に当てはめてみたくなる。 (2011.09.11. at 07:52:05)


そうか。首相が所信表明演説するまえに、大臣が一人辞めたことになるのか… (2011.09.13. at 07:35:41)


(漠然とした印象) この数日、紀伊半島の災害関連情報を集中的にRTしている。海津波・山津波の差はあるが、震災・台風の両被災地が抱える災後直後の課題はほぼパラレルであることに気付く。(1)交通の寸断、(2)老人世帯比率の高さ、(3)被災地域内の情報格差、(4)一般ボラのアクセス難。 (2011.09.13. at 15:54:06)


今朝のTLを見てつらつら思ったこと。宮城県と岩手県の間で、最低賃金の格差(岩手<宮城)があることと被災地の建築許可条件が違う(岩手が緩い)ことから、両県境付近では労働人口の不均衡が生じるのではないかと予想。 (2011.09.14. at 13:23:48)


一関市長・勝部修氏講演


昨日午後、一関市大東町で学生復興支援会主催のシンポに参加。陸前高田の関係者、後方支援の一関市関係者がバネラー。隣町同士の関係で、支援をする側・受ける側が本音を出しあえたよいシンポだったと思う。 (2011.09.18. at 08:10:24)


基調講演は一関市長・勝部修氏。被災地でありながら沿岸2市(気仙沼・陸前高田)への後方支援の陣頭指揮をとった首長。講演は震災以来つけられた手帳を見ながら。以下、印象に残った内容をメモ風に記します。 (2011.09.18. at 08:18:33)


市長;発災日は15時に対策本部設置。TVで沿岸の津波を知り、気・高両市に職員派遣。11日は市内対応。被害はさほど無いと判断し、後方支援体制も並行。(だが一関市の被害は4月7日の余震の方が甚大であった…) (2011.09.18. at 08:27:39)


市長;震災直後に不足したものは4つ。水・電気・燃料・情報。(勝部市長のすごいところは、自らツイッターをフル活用して発信、情報収集したこと。相当威力を発揮したことがうかがえた。) (2011.09.18. at 08:34:09)


一関への燃料・電気供給は岩手県内で一番不利な位置にあった。ガソリン供給は日本海側経由で青森から南下(一関が最南端)。宮城県北民も北上して給油に殺到(すみませんでした…)して逼迫。電力も雫石変電所から順次南へ復旧。超耐乏公務を強いられる。 (2011.09.18. at 08:40:53)


市長のツイッターには様々な救援要請が殺到。それらを適宜さばかれた手腕には感服した。救援にはロジスティクス的思考に根差した指示を臨機応変に出されていたと感じた。もちろん失敗や間違いもあっただろうが、ツイッター経由の機動的支援の強さは確かだと痛感。(佐藤の感想) (2011.09.18. at 08:49:04)


市長;被災2市へ公用車提供、常駐職員派遣。派遣にあたってはミスマッチの無いように綿密に打ち合わせ。どのような役職、年齢構成の職員が必要かを確認。「市の行政事務は、県や国ではなく市の職員が一番よく知っているから」という発想で支援。 (2011.09.18. at 08:55:55)


後方支援もこれからだという時に、4月7日の余震。一関はこれで甚大な宅地・農地被害を被る。花泉地区周辺では地盤の陥没が多数。原因は二つ。戦後すぐ、この周辺で亜炭を掘って地盤が軟弱。もう一つは貝塚が多く、昔からここでは掘った貝殻を砕いて肥料にしていた!こと。 (2011.09.18. at 09:06:50)


余震の対処と並行して後方支援も。仮設住宅建設後は支援両市からの住民への情報提供が課題に。一関では市の広報紙に両市の広報もセットにして配布。一関のHPから両市の情報も落とせるように配慮。避難所の巡回職員は保健士・栄養士・事務を三人セットにして回らせた、など。 (2011.09.18. at 09:14:30)


(配布資料から)一関市の後方支援実績。9月1日現在、職員による人的支援、延べ4405人。ボラ宿泊受け入れ、30023人。一関市への避難者(個人宅も含む)、642世帯・1579人。 (2011.09.18. at 09:24:53)


市長講演にコメントをしたが、その後のパネル討論は地元の人たちの支援に関する本音が聞けて有意義だった。(詳しくは報告書が出たらまた紹介したい。)まず、支援側と受ける側が意見交換し、それを地元住民が見守っていたこと。これは大都市のシンポではなかなか実現しない。 (2011.09.18. at 09:34:53)


地元出身の若者たちが企画運営し、参加者にはジージ、バーバから高校生までいたのもよかった。100名ほどの参加者でも密度の濃いシンポだったと思う。地元の人たちも何かを考えるきっかけを見つけてくれたにちがいない。 (2011.09.18. at 09:41:16)

   一関市長・勝部修氏講演(了)


今日は震災後初めて、自分の専門分野に近い内容の支援をすることになりそう。文化財レスキューのわけだが、こればかりはもう、臨機応変に動かないと… (2011.09.18. at 11:26:08)


今回の2000kmの旅で、通過だけした県も含めれば東北の5県を走った。東北の様々な地域と姿を見て、仙台に戻ってきた時の印象は、凄まじいまでの都市の巨大さであった。宮城県の仙台への一極集中はあらゆる分野に影を落としているように見えた。 (2011.09.19. at 11:26:12)


山本知事時代の方針で、仙台の都市整備が進められたと思う。それで政令指定都市にもなったが、相対的に石巻や古川・白石の中核都市機能が脆弱になったのでは?と思う。今回の震災の対応にそれが露呈したと思う。岩手の一関、青森の弘前のようにある程度自立的に動ける中核都市は重要だと痛感した。 (2011.09.19. at 11:33:40)


自分の命と生活を、災害から守るために、遥か遠くで決定される政治の事情を待ってはいられない人が多数いる。せめて、逃げるしかない人たちに不幸の追い撃ちをかけるような政治だけはやめてほしい、と言わざるをえない情けなさ… (2011.09.20. at 07:32:40)


災害情報ツイートの推奨事項。(1)発信の日付と時刻を入れる。(2)情報源を明記する。(3)公的機関・報道機関の情報を優先する。(4)憶測、伝聞記事はRTしない。 (20日16:39) (2011.09.20. at 16:38:28)


ラジオ放送局による災害情報ツイートで、「……のようです」という情報拡散はいただけませんね。 (2011.09.20. at 17:16:10)


もしも私が、企業や組織の小狡い広報担当だったとしたら、さりげなく今のタイミングで、会社や組織のネガティブな情報を開示します。台風やら水害のニュースに押されてその情報は小さい扱いになりますからね。そういう方面のウォッチも、誰かよろしくお願いします。 (2011.09.20. at 21:09:01)


今月の台風被害には心よりお見舞申し上げます。この半年、震災・豪雨・台風×2を受け、全国の被災地はまさに「賽の河原」状態。月並みの言い方だが、この経験を将来に適確に生かすより他ない。自然は人間の都合を待たない。動ける内に、改善できる内に、次の天災への備えを。行政の機動力強化を。 (2011.09.23. at 12:23:27)


「賽の河原」では地蔵様が救ってくださるが、現世は、人間を救うのは人間しかいない。今は目の前の危機を救うことが大事。例えば、三ヶ月前に立てた工程表を実現するために、突貫作業を被災地で断行するというのは安全軽視の本末転倒。緊急にすべきことは生命維持と生活再建。支援の第一段階に戻る事。 (2011.09.23. at 12:41:58)


地盤沈下対策や鉄道再建等にはじまる復興は、大きなお金の流れが前提となって動き出すもの。しかも復興は、地域を災害以前の水準に戻すことだけでは解決にならないのも現実。それが成り立たないとなると、地域から人口が減少するのは当然。 (2011.09.24. at 02:45:49)


支援思想らしきもの


先日、国際ボラ組織の人と話して印象に残った言葉。「支援で大事なのは支援漬けにしないこと。麻薬みたいなもので依存心ばかり増えて抜け出せない。日本は先進国だからそんなことはない、というのは幻想。だから我々が配るのは必要最低限のスターターキットだけ」 (2011.09.25. at 05:58:45)


このボラ組織は難民キャンプ運営など、幅広い実績を持つ。今回の震災でも物資支援、幼児の保育環境支援など、主として南三陸町以北で活動。それで、現在は経済流通の正常回復を目指して、現地商工会議所の後方支援に軸足を移しつつあるとのこと。現場の見極めと引き際が大事なんだと思わされた。 (2011.09.25. at 06:04:47)


震災対応は、もはや精神論を振りかざすだけではどうしようもない段階に来ていると思う。現地に熱烈な意欲があっても、周囲や政治の側に、共感と具体策・資金の流動性の保証が無ければ、人の流れは安易な方向に去ってしまう。知恵と資金(雇用)。 (2011.09.25. at 06:41:36)


支援する側の最終目標は何と言っても、「支援を無くすこと」。そして支援される側の最終目標は、生活や人権を含めた「人間としての尊厳を回復すること」。だから、支援のゴールも提示せず、被災地を支援漬けにしてしまう行為は、人間としての尊厳を踏みにじる事になってしまう。 (2011.09.25. at 07:39:09)


日本は災害が頻発するからそうなのか、支援思想が貧弱だからそうなのか、原因は分からないが、従来の災害対策はほとんどが、局所的発災・短期終息を前提にしていたようだと、自分も含めて反省する。さらに、最初の被害が終息する以前に次の災害が襲うシナリオを想定していただろうか? (2011.09.25. at 07:51:51)


それで思ったのが、今月の二度の台風。支援の優先度をそれぞれの個人・団体が考慮すれば、人命救助、避難所確保、交通路とライフライン復旧、情報共有といった第一次支援に立ち戻るべきことは必要だと思った。不特定多数への支援はそれが原則だとも思う。特定少数への支援だとそれは無理。 (2011.09.25. at 08:04:53)


二度の台風は記録的災害。支援側の対応も、自然によって試された。プロのボラの皆さんの尽力に頭を下げつつ、この半年、偉そうなことを言ってるにわかボラが、この一次支援にほとんど関与しなかったことには幻滅。自分自身も十津川・新宮あたりの情報拡散しかしなかったから大きなことは言えないが。 (2011.09.25. at 08:19:00)


支援活動(不特定多数向け)に終りを設定しておかないと、結局、次の支援すべき場面が起きた時に身動きがとれなくなるもの、と痛感した。家族や親類への支援の場合は今のままでよいだろうが、大規模災害が起きる度に対応できない不特定多数向け支援組織は信頼を失っていくのだろう、と。 (2011.09.25. at 08:36:00)

   支援思想らしきもの(了)


東北から社会変革を!と叫ぶ人たちもいるようだが、誰がその訴えに共感できるのだろうか?東北以外の人たちの冷ややかな目と、東北現地の目の前の現実に手一杯な状況を、ともに乗り越えて語れる社会変革のビジョンって、何だろう?… (2011.09.26. at 08:05:35)


学生ボラ。震災後半年を経過して、なぜそこに行くのかを自ら問うこと無しに参加するのは不毛ではないか?なぜ被災地と関わる?なぜいまだに学生ボラの仕事がある?ボラによってどんなビジョンを描ける?そんなアウトプットがなければ、学生としては、どうかと思うよ。 (2011.09.26. at 11:32:36)


くどいけど学生ボラ。半年経ったんだから、学期末レポート書かんとダメよ。自己実現とか自分探しのために被災地に来られたら、被災地は迷惑なだけ。出身地とか親類がいるならともかく、縁もゆかりもない土地に行くことの意味をはき違えちゃアカンよ。バイト代寄付した方がよっぽど社会貢献になる。 (2011.09.26. at 12:11:45)


勢いだけで支援ができたら、みんな苦労はしないよなあ… (2011.09.26. at 17:44:01)


電車の中吊りを見てたら、雑誌の見出しに産業の「空洞化」の文字。煽るつもりはないが、政治・安全・競争力などの諸条件を経営者の立場から評価すれば、日本にこだわる積極的理由は無いと言わざるをえないからなあ。加速するだろうなあ、空洞化。 (2011.09.27. at 05:33:52)


被災地の様々なものは、復旧できる。しかし復興にはほど遠い。何が復興を邪魔するのか。資本を呼び込もうにも、市場の成長性、魅力が無ければ無理。インフラ整備と労働力の確保は、過疎化地帯に重い課題。これまでの三セクなどの施策がほぼ全敗であるのをみれば、分かる。 (2011.09.27. at 05:51:20)


復旧はスピーディーに。復興は十年単位で考える、というのが現実的であろうか。そもそも、高齢住民が生活激変に対応するのは難しかろう。住民層の段階的更新を見越して、古い生活スタイルと、復興後の流入住民向けの新しい生活スタイルを共存させる工夫が必要だろう。 (2011.09.27. at 05:59:53)


意見や批判を幅広く受け入れねば、とは思いつつ、ツイッターはどうしても自分の趣向にあった人のみが集められていく。反対意見の人をフォローしても、ついついTLが長くなると、アイコンを見ただけで読み飛ばしてしまう。いけないことだと反省。でもまあ、過激な反対意見を見るのは疲れます。 (2011.09.28. at 07:50:56)


今日、南信濃や水窪、奥三河界隈を、図らずも150kmほど走ることになったが、山腹の大規模崩落を数ヵ所目視できた。これが人家の近くであれば、大ニュースになったはず。紀伊半島被害との地理的相違は、飯田・浜松・豊橋の三方からアクセスできる点か。半島の陸路は孤立しがち。 (2011.10.01. at 01:40:54)


青山から、渋谷の工事現場の中を通る。まさにコンクリートジャングル。人とぶつからないように歩く。ふと思えば、24時間前には山の中を一時間走っても人の姿を見ない場所にいた。どちらがよいということではなく、多様な生活と現実の狭間で生きる人間に思いをいたし続ける覚悟を強くしただけのこと。 (2011.10.01. at 15:43:18)


渋谷から厚木までの表示が「47km」。飯田駅から市内南信濃の八重河内地区がやはりそれくらいだから、距離感と空間認識は都内とは比較できないなあ。「都会と田舎」という対比は、言葉は単純だが、何の実質も表意しないように見える。さらにこれに震災被災地を重ねると、大変なような気がする。 (2011.10.01. at 15:52:39)


記憶の風化を嘆く人もいれば、もう思い出すことすら嫌だという人もいる。失ってしまったものを取り戻せないのならば、新しく作るしかない。だが、もはやそのような時間的余裕が残されていない方には、どうすれば安らぎを感じていただけるかを思案せねば。震災から7ヶ月が過ぎていく今日の雑感。 (2011.10.11. at 14:20:08)


単なる印象、という断り付きで。健康保険制度等が皆無に近い中国の街と、天災で突然生活基盤を喪失した被災地の様相は極めて似ていると思えた。平常な人と困難に直面する人がその空間内に共存している。「可哀想」だから支援するのではなく、故無き不利益を是正するという態度も共通に必要なのだろう。 (2011.10.11. at 16:19:48)


復興って何だ?と自問する数日。個人から自治体レベルまで、それぞれのゴールがあるはず、と考えること自体、何も見えていないのではないかと煩悶。復興のゴールを、現時点で設定できるのか? (2011.10.13. at 00:27:46)


日本語だと、復旧と復興の違いを明確に意識できる。災害以前の水準に地域が復旧しても、人・物・金の流れを以前より活性化させないと復興は不可能。展望・利益の見えない所に、投資は呼び込めない。では誰が展望を描けるか?そして、誰のための展望か?また自問。 (2011.10.13. at 02:48:03)


考察のために、敢えて最悪の想定シナリオを。仙台周辺以外の沿岸被災地に、適切な復興支援経費が見込めなければ、震災以前の過疎化・空洞化は加速。経費も、説得力ある展望が無ければ、後続経費を呼び込めまい。人口自然減・集落消滅で三陸のかなりの地域が無人化。これを阻止するには? (2011.10.13. at 06:34:36)


「正しく恐がる」だけだと非対称なので、「ただしく落ち着く」という態度も必要なんだな。 (2011.10.13. at 06:52:02)


被災地の抱える問題が経済・産業だけでないのはもちろん。今後の除染活動、風評被害、報道されにくい震災関連死、心理的ダメージ、これら諸々に起因する人間不信と社会不信ムードの蔓延。物資と金だけあれば何とかなるわけではない。さて、何をなすべきか? (2011.10.13. at 06:59:45)


自分に音楽や芸術の素養はないけれど、表現には人を動かす力があるのは間違いないと思う。学者たちがこの震災後の半年悩んできたように、表現の現場で悩み続けた人たちが大勢いたんだろうなあ、と当たり前のことを忘れないようにしていきたいと、突然だが思った。 (2011.10.15. at 07:39:34)


自分の生きている環境というか、生活世界を越えて意味のあることを語れれば、多くの人の共感を得る道は開けると思う。皆が皆、すべての問題に関わる必要はない。その問題を理解しようとする意志の有無が大事なんだな。 (2011.10.16. at 06:22:07)


被災地の復旧が進むということは、人・物・金の流れが震災以前の元に戻るということ。元々人の少ない地域だったなら、寂しさが出てくるのは当然。村祭りの当日・翌日の人出の違いと言えばよいだろうか。さらに復興というのであれば、定常的な人出を実現させることが必要。 (2011.10.17. at 10:12:26)


東北地方の中核都市近郊に作られた工業団地で、当初目標を採算ベース、雇用ベースで上回った成功例ってあるのかな~ 地域産業論の方に聞いてみたいところ。そういう参照例も無い所で新たな産業奨励策の提案は難しいのかな。 (2011.10.17. at 10:21:57)


人生、色々な場面で様々な役割を使い分けて生きていくのだが、まさか自分の人生の後半戦で、歴史的な不条理を体現する舞台の上に立つことになるとは… ぽっかりと開いた空虚な心と広大な大地を貫く何か。…被災地を故郷と同義語に置き換える、これこそ不条理。 (2011.10.18. at 00:27:27)


膨大な情報の中から必要なものを選別して、それを知らない人に教える手助けをする。これも災害時には立派な支援活動です。とかくこれまでの日本社会では、情報は無償で当たり前という意識が強いので、情報ボラは軽視されてきましたが、そんなことはありません。的確な情報提供こそ大事な支援です。 (2011.10.18. at 07:52:24)


ツイッター情報の多様さを毎朝の新聞に例えると、公的機関の公式発表、記者執筆の一般記事、意見広告、商業広告、地元商店街の特売チラシ、怪しい商品勧誘チラシ、…これらが同じフォーマットでTLを埋めると思えばよい。怪しいチラシは見れば分かるけど、ツイッターだと判別が難しくなるね。 (2011.10.18. at 08:10:04)


放射能をめぐる問題で迷ったら、やはり医療と同じように「セカンド・オピニオン」を求めるのが良いと思うよ。ただ一つの主張にすがるよりは余程まし。二つの違う見解を知った上で何が違うのかを判断する事が大事。周囲も決めつけを押し付けるのではなく、そういう方向に誘導できれば、なお良いのかも。 (2011.10.18. at 08:20:05)


【被災地のこと】今なお震災・台風被災地で尽力される皆さんに敬意を表し、一日も早い生活回復を祈っています。非被災地では将来の「減災」に向けた意識向上が大事と思います。記憶の風化、ボラの位置付け、復興プラン策定の是非などを巡り、減災を鍵にしてこれまでを再検証する議論が必要でしょう。 (2011.10.21. at 07:36:23)


【被災地のこと】自分を振り返れば、33年前の宮城県沖地震に遭っても、阪神淡路の時には1万円寄付しただけでした。継続して何かすべきだったのか?今も思うこともありますが、その時にできることを果たしたつもりです。問題は震災の経験を再検証したかどうかだと、半年以上経過して痛感しました。 (2011.10.21. at 07:52:45)


【被災地のこと】時間経過と共に、時事問題が新たに発生し被災地の比重が減少するのは当然。それは記憶風化ではなく、被災地だけに問題意識を集中できない我々の普通の状態。だから現代史としての記録作成と活用・再検証が、そのサポートをする。マスコミはあらゆる問題の「今」を切り取るだけ。 (2011.10.21. at 08:06:39)


記憶風化を防ぐようマスコミに何かを期待、というのなら、NHKは無理だが、民放スポンサーにそのような番組作成の意義を認めさせる活動、世論の盛上げも必要。震災番組提供企業の購買運動をするとか、広報担当にメリットを感じさせないと、特番はできない。なお報道番組は公平性の観点から勧めない。 (2011.10.21. at 08:34:32)


善意の金・悪意の金という二分法が許されるなら、悲しいことに悪意の金の方がスピーディーに動き回る。義援金や生活保障といった善意の金は手続き、公平性確認などで歩み遅く、詐欺やら便乗商法など、悪意で集められた金は疾風のように持ち逃げされる。同じ金だけど。 (2011.10.21. at 12:04:18)


今も各地のボラ・センからボラ募集のツイートを頂くが、持参すべき軍手やら金敷作業靴など、細々したものが必要になり、それで躊躇している人もいるだろう。だから、こういうボラセンこそ、作業用物資の支援、寄附を募ればよいのじゃないかと思う。ボラさんに手ぶらで来てもらってもよいように。 (2011.10.21. at 13:19:48)


支援の次の段階は、崩壊を免れた地域コミュニティーから、生え抜きの地方議員を生み出す運動の後押しかな。震災直後からの議員実績を住民がリサーチし、信頼に値する該当者がいなければ、自前で議員候補を育てること。住民の意思を地方自治に反映させる人を育てる取り組み。結局は教育ということかな。 (2011.10.23. at 09:11:27)


もちろん、コミュニティーが全員一致で何らかの「住民の意思」を持てるとは思えない。教育支援という限り、「話し合いをすることの重要さ」、「違った意見を許しつつ、それとどのように共存していくか」、「個人の幸福とコミュニティー機能向上の両立」を議論する方向付けを手伝うことが大事だと思う。 (2011.10.23. at 09:20:59)


後方支援や経済復興の一助として、起業家養成団体、起業アドバイス・チームはたくさんあるけれども、同じように、地方自治の実践支援という方向性も必要なんじゃないだろうか。 (2011.10.23. at 09:26:26)


だいたい、陳情・要請・対立扇動ばかりで何かを解決(あるいは粉砕)しようとしてきたのがこれまでの国政から地方自治までの悪しき習慣だったわけで、もう少し希望の持てる理想論を打ち上げるだけでもしておきたいというのが本音です。そう、理想論に過ぎないといわれる批判は覚悟の上で。 (2011.10.23. at 09:30:03)


被災地の支援が進めば進むほど、(成果が上がっていく裏で)不幸や批判も増えるのはやはり問題だと思う。自己満足の支援で突っ走られると現地は迷惑だし、住民間の嫉妬や不公平感はコミュニティーを分断してしまう。それが問題だ、と大っぴらに議論できる場すら地域にはない。。 (2011.10.23. at 09:42:46)


TLで見かけるようになった、被災地からの深刻な人口流出。コミュニティーの現状を知るには、市町村合併以前の旧町名区分で把握する必要あり。石巻市などはその典型。全市域の流出人数を知っても現地作業にあまり意味はない。雄勝町や牡鹿町など、それぞれの旧行政単位の情報が大事。 (2011.10.24. at 07:27:07)


遅い・早いはあるものの、土木建設関連で復興特需は必ず来る。一番、金が動く業種だけに、他の部門が霞んで見えるに違いない。だから特需が終った後の生き残り戦略、繋ぎ戦略を産業・人口・文化面から考えておくのがよいのかな… と思う。バブルは突然終るからなあ。 (2011.10.24. at 11:50:38)


耐久財の物資支援。レンタル→利用→回収→一部中古販売→活動資金→レンタル、のサイクルではダメか?問題点は何か? (2011.10.24. at 13:47:34)


この週末(金夜~月朝)、帰省も兼ねて宮城に行きます。市町村合併以前の統計データが気になるので宮城県図書館で情報収集、そして沿岸部を回ってくる予定です。若林区・野蒜・南三陸町、その他の状況を邪魔にならないよう拝見してくるつもりです。多分、車を使うのは年内これが最後かな… (2011.10.25. at 19:39:20)


被災地の課題に対して、ようやくマクロな対策が固められようとしている段階。住民個々人の課題は、メンタルから雇用維持まで多様化。支援形態もそれぞれの得意とする専門の知見を有効に投下できるようなものが望まれるだろう。そのためのきめ細かいリサーチが必要。 (2011.10.28. at 05:49:43)


今年は記録的な地震、記録的な事故、記録的な台風、記録的な洪水(タイ)、記録的な円高に見舞われた。さらに、人口は減少傾向。個人の無力を嘆くか、開く途があると信じて前進するか、気持ちの整理から始まるのかな… (2011.10.28. at 06:01:09)


被災地のマクロな課題への対策を施そうにも、住民減少・意欲喪失といったミクロな課題が立ちはだかる。どうすればいいのか。課題解決の順位付けがまず最初なんだろうなあ。だからいずれにしても、プロセスを進めるための資金が必要になる… (2011.10.28. at 06:21:13)


ある社会が「没落」していく、と皆が感じている頃には、目先のきく人がもう既に走り出していて何とかしてきたから、多分今までやってこれたような気がする。でも、その目先のきく人が、良い人か悪い人になるかは運次第なのかな。 (2011.10.28. at 08:22:47)


詐欺師は詐欺と自覚しながら行動するから、それに対する批判と処罰は容易。ニセ科学や怪しい話に基づく「善意」の押し付けは当人がそれを信奉している限り、他人からの忠告・批判を受け付けないから厄介。言葉での説得、議論ができない人たちといかにして交渉するのか、難しいなあ。 (2011.10.28. at 08:46:48)


偶然とは言え、日本とトルコに同じ年に地震が起きたということを後の歴史書は記録するんだろうなあ。 (2011.10.28. at 21:54:34)


国際的な地震としてはもちろん、日本人もお亡くなりになった、ニュージーランドも忘れてはいけないです。 (2011.10.28. at 22:04:16)

凡例

・以下の記録は、2011年7月17日から、2011年8月30日までのTwitterでの呟きを主題別にまとめたものの一つ、「震災と支援をめぐる雑感」である。

・収録した呟きは、著者本人の独白形式のみを採り、RTとそれへのコメント、@付きでやりとりをした会話は除外した。

・各呟きは、ほぼ時系列に沿って提示している。("2011.07.17. at 15:23:10" で呟いた日付と時間を指示する。)

・その時々の印象を呟いたものがほとんどであるので、後に諸状況の変化が生じて事実とずれてしまった記載も認められるが、その時点での記録として収録している。
・収録にあたっては、誤字脱字を訂正し、必要最低限の補足修正に留めている。
・「※」を付して、呟きの背景を注記した箇所もある。
・一連の内容がまとまっている場合は、適宜、小見出しを付けた。


本文


車の免許を取る時に、95%安全ならいいよ、と教える人はいない。安全運転は完全を目指す以外にない。人の心と命に関わるボランティアも同じ。失敗は許されない。参加者にその心構えは絶対に必要。失敗した時の処理をマネジメントとして考えるのがリーダーや代表の仕事。 (2011.07.17. at 15:23:10)


今回、新車の契約でオプションで付けたのは緊急脱出セット。シートベルトカッター、ガラス割ハンマー、二酸化炭素消火器が一つになった優れ物。これとバッテリーケーブル、三角標示板を付けて、緊急対応能力をアップ。被災地では自助努力が原則。以前、佐渡島でパンクして青ざめた苦い経験あり… (2011.07.17. at 14:19:46)


悪いヤツは、大ニュースの陰でこっそり重大発表するものだから、気を付けないとね。 (2011.07.18. at 09:38:12)


真夜中をいいことに、寝言として叫ぶ。「バカヤロー!被災地を放置して世界遺産にするつもりかーっ!!」 (2011.07.21. at 04:19:34)


どうも前の席に座っていて福島で降りられたのは国会議員の方らしい。テレビにしょっちゅう出ていて有名だよ、と娘に教えられた。けど、名前知らない…(^-^; どなただったんだ?まあ誰であれ、その職にある方、被災地のために、どうか粉骨砕身お願いします。 (2011.07.24. at 10:44:22)
※新幹線車中で。福島県選出の議員、玄葉氏だったことに後に気付く。


宮城県民約230万人の内、仙台市民が約100万人。人口・経済、一極集中どころの話ではない。その周辺である過疎地域を今回の震災と津波が襲った。仙台の街を歩く度にその事実を思い知らされる。 (2011.07.24. at 19:03:31)


仙台と言えば伊達政宗、という公式を打ち砕かない限り、宮城の観光資源は発掘できないだろうね。全部が全部、政宗公におんぶにだっこなんて、政宗公もあちらで苦笑いされていると思うよ。 (2011.07.25. at 14:20:11)


人間にとって、今回の震災の余震の長引き方は尋常ではないと見えるが、地球規模の時間単位ではほんの一瞬。我々の記録と言っても1000年分ぐらいの蓄積しかないし、考古学的な地震の痕跡調査も日本全土を網羅しているわけではない。この地域にいる以上、今更ではあるが地震への覚悟は絶対に必要。 (2011.07.25. at 20:25:19)


色々な情報を追いかけ続けていると、心弾む話ばかりではなく、とんでもなく心が折れてしまうような話題も避けて通れない。自分の心の弱さをあらためて実感し、今後のことを考える。……それでも、〆切は待ってくれない。 (2011.07.25. at 21:50:15)


今日中に多分5000ツイート達成かな… よくここまで続いたもんだ。そして、5000の発話もしない内に、新しい多くの人たちとの出会いがあった。不幸な震災をきっかけに始めたツールであったが、この出会いには心から感謝したい。 (2011.07.26. at 16:31:38)


この八月、もしこの調子の気温のままだったら冷房や扇風機要らなくなるなあ… 冬物支援考えとかないと。あと一月したらこたつの準備だし… (2011.08.01. at 12:08:21)


帰宅。今回も被災地を歩いたが、歩く度に全く同じ印象を持てないのは当然としても、やはり津波の巨大さを思い知らされた。今回初めて岩沼~閖上沿線と、南三陸町(志津川地区)を実見した。これまで見た宮城県内も含めて言えば、何度も言われたことだが、この津波は我々の津波概念を遥かに超えていた。 (2011.08.01. at 19:31:29)


今回、初めて南三陸の現場を拝見したが、ここまで現場をきれいにされた皆さんのご努力に敬意を表すると共に、入谷地区付近まで波が来たことに驚いた。被災地地図の情報では分かっていても、実際の現場を見た時の衝撃は大きかった。ここまで津波が来るなんて、予想できるはずはない。正直、そう思った。 (2011.08.01. at 19:52:19)


確かになあ~ 仮設の中で相互扶助体制築けというのは無茶だなあ。アルコール依存もそうだし、過剰な物資蓄積もある種の依存。どこまで専門家の外部支援が介入すべきか難しそう。それよりも、人手が足りないんだな… (2011.08.03. at 08:56:43)


福島民報の除染記事、削除されてたんだね。そりゃそうだな。 (2011.08.05. at 08:11:46)
※EM菌を利用した除染活動を報告する記事について。


こういう時代に巡り合わせてしまったんだなあ、という個人的感懐と、それでもやはり、現実は人間の事情などお構いなしにいつもどおり動いていくという気持ちの間のギャップで、今日もまた行ったり来たりしながら考えていく。 (2011.08.06. at 03:42:54)


故郷周辺の被災地に行くたびに、何とも言えない絶望に襲われる。ボラのプロであれば、被災地に赴く際、ある程度人間的な感情を押し殺して対処することは必須であろうが、当事者にはなかなかそれができない。それでも行かねばならない状況に陥り、苦悩している普通の人も、数多くいるに違いない。 (2011.08.06. at 04:23:38)


国際金融畑の知人と話をした時に、印象に残った一言。「貧困に耐えられるかどうか」…行き着く先がこれであることを、果たして制度設計やビジョンの中に組み込めるかいなか。重いなあ… (2011.08.06. at 05:25:02)


見事なまでの政策的不作為が、後世の視点でどう描かれるかということでしか意識できない。職業柄避けられないのかもしれないが。何かは確実に変わっていくに違いない。だが、それが見えるためにはどんな時代でも数年間は必要なのかもしれない。 (2011.08.06. at 05:58:16)


まともな思考のできる時間の半分を、既に生きたと思う。この現実を前にした時、最早読みきれない本を選別して処分することで、知の還流に寄与し、なけなしでも活動資金を得ることの方が良いのではないかと思いつつある。 (2011.08.09. at 03:16:29)


今日は、朝から暑い。5ヶ月目の今朝。またここで、これまでの問題点の反省と緊急の課題の洗い出しが必要だろう。 (2011.08.11. at 05:33:10)


震災5ヶ月目の雑感 思い付くままに


(1)被災地自治体の想像を超えた災害の発生。従来基準への信頼崩壊、防災意識の急変(2)救援初動体制の制度的限界。機能壊滅自治体のサポート体制欠如。救援要請の縦割り構造の弊害。 (2011.08.11. at 05:40:14)


(3)住居の全半壊認定基準だけが被災者のQOLを測る尺度となる弊害(4)長期・広域災害への対応不備[官民とも](5)限界集落を集合させた広域自治体の悲劇 (2011.08.11. at 05:45:39)


(6)マスコミ報道は激情を煽る一方、記憶の風化を助長もする(7)疑似科学をも交えたデマ、風評の拡散(8)[宮城の場合]仙台の都市機能回復と沿岸被災地復旧のスピードの格差。被災地空洞化を助長しかねない。だが実は被災地としての仙台市の行政は遅滞気味。 (2011.08.11. at 05:57:38)


(9)まだ何一つとして終息していない現実。そしてその抑圧から逃避したい意識の醸成。(10)ボラ組織運用の効率化。ボラに頼る意識の薄かった住民と、連携経験の少ない行政、五月雨式に現地入りするなんちゃってボラ (2011.08.11. at 06:07:53)


(11)阪神淡路との違い。復旧・復興後の産業的、地域的なグランドビジョンが描けないこと。阪神の時は災害前の水準に戻すことが第一の駆動力になった。(12)まだ災害の全体像を総括するには時期尚早。むしろ危機は途切れることなく起こり得る。 (2011.08.11. at 06:22:27)

   震災5ヶ月目の雑感(了)


「被災3県不屈の歴史」(読売・本日朝刊)と言われてもなあ、全体的な状況は九州との類似性も多いし。東北だけ特別?東京の後背地として労働力、エネルギー、食料の供給地でしか認められなかった地域の実態を「不屈の歴史」の一言でまとめるか… (2011.08.11. at 07:25:21)


多賀城の育英付近で今夜、花火ですか… あのあたりの田んぼも津波をかぶって空き地のままだったからね。なんか複雑な気持ち。新田辺りはちょうど花火が大きく見えそうだな~   (2011.08.11. at 09:31:25)


また節目の一ヶ月を迎える。マクロレベルでの対策が何か為されるには十分な期間であったはずなのに、数万人単位の困窮者が放置されている。復興の声を上げるべき地元の人に、ビジョンすら示せない。ビジョンが無ければ、一過性の支援を続けていくしかないのも現実。追悼の時にあたって。 (2011.08.11. at 14:10:18)


あの時間をあの地震の時にいたコンビニで迎えた。追悼。調布は夕立が降り始めた。 (2011.08.11. at 14:50:53)


今、東北道って帰省ラッシュピークなんだろか?今年は色んな意味で、帰らなきゃいけない人たちがこぞって東北に向かっていると思えば… 渋滞の中の皆様、お疲れ様です。 (2011.08.11. at 18:23:20)


日本の葬列と祭列って、何となく似てるような気がする。今年の夏祭りは、特にそんな印象を持ってしまった。鎮魂なんだろうか、ベースにあるものは。 (2011.08.12. at 01:12:33)


地震との長いお付き合いなのね… 古い文献で見た300年前の宝永群発地震・富士山噴火とパターンが似てるんじゃないかな。そんな気もしてきたが、ともかく注意が大事。 (2011.08.12. at 03:53:46)


武蔵野の面影を残すキャンパス内、今の時期は蝉が大合唱。今朝は早くも鳴き始めている。ということで、こちらもそろそろ帰るか… またも地震が起きぬよう、祈るしかない。そう、祈るしかないんだな。 (2011.08.12. at 04:48:29)


あと1、2年は地震が無くならないものと覚悟しておかないと、やってけないな。記憶の風化?太平洋側東北はありえないね… (2011.08.12. at 05:28:49)


こんな頻度で地震や津波が起きたら、末法思想が蔓延するのも当然だな、平安時代とか。 (2011.08.12. at 05:40:53)


そういえば、貞観地震の後の多賀城って正確に言うと「復興」したのかな?同じ規模の街区が再現されたんだろうか?調べてみないと。 (2011.08.12. at 05:46:57)


東北道が例年にない帰省ラッシュかな。事故もあったようだからなおさらか。東北行きを14日にしておいて正解だったかも。事故だけはどうしようもないけど。何があっても安全運転を。 (2011.08.12. at 06:01:37)


この震災によって、何についてであれ価値観を変えた人がいる一方、まったく価値観を変えないように見える人がいるのも事実。人間、そんなものなんだな。 (2011.08.12. at 09:08:28)


いつしか、マスメディアで作られたイメージだけで震災を語る時代が来るだろう。毎年、新しい画像や動画が発掘されるに違いない。美しい空虚さ… このイメージは一体何なのか。安全な場所にいた自分の中に、もはやご遺骸のイメージは完全に欠けている。その現実の襞をこれからも重ねていくのか。 (2011.08.12. at 23:46:31)


去年までの盆の恒例行事は子供たちを連れて宮戸島の縄文村で体験学習させることだった。勾玉削りや火起こしなんかは大人の方が気合入れてしまうものだった。あのあたりも被災しちゃったんだよなあ… (2011.08.13. at 17:00:25)


被災地へ


予想していたとはいえ、東北方面への今年の帰省ラッシュはすさまじい。被災地の高速無料化も拍車をかけたに違いない。東北自動車道の栃木県内で70㎞の渋滞が発生するなんてありえない。那須高原から宇都宮までの60㎞よりも長い距離の渋滞?! それで、私はこれから向かいます。 (2011.08.13. at 20:55:34)


今回、初めて被災後の野蒜(東松島市)を走った。夏休みに、家族を乗せて走ったこともある河の沿道が、無惨に変わり果てた姿になっていた。ああ、ここも… と心の中で絶句。 (2011.08.14. at 18:38:54)


野蒜小学校で積み降ろしの手伝い。作業前に、体育館に設けられた祭壇でお焼香と黙祷。この体育館を津波が襲い、逃げる間もなく数百名近くの方がお亡くなりになった。心から冥福を祈った、いや、ひそかに泣きました。床板は数枚剥ぎ取られ、舞台の下は空洞のまま。時計もその時間で止まっている。 (2011.08.14. at 18:56:40)


その祭壇の脇には、亡くなられた方の遺品も残されていました。とりわけ子供の靴、ランドセル、ノート、衣類が、… 同じ年頃の子を持つ身として、胸が張り裂けそうでした。避難の時にすら、ランドセルやノートを抱えていたこの子たちに拙い哀歌を。「逝きし児の 黒きカバンに 夏の雲」放虎 (2011.08.14. at 19:13:28)


この野蒜小学校ですが、これから、東松島市の宿泊もできるボランティア活動の拠点として使われます。今日も、各地からいらしたボラさんたちが花壇の整備や物資の搬入に大忙しでした。鎮魂の場と復興の拠点を兼ね備えた場所として、野蒜小学校は生まれ変わるわけです。 (2011.08.14. at 19:56:16)


今年の盆。菩提寺は宮城野区の西光寺で、津波を受けた岡田や蒲生に檀家が多数。案の定、新盆のお宅も多く、各檀家に配るお札が足らなくなった。一家に一枚なのに、それを知らない檀家が仏様の数だけ持ち帰ってしまった。我が家の分も足らなくなり、檀家総代から一枚もらった。 (2011.08.14. at 20:15:33)


墓参りはいつも通りだったが、倒壊・転倒した墓石が多数。今更ながらに震災の激しさを知る。すれ違う地区の人たちの会話も、うちは家が半壊だったからまだよかったのさ~、と交わす挨拶が、そもそも尋常ではないのだが。墓石まで直す余裕は無くて当然。うちの三基は従兄弟たちが自力で直してくれた。深謝… (2011.08.15. at 11:31:56)


生まれて初めて歌津入り。宮城県民なら一度は遠足などで魚竜を見に来てもよいはずなのになぜかご縁が無かった。R45の100km地点を過ぎ、感無量。この国道がやはり今回の津波災害の象徴になるんだろうなあ。 (2011.08.15. at 13:23:15)


今日、一時間、南三陸町の街を見つめた。あらゆるものが秩序を失い、その姿をさらす。だが、物自体ではない。語るべき言葉と心を瞬時に喪失し、眇々(びょうびょう)と水際まで横たわる中に有るものは、がれきの一語を拒絶する、冷たく鋭い意志。だからこれからも生きる。そんな思いがよぎる。 (2011.08.16. at 00:02:47)


このお盆は、例年になく、様々なことを考えさせられた。沿岸部に散った一族ながら、犠牲者の出なかったことには感謝の言葉もない。3.11の時に偶然旅行していたり、すんでの所で車から脱出した身内がいた。私も、自分の蔵書で圧死していたかもしれない。偶々生かされているという事実を忘れぬことか。 (2011.08.16. at 10:05:45)

   被災地へ(了)


人間というものは問題の渦中から離れると急速に無関心になる。学校を卒業したら、誰しも苦手だった科目をひとまず忘れようとするだろう。必要に迫られた時に、再びそれを学べるルートが開かれているかどうかが大事。震災の記憶の風化に対する態度も同じなんだろうな… (2011.08.17. at 00:28:32)


誰のために戦っているか分からない、しんがり戦の中にいるようだ。 (2011.08.18. at 09:36:38)


無償ボラが現地雇用の機会を奪う危惧については、新しい義援金の枠組みが必要か。CFWほど大がかりではなく、ボラセンが日給幾ら程度で支払える現地雇用労働の対価を義援金で支払える仕組みがあると良いのではないか。ただ、機会の公平性や制度的な障壁はありそう。識者の助言を頂きたいところ。 (2011.08.18. at 12:24:46)


現地雇用の確保としては、各種公益法人に寄付金で雇用を創出してもらうやりかたもあるかもしれない。私ごときの素人が思い付くぐらいだから、現に実践例があるかもしれない。その周知が課題か。物資支援と並行して、「寄付金・雇用」の循環も回るとよいのだが。 (2011.08.18. at 13:55:09)


TLをつらつら眺めていて、国の政策の現実との解離ぶりにあらためて脱力。国内経済における寄与度の少ない東北被災地は、結局何でも後回しにされてしまうのかと… あまりにも冷酷で近視眼的。ボラの立場から金も回さないとダメになってしまったらおしまいだろうに… (2011.08.21. at 06:25:54)


近視眼的な政策を批判するならば、長期的な展望とは。第一次産業と観光業の振興か?それだけではこれまでの二の舞となる。二つの産業をベースにしつつも、いざという時に首都機能も担えるような独立性と国際発信力を備えた地域育成かな。まだ素人考え… (2011.08.21. at 06:44:21)


それにしても、宮沢賢治という男の言葉と行動に、今更ながら打たれ続ける。なぜあの境地に飛翔できたのか。農村振興を国際的な視野からも俯瞰した発想。日本の一地域「岩手」(いはて)を「イーハトーブ」とエスペラント式に表記することで可能にした地域と国際性の一体化の契機。すごいなあ… (2011.08.21. at 07:13:24)


70年代頃までの東北近世史の研究をみていて、しばしば「植民地的経営(政策)」の語彙が用いられていたことに違和感を持った覚えがある。中央から収奪されるという構造意識が根強かったのだが、果たしてこの意識を克服できるほど、現実は変わったかどうか、震災を経た今、甚だ怪しいと思う。 (2011.08.21. at 07:26:48)


現状をマクロな視点で見れば、国は一体何をやっている!という怒りに満たされる。ミクロな視点に移ると地域やコミュニティーの間で生じている復旧の格差に愕然とする。地震も原発も終息の目処がたたない今、個人は何を為すべきか。そして何を為さざるべきか。迷うばかりの現実に放り出されたまま。 (2011.08.23. at 02:15:57)


生々しい話をすれば、善意を食い物にした腹黒い似非支援者の存在を、チラホラ聞くようになった。氷山の一角なんだろう。トンデモ科学・医療の宣伝活動もすさまじい。被災地の荒んだ心の隙間を狙う許せない輩。どうか全方位的な注意喚起と、まっとうな物質的・知的支援を。 (2011.08.23. at 02:43:32)


以前も呟いたことがあるけれど。人目を引く事件が発生すると、悪い奴はその陰で、こそこそと重大発表するものだから気を付けないと。 (2011.08.23. at 23:39:03)


東京の主要新聞への要望。震災関連記事をせっかく1ページ宛てているなら、お涙頂戴記事、あるいは復興記事だけでなく、被災地の課題や問題点を指摘する記事を同じページにバランスよく載せていただきたい。それだけでも記憶は風化しない。 (2011.08.25. at 08:00:01)


ヒーロー/ヒロインというのは、後で作られるものだからなあ。 (2011.08.25. at 11:33:09)


思い起こせば震災で研究室内部が完全崩壊し、書棚のガラスが4枚も割れた。安全優先で、資料類を無造作に段ボール箱30個に詰めて今に至る。講義の時はその資料を探すのに半日はかかり、ようやく今回研究発表の資料整理までたどり着いた。それで資料作成は間に合わないという言い訳… (2011.08.26. at 22:54:29)


今回も東京から京都まで車で走ったわけだが、この走行距離(約550km)よりも津波被災地の方がはるかに長いと思うと、被災地の課題を単純化できないことはすぐわかる。東名高速道沿線が単一地域と思える筈がない。東北も同じ。 (2011.08.28. at 08:09:27)


被災地の新聞記事を意識して見ているが、怪しいトンデモ科学の主張・活動を無批判に掲載する記事がこれまで数件あった。独立した「科学部」的セクションを持たない地方新聞にこそ、科学ジャーナリズムとの実践連携確立が至急課題であろうかと思う今日この頃。 (2011.08.28. at 08:19:34)


【素人発言】物資の支援と資金の支援を並立可能とする制度的枠組みが必要?義援金で短期的作業に賃金を支払う公益団体に制度的優遇措置を与えて後押しすれば被災地雇用を改善できるのではないか?公的雇用推進対策を待ってはいられない。あらゆる可能性を。 (2011.08.28. at 08:28:14)


【この言い方は許されるか?】「疑似科学」ネタというか、それに類似した怪しい商品は、震災前からも新聞の折り込み広告などで幾らでも紹介されていた。誰かは実際にそれらを購入したり利用していたのだろう。震災によってそれらが露出する場面が拡大して、潜在需要層を掘り出したのが昨今の問題かと。 (2011.08.29. at 14:19:15)


被災地の社会・生活・経済全般を震災前の水準に戻すことを目標に掲げるならば、お亡くなりになった方と流出した人口分をカウントしたビジョンを示す必要がある。国レベルの行政が今のような体たらくだと、ビジョン構築が難しいのは分かりますが… (2011.08.30. at 05:49:08)


自分も研究者の端くれだから自戒を込めて言えば、被災地はどの分野であろうと実験場ではない。自然の変化の観察はともかくとして、人間の生活に関わる事柄において、地元不在の調査・研究はありえない。 (2011.08.30. at 06:00:15)


写真の洗浄ボラが今回の震災では多くの人に感謝されている。大事な思い出が写真でしか再構成できないのは辛いことだが、それですら無くなってしまうのはさらに無念である。個人の記録であれ、人類が残す記録であれ、その保存に関わるのが歴史業界の仕事。もっとこの人たちに注文を付けてほしい。 (2011.08.30. at 06:13:58)


可能ならば、持ち主不明の写真や位牌は被災地の地元か国立の機関で永久保存していただきたいというのが、歴史屋の思い。どこに保管し、どうやって維持するのか?費用は?… 課題はあるが、それこそ、持ち主不明の記録・ご遺品は人類で共有すべき震災の記憶の現物だと思うのです。廃棄せずに。 (2011.08.30. at 06:27:49)