凡例


・2011年12月16日~2012年2月7日までの間にTwitterで呟いた、歴史学、科学史、大学での講義といった、アカデミックに関わる話題をまとめたもの。

・末尾の数字は呟いた日付。

・個人的なメモがほとんどの内容。出典は必要最低限の文献名のみを提示している場合が多い。

・誤字脱字、若干の訂正を施した箇所がある。



本文


所蔵史料から


江戸時代中頃の打ち上げ花火の筒の設置の様子。先日買った、花火の秘伝書から。木砲を使ってたのね… http://t.co/uRckywFz


江戸時代の花火。まだ金属の炎色反応を使った発色剤が無かったので、江戸の花火は黒色火薬のオレンジ系だけ… http://t.co/sp3lBi9B


江戸の花火2。こんな花火あったのか?と思うけど、花吹雪や飾りを仕込んだ仕掛け花火が主流だったようです。 http://t.co/Jzd6zcqy


以下、近世初期の軍学書から挿し絵写真を連投します。寛永11年、森田和泉守が伊勢の藤堂仁右衛門に授与した秘伝書「雲気之巻」より。敵陣から立ち昇る雲気を見て戦の勝機を判断するというもの。戦国の軍師たちはこういうことを言っていたと分かります。


雲気之巻1。こんな気が見えたら怖い。これが見えたら「攻めるな」とアドバイスあり。これ見えたのかな… http://t.co/CaQR63d2


雲気之巻・2。さらに絶句するのがこれ。一体、これは、マジ?と思う。これが敵陣に見えたら「急いで討て」とアドバイスあり。私なら迷わず逃げる。 http://t.co/3nVIlYOV (2011.12.15.)


戦国時代の軍学の実践って、こういう摩訶不思議なものだったんだろうなあ。かたや、鉄砲以後は、火薬の調合や飛距離の確定など、実験的精神も並行して現れる。だが結局、日本の砲術は戦術論にならず、精神論・神秘主義に取り込まれてしまった。


江戸時代の軍学で、ずば抜けて特異的なのは、やはり北条流。神秘主義的な側面は若干あるものの、オランダ伝来の技術をさりげなく取り込み、実践面を重視する。測量術を詳細に伝えることも、珍しい。 
(2011.12.16.)


古書あれこれ


これから神田へ、商売道具の仕入。嫌な客だけど、今回の分の支払いは来年度まで待ってもらうことになりそう…


神田での仕入作業終了。信濃の石川従縄の測量書は三上義夫の旧蔵書。他、天保年間の測量秘伝書はかなり古い内容の伝承で、貴重。和算書・江戸中期写を三点。ポケットサイズの測量折本一点。井本進旧蔵の天文書一点。


鹿島茂さんには到底及ばないが、古書はともかく買い続けなければいけない。特に写本の一点ものは、見つけた時に買わねばもう二度と手に入らない。江戸の科学史研究を仕事とする以上、この宿命からは逃げられない。自分が買い続けることで、古本屋さんも心得ていて、新しい資料を発掘してきてくれる。


もちろん、古い資料が売買され、個人が所有することに対する批判があることも承知している。研究者としては情報公開に努め、市場に出回った資料を購入し、最終的には公的機関へ収まる道筋を作るのは自らの責任である。購入はあくまで緊急措置という位置付け。己のものにして、己のものにあらず。


古書話のついで。色々な図書館に「○○文庫」と個人名を冠した文庫があり、多くの研究者が恩恵を受けている。今は重宝され尊敬されても、当人存命中は邪魔者扱いだったものが多い。居住空間と生活費を削られる家族の反発と和解して、今に残されたコレクション。利用者はそこまで思いを致してほしい。


これから本郷へ。東大内の某所から再発見された幕末・明治初期の海図調査。東大は史料の魔窟なんだよなあ。。 なぜか海軍省の機密資料なんかも某所地下書庫に眠ってるし。うーむ。。  
(2011.12.16.)


震災と記録保存


これから、震災の記録のアーカイブを作っていかなければならないけど、どんなモデルが必要かな。。。 中国清華大の張さんたちが立ち上げた、殷墟の発掘品をデータベース化するシステム、e-Archeologyあたりが参考になりそう。。


何を記録・資料として残すかという問題は、常にアーキビストや歴史家の悩み。大きな物は現場の遺跡から、小さな物は津波で流された生活用品。文字として見える文書に、文字としては見えない被災者の証言、ツイッターの呟き。その時代が切り取る断片を、いかにして後世にも意味ある物として伝えるか。


震災の記録を残す作業は、もちろん現代史の課題として既にたくさんの方が取り組み始めていると思う。災害の記録は、ともすると悲惨さや被害の甚大さを強調する嫌いがあったと感じているが、今後は、発災から被害状況、救援、復旧、復興までの流れを総合的に見通せるような視点が必要だと切に思う。


研究室の整理をしたつもりが、なぜかエントロピーが増加している事実。歴史家失格。


しかし、一方で、部屋の整理をする度に、昔コピーして読まなかった論文や資料などが出てきて得した気分にもなったりする。これも変と言えば変だが、歴史家職業は、そのような時に、価値ある物を発掘した気分になれる。。 あ、でも、それはやはりおかしい。。。 
(2011.12.17.)


明後日の水曜日、ある国内図書館でお手伝いをした電子展示が公開されるとのご連絡をいただいた。詳細は公開解禁となってからお知らせいたします。この原稿を書いている途中に震災が起き、ほとんど精神的な余裕の無いまま仕上げたものだけに、公開を迎えることができたのには感慨もひとしお。
(2011.12.19.)


江戸期の豪商が記した火事の事後処理の史料を見たことがある。見舞としてもらった物品が手拭い、タクワンの一本まで几帳面に記されている。小まめだなあ、と思ったが、いや、これはお返しの時に絶対必要なデータだ、と気付いた。もらった品物に相応しいお返し。この気質が現代まで?と思えた。
(2011.12.20.)


近世の生活で、互助の精神はかなり徹底されていたが、それは無償の物資提供ではない。貰った物に対して、次の災害時に見合った物を送り返す。家の格や経済力などが、そこには如実に反映される。このような災害時の贈答文化意識が、地域社会に残っているとしたら、ボラの実践にも注意が必要かも。
(2011.12.20.)


南三陸ではアイスバーンや圧雪のことを「たっぺ」というのか。仙塩地区では聞かない言葉かも。類似語としては、つららのことを「たろんぴ」または「たろんぺ」と言うが、これは古語の「垂氷」(たるひ)からきたのは明らか。たっぺもここからかな?…
(2011.12.20.)


本郷にて調査


今日、見た貴重資料。医学史では、鶚軒文庫から数点。曲直瀬道三の自筆写本と、養安院(曲直瀬氏)旧蔵の朝鮮版本養生書など。


他に見た貴重書。田中芳夫関係資料。江戸時代は本草書数点、明治初期は全国産物調査報告資料など。三陸沿岸の海産物の報告資料を見つけたので、この情報は復興関係で使えそう。例えば、浜ごとの昆布の特徴や方言が記されている。


今日見た貴重書。好問堂の蔵書目録。軍学書と暦算書を多数所蔵していたことは意外だった。しかも、蘭学系の書籍がかなり多い。それから、榊原芳野の明治初期の蔵書目録。和算書の『因帰算歌』を持っていたかとに仰天した。さすがである。 ( ̄人 ̄)  
(2011.12.20.)


国立国会図書館の電子展示「江戸の数学」( http://t.co/hwIfBfN8 )が公開されました。第1部1~6章と第2部を執筆いたしました。今回、電子展示としては初公開の和算資料も数点あります。ご笑覧、ご批正をいただければ幸いです。
(2011.12.21.)


本日最後の授業。。 今日は幕末の電信の話。将軍上覧の際に最初に打っモールス信号の日本文は「天地和合/鶴亀/和歌ノ浦/ 梅松竹/今日無事/隅田川/萬歳楽」だったらしい。しかし肝心の将軍は、同時に行われた大砲発射の方に夢中だったとか。あ、勝海舟も電信の研究させられてたんですよ、その時
(2011.12.21.)


同姓同名


作家の佐藤賢一氏と私は同い年なので、OPACでは「小説家の佐藤さんは「佐藤賢一(1968-)」、私の方は「佐藤賢一(1968- 科学史)」と」なっていることを展示でお世話になった国会図書館の方に教えられました。


作家の佐藤賢一氏が科学史ネタで小説を書かれたら、OPACの情報はさらに混乱するだろうなあ。。。。


ついでに、「佐藤賢一」さんという著者は、他に4人ほどいらっしゃるようです。(OPAC情報) うーむ。。。。 了
(2011.12.26.)


所蔵史料から


江戸の年末年始(1) http://t.co/zkyBNuNK


江戸の年末年始(2) この時期の様子を描いた一冊なんです。 http://t.co/vYgDkiIk  


江戸の年末年始(3) http://t.co/XtVdUhmk


江戸の年末年始(4) せわしない時期ですので、少しでも和んでいただければ。 http://t.co/y00detnY


江戸の年末年始(5) http://t.co/s102Uayy


江戸の年末年始(6) http://t.co/QyVASPjg


江戸の年末年始(7) http://t.co/ZtPocBcf


江戸の年末年始(8) http://t.co/UAoPE9Kp


江戸の年末年始(9) http://t.co/Gl8pnszL


江戸の年末年始(10) http://t.co/kfVbLpNo


江戸の年末年始(11) http://t.co/HU1Apr2O のんびり眺めてみてください。。。


江戸の年末年始(12) http://t.co/adLF05tv  もう少しおつきあいを。。。


江戸の年末年始(13) http://t.co/fCu69QBQ  これ、どこかの正月行事でしょうかね?。。。


江戸の年末年始(14) http://t.co/d4jlSXoe まさに冬、という光景です。


江戸の年末年始(15) http://t.co/jO30om3l
http://t.co/CD4KBukw


地域によっては正月の飾り物について、「一夜飾り」(大晦日に飾ること)を嫌うようですが、うちの実家ではまさに大晦日の夕方にしめ縄その他を飾っているなあ。。。 これについてはまだ周辺の状況を調べたことがなかったけど。 
(2011.12.30.)


関孝和あれこれ


来年こそは『関孝和全集』の原稿を仕上げねば、と決意だけは固く。締切を4年もオーバーしているので、岩波書店さんにも申し訳が立たなくなってきている。さすがに、京大M先生のように、授業が終って教室を出たら岩波の編集者が待ち構えていた、という伝説を凌駕するつもりは今のところ、ない。


数学者・関孝和は有名だけれども、歴史的な実像が今一つ描けない人物。(要は、史料がほとんど無い。)著作と言われるものも、よくよく調べると、講義録や後世の編纂である可能性が高いものばかり。文献学としての証拠を挙げる作業は、正直しんどい。。でもまあ、何とか固めよう。


関孝和の自筆と言われる免許状(巻物)が日本学士院にあって、国の重要文化財になっているが、これは関本人の物ではないと結論付けた。なぜなら「関孝和」の名前の後ろが破り取られているから。巻物が鼠や虫に食われて外側から破損するのは自然だが、内側だけ破れているのはいかにも不自然だろう。。。


ツイッターの中だけでなく、現実の社会でも、来年はさらに動いていかねばならない課題が山積である。気負わずやっていこう。……あ、『関孝和全集』、間に合うのか。。。 
(2011.12.31.)


http://t.co/ZoTtyhgF おめでたい絵を1つ。来年の幸せを願い。『宝暦大雑書万々歳』より。
(2011.12.31.)


芦東山記念館へ


さて、明日(いや、既に今日だ)の新幹線は、7時40分。まずは一関に行き、旧大東町の芦東山記念館で和算書の調査。記念館で「地域の宝」展示をされるとのことで、その助っ人調査。この一関市内S地区に保存されていた和算史料は思い出深い。


2007年、NHKのサイエンス・ゼロにチョイ役で出演した時、製作サイドから「資料調査現場を撮影したい」と頼まれ、急な取材ができて、いかにも日本の原風景がぴったりな、このS地区の史料を選び、同行取材してもらった。(この時の放映を私は見ていない。さすがに自分の姿は情けないので)


宮城県北から岩手県南にかかる地域は、江戸時代から明治にかけて、和算(算数)教育がものすごい密度で普及していた。ある町史編纂室の方から、「新しく調査したお宅からは、必ず和算書が出てきて困ってるんです。。。」と言われたこともある。私もしばらく、メシの種が尽きない。


宮沢賢治の作品のあちこちに「技師」という言葉が出てくる。今なら「エンジニア」という言葉になるのだろう。東北の山野を見る度に、ここで数十年前に活動した農林技師や鉄道技師たちの姿を思い浮かべる。賢治の描いた東北の風土と技師たちは、不思議な一体感を醸し出している。


今日の資料調査は芦東山記念館で。東山はこの地出身の近世中期の儒者。三宅尚斎・室鳩巣に師事。この時代にあって、刑罰は教育刑であるべきとの観点から死刑廃止を『無刑録』で主張。しかもこれを書いた東山本人は、藩校内での身分制撤廃改革案を藩主に訴えて怒りを買い、幽閉中の「罪人」であった。。


芦東山の無茶ぶりは、幽閉中の身でありながら「研究したいから京都行かせてくれ!」みたいな手紙を平気で藩上層部に対して出しているところ。仙台藩というのはこの当時、不思議なくらい学者に対しておおらかだったんだなあと思う。他藩だったらありえない措置。で、東山、漸く20年目にして幽閉解除。


東山は近隣住民から絶大な支持を得ていたらしい。あちこちに彼の足跡が残されている。彼の死後もその余沢は続く。あの高山彦九郎も、諸国行脚の途中、わざわざ遠回りをして芦東山の旧宅を訪問し、その肖像画などを拝している。(『高山彦九郎日記』第三巻にその記載あり。)これはこれですごい話だ。


芦東山旧宅を訪れたもう一人の著名人は近代郵便制度の確立者・前島密。幕末、彼は太平洋側から函館に向かう途中、財布を落としてしまい、旅費に窮してしまった。その時、「芦東山宅周辺は学問好きが多いから、何か教えれば旅費ぐらい稼げるだろう」と勧める人がいて、ここに行く決心をした。


さて、芦東山宅に着いた前島だったが、ちょうど春先で農繁期。誰も学問など教わりに来ない。さらに困った彼は、東山宅から先にある内野地区に赴き、そこで製鉄をしていた仙台藩関係者に会い、自分が持っていた蒸気機関の関係絵図を見せる。その見せ賃として旅費をゲットした彼は、無事函館に到着。


このエピソードがご縁で、いまだに芦東山と前島密のご子孫は、交流をされているとのことです。


芦東山記念館の近くを流れるのは「砂鉄川」。その名の通り、砂鉄がどっさり流れてくる。近世期、この上流には砂鉄を利用した製鉄施設があったとのこと。そう、金属と言えば、この地域は古代から砂金の取れることで有名。一関市内には、今でも砂金の取れる川筋があるとのこと。え?場所?それは秘密。


今日調査した和算史料。幕末~大正期、東磐井から気仙地方を活動範囲とした和算家菅原氏の残した史料。彼は、一関の著名な和算家・千葉胤秀の孫弟子。各地の門人の間を訪問教授して歩いた和算家である。現在の宮古市から気仙沼市あたりの範囲で、1400人近くの門人を教えていたとの記録を見つけた。


一関から気仙にまたがる地域は、なんと、昭和初期になっても和算塾が残っていた地域。なぜそんな前近代的で、古くさい数学がこの地域で残ったのか?理由は簡単。当時の義務教育は小学校だけなので、もっと学びたい知識欲のある農民・漁民は繁忙期を避けて、数学(和算)を和算塾で学んでいたのである。


明治以後の菅原が残した和算史料を見ると面白い。関孝和以来の和算的な数式の羅列の直後に、「西洋度量衡」としてヤード・ポンド法やメートル法の記載がある。かと思うと、世界地図の貼り込みやアルファベットの一覧、さらにはハングル(!!)までメモしてる。因みに、数学のレベルは大学初年級程度。


一関市博物館には、関流の勉強会(まあ、和算塾ですな)で昭和初期に実施された免許授与式の記念写真が保存されています。授与者は紋付き袴で、なかなかいかめしい雰囲気の写真です。 
(2012.01.09.)


地域の教育史


戦前の各地域での教育体制と和算の残存状況に関しては、和算教育のそれまでの地域での浸透状態、明治になってからの地域の経済状態(就学率)、他の教育機会の有無、知識の必要度の有無、等々が関わっていることは確か。他に教育機関が無くても、漢方医療系の塾が地域に残ったケースはないだろうな。

漢方医療の場合、国の制度との関連(西洋医学以外医師免許を与えない方針)、医学・医療そのものが職業訓練を目指さないで地域教育の一部として成立したかどうか。これらの点は、少なくとも和算の場合と条件が違っていたと思う。一般に医学塾は都会集中、高等教育機関化する傾向があったように見える。


国の制度・権力からはみ出たところで再生産されていた和算の知識というのは、ベタな言い方としての知識社会学ネタになるのかなあ。ただ、そこで教えられていた和算の内容が、国の制度、社会習慣を反映していた可能性は高い。 
(2012.01.10.)


ある日の講義


本日、二つ目の講義終了。元H社で半導体の研究員をされていた社会人学生さんを前にして、日本の戦後の情報産業の推移を話すという、自分で埋めた地雷を踏んで歩くような一時間がやっと終わった。キルビー特許って、サブマリン特許だったのね。。。。 汗


いやあ、まさに現代史の証言を伺える貴重な時間で、私の方が教わりました。。。。


これから、午後の最後の講義。幕末の西南雄藩(佐賀・長州・薩摩)の技術移転について話す。残念ながら、土佐藩にはほとんど事例がない。。。 話すといっても、自分が撮ってきた遺跡の写真をネタにして展開するわけですが。 
(2012.01.18.)


ふと思ったこと。歴史的に写真が出現したことで、俳句に現れる語感や語調は何かしら変化を受けたのかな。。。
(2012.01.12.)


今日は研究会で、ある短大の紀要論文で、戦後まもなくぐらいに出た一本の存在を教えていただいた。かなり古い測量道具・見盤の実地調査報告書。もし実物が現存していて、正確な年代確定ができば、もしかしたら江戸の測量術史はまた更新されるかも。。。
(2012.01.22.)


長崎にもしばらく行ってないなあ。。。 洋学研究の定番コースとしては、長崎 → 武雄 → 佐賀 → 熊本 → 鹿児島 と巡回・放浪したいところ。あ、平戸もだ。
(2012.01.23.)


ある日の講義


2つめの講義終了。。。お恥ずかしい限りですが、大学院博士課程の教養講義で、藤垣・廣野本を参照しつつ科学コミュニケーションネタを一席。しかも受講生の中にJSTに出向されていた方がいて、さらに冷や汗。でも「JSTのやっていた方針が今やっと納得できた」とのコメントを得て安堵。。。


学生が先ほど修論を提出し、ようやく、この一週間の怒濤の荒行が終わった。なかなかしんどかったなあ。それで、彼の修了後の行く先も何とかWの博士に決まり、こちらも安堵。さっき、合格結果が届いた模様。まあ、修論審査を通ってもらわねばどうしようもないが。


本日の講義終了。やれやれ。修論も出して、博士課程進学も決めたうちの学生のために今日はこれから軽く飲みに。それにしても、うちのような個人研究室、しかも理工系大学の傍系研究室に卒論から修論まで在籍し、しかも他大の博士課程に行ってくれるなんて、初めての経験だな。こちらも勉強になった。 
(2012.01.25.)


購入史料


これから本郷に向けて移動。本屋と史料編纂所へ。また何か出てきそうな感じ。


今日も本屋で数点、資料を入手。幕末の古地図3点。江戸近郊図・銅版全国図・彩色木版全国図。彩色図には貼付け折込みで蝦夷地・樺太・千島列島が描かれていた。


(購入資料)幕末の刊本で、大砲の砲弾の投擲表。和算書、貞亨4年版『改算記綱目』。これには関孝和に言及した序文が付いている。暦学書、正保版『ホキ抄』。安倍晴明が書いたとされるものだが、もとより伝説。この本を見つけたら必ず買うことにしているので購入。 
(2012.01.27.)


某所で見つけた天保10年旧暦8月1日の金環食の観測記録(コピー)です。 http://t.co/8KLFenfz
(2012.01.27.)


漁村と和算


そういえば、江戸時代の和算書が取り扱っていた射程を考えると、「地方算」(じかたざん)として農村経営を前提にした内容が圧倒的に多く、漁村経営に関わる内容がほとんど無い。農業(林業も)社会優位の発想がこういう所にも反映されているんだろうな。


近世の農村経営について更に思いついたこと。近世の経世家として著名な人たちは漁村を話題にしたかどうか。今手元に全集がないので著作タイトルだけ確認しただけでも、大蔵永常や二宮尊徳は農村だけを話題にしていたようである。別の側面では『農書』の出版は多数あったが『漁書』の類はどうだろうか?


色々発想が飛んでいるが、最近、近世の学術史で話題の「在村」という言葉。「在村蘭学」、「在村儒学」、「在村文化」など。これらも農村文化のことが無意識の内に議論の基軸になっているとしたら、漁村も包含した視野を再構築する必要がありそう。但し商人の多い港町の状況は別に考えねばなるまい。


江戸時代の状況を考えると、交換手段として米を設定し、これを基軸として全ての価値観を決定しようとしていましたから、これを外れてしまう生産活動はどうしても軽視される、あるいは度外視される傾向は必然的にあったと思います。食糧確保と経済活動が特異な形でリンクしていた結果とも。


今日は、ふと疑問に思ったこと、「近世の漁村を対象にした和算書がない」ことを呟いたところ、多くの皆さんから貴重な情報、アイディアをいただき、本当にありがたかった。この方面から、自分なりに新しい歴史研究の枠組みが生まれそうな予感がしている。


どうしても農村社会の和算資料を見るだけの作業に慣れていたので、漁村への視点は盲点だった。それもこれも、何度か被災地沿岸部を歩いたことで気がつかされたものだと思う。こういう方面の歴史も探索しておけば、被災地復興の材料になるかもしれない。 
(2012.01.28 - 29.)


今日古本屋から届いた数冊。伊勢の稲垣定穀が本多利明の口授を受けつつ筆写したという奥書を持つ『渡海新法』(文化元年)。これは洋学史でびっくりするような由来。それから、天保年間の測量に関する巻物。全然知らない系列の写本で悩む。阿蘭陀流であるのは間違いないのだが。。。も少し検討しよう。
(2012.01.30.)


調査と史料


今日はこれから本郷で調査し、午後は岩波書店で関全集の編集委員会。ようやく、『括要算法』の読み下しと現代語訳を形にしたところ。まだまだ先は長いけど。


本郷での調査終了。大田南畝筆写の『薩摩国風土記』を見た。タイトルと中身は全然違い、島津領の国境番所・沿岸の遠見番所への指令通達書の集成だった。南葵文庫から東大へ。


この他に、田中芳男の収集資料もパラパラ見た。田中という男は、全くもって訳のわからない収集マニアの博物学者。幕末から大正まで、彼の目に触れて心動かされた印刷物が、100冊以上のスクラップブックにびっしりと貼込まれている。これは科研を取ってでも公刊したい資料群・宝の山。


田中芳男が手当たり次第に集めた資料が参考になりそうなのは、今回の震災関係資料の収集方針。個人が集めた資料群はこうなることを見越して、組織的に集める段取りを設計できそうである。田中資料のどの一冊を見ても感じるが、圧倒される雑多な資料の情報量。現代ならばアーカイブ化できる。


今日神田で買った写本は「町医者に付八丁堀同心留書」。題だけ見て医学史?と期待したのだが、中味は何と「18禁」指定に近く仰天。調べたら『藤岡屋日記』のこの記事( http://t.co/SbJPJaL3 )の元ネタ資料と判明!!こんな事取調べてたんだ、昔の同心。。。同情【閲覧注意】


いやあ、さっき紹介した写本は私費で購入しておいてよかった。これを科研費で買ってたら、後世、あらぬ疑いを持たれていたかも。。。というのは冗談。一方、公費で購入したのは、幕末と明治初期の測量術関連書。一点には江戸時代の測量道具が記載され、もう一点には「鉛筆」の使用法が説明されていた。


今日、古本屋で見た本のタイトル。明治19年刊行、『人肉質入裁判』。


これは何かと思ったら、シェークスピアの『ヴェニスの商人』の翻訳だった。挿絵に出てくる人たちが、全て日本人顔していることも笑えた。。。。


あ、そうそう、さっきのシェークスピアの翻訳。訳者名は書いてあったけど、「原著不明」と奥書にあった。。。。 ええっ、それでいいのか???? 
(2012.01.31.)


講義あれこれ


午後の講義終了。ちょっと一息。よく考えてみたら、科学史専攻を除いて、理工系大学院の博士課程学生に科学史や科学コミュニケーションを教えて良いという科目を担当している人間は、国内ではごくわずかなんだろうなあ。博士課程にまで教養科目を課しているコース自体が少ないわけだから。


先ほどの続き。大学院博士課程向けに科学史関連講義をすると、やはりリアクションが多様で新鮮で、こちらも非常に勉強になる。(元々冷や汗かきながらの講義。。。)イメージとしては、経済や国際情勢や教育制度の話題を振ると、学生が各々のバックグラウンドを当てはめた発言として返してくれること。 
(2012.02.01.)


昨日神田で購入した測量術の資料。早速今日、本屋さんから送っていただいた。あらためて見ると、江戸時代中期まで使われていた「規矩元器」の組み立て図。蔵書印として「沼田藩永井保固蔵」とあった。上野国の沼田藩かな。これがなぜ明治初期と思しき製図の説明資料と付随して出てきたのか。同一出所?
(2012.02.01.)


トンデモ医学


学部1・2年の時は理科Ⅱ類という所にいたのだけど、医学部志望者も同じクラスに何人かいた。誰とは言わないが、その中にトンデモ医療を信奉してる人がいて驚いた。何百人かに一人の東大生は、トンデモを信じつつあれだけの受験を掻い潜って合格できるんだ、と変な所に感心してしまった。


功なり名をとげてから、トンデモに走る人もいるから、まあ、一概に言えるわけではないのだが。 
(2012.02.03.)


歌枕


歌枕に読み込まれて以来、東北はいつだって、遠くになければならない場所だったのだと思う。中央から。


歌枕といえば、江戸時代、末の松山とか野田の玉川の所在地を巡って、仙台藩じゃなくて盛岡藩の中にすべてあるんだ!と主張していた盛岡の学者の本があったはず。タイトル、思い出せない。別にいいじゃん、どこにあっても、と思ったけど。 
(2012.02.03.)


節分



http://t.co/JkV6a7Tb


(前ツイート) 和算書『勘者御伽双紙』(中根彦循・1743年)に描かれた節分の風景。「ことしは四十三くはねはならぬやくじゃ」と男。「もはやはがいたうてまめがくへぬ」と老人。http://t.co/RmQG9REe  
(2012.02.03.)


午前中は、関孝和著と言われている、ある作品の写本の系統を推定してみた。年紀の有無と文字の異同の前後関係を勘案すると、どうやら関が亡くなった後に作成された著作である可能性が俄然高くなった。ありゃりゃ。。。
(2012.02.04.)


調査史料


今日はこれから本郷で調査。午後は、学生の修論発表会。


今日も田中芳男のスクラップブック、『捃拾帖』を見てきた。幕末・明治初期の庶民資料から政府内部資料まで、一つにまとめてる資料群はこれぐらいだろう。何とかして、皆で使える形で公開できないものかなあ。アイディアはあるのだが、問題は資金だな。科研を出すか。


今日見た、田中芳男のスクラップブックの貼込資料あれこれ。(明治初期)青森県産ブランデーのラベル、陸前雄勝産硯の販売所ラベル、山梨産白ワインのラベル。上野公園開設時の軍楽隊(陸軍・海軍別々の)演奏プログラム。浜離宮午餐会のメニュー。


(田中資料)大久保利通の50日法要の際の粗品進呈状。新橋駅開業時の政府関係者の行進隊列図。大木喬任邸での晩餐会招待状。田中宛・佐野常民発信電報、などなど。一点一点は全国探せばでこかにありそうな資料であるが、これだけの物を保存しておいた田中という男は、まさに化け物である。 
(2012.02.07.)

凡例


・2011年7月28日~2011年12月12日までの間にTwitterで呟いた、歴史学、科学史、大学での講義といった、アカデミックに関わる話題をまとめたもの。

・末尾の数字は呟いた日付。

・個人的なメモがほとんどの内容。出典は必要最低限の文献名のみを提示している場合が多い。

・誤字脱字、若干の訂正を施した箇所がある。



本文


富山県内での資料調査


これから火薬の調査。


今 道の駅「たいら」 郷土資料館で調査。 すごいなあ、ここの技術史関連展示。硝石、養蚕、和紙、農林一号。明日も帰りにまた寄ろう~ 合宿調査もよさそう
(2011.07.28.)


【東大科哲と南三陸町の歴史的因縁】宮城県図書館で調べて分かったこと。遣米使節の一員だった仙台藩士・玉虫左太夫が戊辰戦争の時に捕えられた場所が今の南三陸町。彼はこの地で塩田開発を推進しようとしていた。この玉虫のひ孫が、科哲の創設者、玉虫文一先生。
(2011.07.30.)


夕方、南三陸町から足を伸ばして宮城県旧東和町内に「後藤寿庵の碑」を探す。田んぼと里山をうろうろ歩いたがだめだった。30cmにも満たない石に屋根掛けしたのをやっと見つけたが、真偽の確証がない。この後藤氏は、江戸時代初期のキリシタン。治水などに功績。えてしてキリシタン関係遺跡は不明朗な物が多いので厄介…
(2011.08.16.)


本郷にて調査


調布着。今日は一仕事して本郷の編纂所で地図調査。都内は暑そう…


今日見た地図の中にマテオ・リッチ『坤輿万国全図』の軸装した写しが出てきた。残念ながら半分のみ残存。比較的初期の特徴を残しているものと判断。二時間ほど眺めていた。 
(2011.08.24.)


今日は遠方からお客様。うちの部屋の本を見ていかれて、色々雑談。本棚を探りながら話をすると、「しまった!こんな本もあったか」、と思い出すので有益。というよりも、しっかり整理しとけ、自分。
(2011.08.25.)


十三湖の中世史料


十三湖の歴史民俗資料館着


「奥州十三之図」(慶安元年極月/市立函館図書館蔵) これは後日要チェック


この資料館は中世史・考古のファンにはたまらないだろうなあ。展示品は一級品ばかり。さすが貿易港の大遺跡。多賀城などよりも面白い。東北一かも(^-^)  
(2011.09.16.)


弘前市立図書館にて


昨日の午後は、事前予約も無しに弘前市立図書館の調査室に飛び込んだ。津軽地方の郷土史や科学技術史関係資料に関する最新情報を集めるため。自分にとっては初めて眺める地域の情報だったので、例の如く1回目は偵察のつもりできたのだが、事態は思わぬ方向へ展開した…


調査室に入った途端、司書の方と目が合い「ここは初めてなんですが…」と挨拶すると、「どうぞ、どうぞ~」と気さくな方。まず目録類の確認。「近世関係はこれです」とカウンター備付けのものまでドサリと出していただいた!それで、「和算と測量が専門なんです」と自己紹介すると、…


「じゃ、乳井貢はご存じ?」と司書さん。乳井は津軽藩家老で、和算・測量にも造詣の深い近世後半の人物。むしろ思想家として有名。彼の最新研究を探すのが今回の目的の1つ。で、「もちろん」と答えると、司書さん「先日乳井の和算資料読んだけど、サッパリわかんなくて」と仰天発言…


たしかここには乳井の子孫が寄贈した資料が何点かあったはず…とその程度の理解で今回は来た。それで、司書さんも和算や測量関係の資料を知っていたとなると話は早かった。何と次の瞬間、司書さんは書庫に入って行かれ、乳井関係資料を一抱え分持って戻られ、ドサリと出して頂いた。


乳井関係資料はそれで全貌を把握。関流和算ではなく、儒者が陥った術数的算術に傾斜していたことを確認。(面白いことは面白いのです。)それで、次のターゲットに探りを。「津軽藩の絵図類もここでお持ちですよね?弘前大学の羽賀先生が戦後まもなく研究されてたんですが…」と振ると…


「絵図ならこういう参考書が…」と出されたのが、東大出版会の『絵図学入門』(2011年)!!!これ、私が2章分寄稿した本(^_^;) で、さらに話は早かった。もちろん司書さんも私の素性(?)にはビックリ。


そこで、自分が書いた部分を示して、「この津軽藩士・金沢勘右衛門を調べたいんですよ」と話すと、司書さんが即座に検索をかけてくれて、関係資料を4点ほど確認。これも出して頂いた。何と絵図に関係文書もくっついていた!!これは1680年代の絵図関係資料としては奇跡に近い。


資料の出てくる間、目録を確認。そこでまた仰天。『規矩元抄』がここにある!!この資料、5月の科学史学会で自分が紹介したまさにその本。津軽の地元から出てきたとなるとこれは貴重なはず、と直観が働きこれも請求。予想は大当たり。年紀は無いものの、厚手の雁皮紙に書かれた伝書…


震える手で、出された『規矩元抄』をめくると、この時代の測量術の様子を伝えるまさに完全本。5月には分からなかったミッシング・リンクがそこにあった。オランダから日本に伝わった測量術がどのようにして日本に受け入れられたのかを示す資料であった。感無量。偶然の導きに感謝。


わずか1時間半の調査で10月の学会発表のネタは決まった。(^_^;)追加調査も必要なので、10月にまた弘前に来なければダメだな… 資料との出会いはこんな感じの偶然の連鎖。もし別の司書さんのシフト時間だったら、と思うと不思議である。感謝の連続の調査でした。
(2011.09.17.)


一関市内探訪


一関駅前の大槻三賢人像。一関は仙台藩支藩田村家の城下町。和算と蘭学で有名。蘭学の巨人・大槻玄沢がここの出身。子が磐渓、孫が文彦。これが三賢人。 http://t.co/YTJn95BB


大槻三賢人略解説。玄沢は杉田玄白の弟子。多くの業績があるが医学用語の「腺」を考案したのは一例。磐渓は奥羽越列藩同盟の立役者。文彦は日本初の近代国語辞書『言海』を編纂。


一関市内運動公園のふもとにある祥雲寺。若き玄沢を見出だした一関藩医・建部清庵、『算法新書』の著者・千葉胤秀、玄沢門人・吉川氏の墓所である。だがこの案内だと見えない… もったいない http://t.co/2VcgqzvN


玄沢門人、吉川良雄の記念碑を撮影。彼はオランダ文字を見やすくまとめた一枚刷を刊行。『蘭学ハイケイ』(1793年)。オランダ語が普通に流通させられるメディアがあったわけです。この記念碑は彼の一枚刷を銅版に起こして子孫の方が建立。 http://t.co/xGpumVR1


豊吉の墓。天明年間に一関の医師たちが死体解剖したが、死体は刑死した豊吉のもの。罪人だが、解剖に貢献したことと供養の意味で墓が建てられた。バス停八幡の側。医の倫理を考えさせられる遺跡。無縁塔が半壊。 http://t.co/KksCsboO


和算家・千葉胤秀の墓所。完全に倒壊してる… (;o;)4月の余震で倒れたか?無惨だ… http://t.co/4D6r41Xz


一関はともかく年中餅をたべる。何せ、正月七日の七草粥にまで餅を入れる!たぶん昔は毎週一度は餅… 豊かな生活を送ってたんだなあ。写真は餅本膳。 http://t.co/NlBOM0Xq  
(2011.09.17.)


芦東山記念館


旧大東町の芦東山記念館へ。江戸時代中期の仙台藩の学者。私も好きな男。刑罰は教育刑であるべきで、死刑廃止を唱えた。「刑は刑無きを期す」は彼の言葉。 http://t.co/HvKYSNsU


芦東山は室鳩巣に託されて刑法を研究。反骨の人で、藩校教育に家柄の上下を撤廃するよう藩主に上申。罰として20年以上幽閉される。つまり、当時の罪人が刑罰の理想を説いたのである。写真は記念館。 http://t.co/gXG52XoU


車を走らせれば分かるが芦東山の出たこの地域は、山と水田が連なる田舎である。ここに限らず、江戸時代の日本の田舎は、なぜこんな場所に最高の知性が生まれたのか、と不思議に思わせられる所ばかりである。現代はどうか?写真は記念館からの眺め http://t.co/CGSBH6ZC   
(2011.09.17.)


南三陸町の津波被災史料


おはようございます。さっき4時に寝て、ボチボチ起きました。今日は、昨日南三陸町でお預かりした資料類を大学に搬入します。乾燥・一次処置・分別を順次していかないと。


昨日は、南三陸町のUさんのご紹介で、Mさんのお宅の文化財レスキュー作業をさせていただいた。主として明治から戦前の書籍、文書をお預かりした。津波に洗われたまま湿った資料の処置から必要。地域の教育や習慣を知るうえで貴重な資料。和算の綴じ込みも二点ほど確認。


解体予定の納屋も視認調査。明治の建築。二階に上がり、柱の墨書を見つけて仰天した。「明治廿九年旧五月五日大海嘯」とある!これは明治の津波の貴重な証言…この一行と出会うための運命だったのかと思い、涙が出た。Mさんも初めて気付いたとのことで、この柱の保存をお願いした。
(2011.09.19.)


研究者を目指す人というのは、「共感される少数派」であることを心がけるべきなのかも。批判されることも、共感を受けてこそ。
(2011.09.28.)


古書購入


半時ほど、古本屋の店番のおかみさんと世間話しながら、和本を探索。震災の後はさっぱり商売にならなくてねえ、という愚痴に始まり、業界の今の様子などを聞きつつ、掘り出し物を数点確保。一部は今日支払い、残りは冬のボーナスで支払うべく、取り置きをしてもらう。


今日確保した資料は、例のごとく分野はてんでばらばら。測量術、仏書、農業書、海防論、算術書。一体何の研究をしているのか分からないラインナップ。数ヵ月前に取り置きしてもらって忘れたままの資料も支払いを済ませた。申し訳ない…  
(2011.09.28.)


松本市内にて:

  あかり博物館・山崎ます美さんのこと


長野の北部地域(北信)とあかりの関わり。この地域には江戸時代、2つの特産品があった。1つは菜種油。もう1つは、今のマッチのように使われていた「つけ木」。菜種油は食用と燃料として利用。つけ木は薄く削った木の板や棒に硫黄を付けて、火打ち石などで作った火種に着火させて使う。


【旅枕あんどん】あかり博物館の収蔵品で私が気にいっている一品がこれ。江戸時代に作られた箱形枕に、何と15の機能や小物がコンパクトに納まっている。(写真は絵葉書から)その機能とは… http://t.co/gmLUN3ME


…次のもの。手燭・毛抜き・剃刀・書状用紙・薬入れ・筆・物差し・枕当て・算盤・元結いのこより・蝋燭・鏡・お守り・さいころ・眼鏡(…なぜさいころが?遊び用?この凄まじいまでの収納力!)


【山崎ます美さんのこと】昨日、日本のあかり博物館に行って、また偶然ながら、しみじみよかったと思わせられることとなった。ミュージアムショップで見つけた一冊の本、山崎ます美遺稿集『燈火・民俗見聞』(ほおずき書籍・2006年)のことである。この本を購入したのにはわけがある。


この本を書かれた山崎さんは、あかり博物館の初代学芸員。ほんの一回だけ、知人を通じてお会いしたことがある。2004年、お亡くなりになる半年前のことだった。長野の技術史・民俗学関係で共同研究をしようという打ち合わせだったが、実はその頃山崎さんは闘病最中であった。


著者略歴「昭和40年長野県小布施町に生まれる。短大卒業後民間企業に就職するが学芸員の夢を捨てきれずに通信教育で資格を取得。高井鴻山記念館勤務を経て平成2年より…あかり博物館学芸員となる。「あかり研究」のスペシャリストとして活躍するも平成17年3月39歳の若さで逝去」


この一冊は本文282頁、館報・附録148頁の堂々たるもの。日本のあかりとその民俗に関わる事項が詳細にまとめられている。よくぞここまで調査、執筆されたものと、今頃になって山崎さんの偉業に頭を垂れた次第である。附録の博物館ニュースには山崎さんの手書き文字編集もあり、涙。


以前ここを訪れた時に、この遺稿集は無かったから、昨日、在庫がちょうど出ていたのであろう。幸運であった。「アッ、山崎さんの…」と呟いたら、カウンターの学芸員の方が「山崎のことをご存じで? …それは本当にありがとうございました。彼女も喜ぶでしょう」とお礼を言われた。
(2011.09.30.)


遠山霜月祭


長野県飯田市内、遠山郷の霜月祭は各集落ごとの神社で行われる、冬至の湯立神楽。冬至は生命復活を象徴する時期。写真は、上村伝承館の天伯神の装束。 http://t.co/diZTK8tg


湯立神楽は面を付けた神々の舞、そして大釜で沸かした湯を火の神・水の神が豪快に手ですくって皆にかける。祭の起源は鎌倉時代に遡るとも。鎌倉八幡宮の神事の類似もある。両部神道に依拠するが神主の歩き方が陰陽師と同じで驚いたし、二十八宿などの星座も祭られ、天文も関係ある。


戦前、この祭を本格的に紹介したのは、国学院の教授であった西角井正慶。珍しい苗字だが、大宮氷川神社の宮司の家系の方。びっくりしたのは、家族の出た中学校の校歌を作詞したのもこの人で、まさか遠山郷で大宮の人の名前を見るとは思わなかった。


広い遠山郷に点在する集落ごとに、神事を行う板敷き広間を備えた神社がある。祭は舞を中心として火をくべた竈の周りで一晩中続く。私はまだ現場を見ていないが、ビデオで見ただけでも不思議なトランス状態になりそうな舞とお囃子。


この祭では多様な面が用いられる。集落ごとに色・表情が異なる。和田の郷土資料館に200面以上のレプリカが展示されていて圧巻。能面とは違う独特の悲哀と郷愁を持つ面である。ただ地元の方に聞くと、後継者不足で祭の維持は大変になっているとのこと。


現在、地元で精力的に祭の調査をされているのは飯田市の学芸員の桜井弘人氏。私の知識も氏から教えられたもの。祭は観光客も見学できる所があり、臨時の宿泊所などもある。情報は飯田市のHPなどから。 
(2011.10.01.)


遠山氏のこと


遠山郷を中世から近世初期に領有していたのが遠山氏一族。だが、近世初期に改易されてしまう。だが生き延びた子孫は後に、歴史的な有名人を出す。そう、遠山の金さんです。


遠山氏の居城は現在の南信濃和田地区、龍淵寺敷地にあったらしい。その一角に平成2年に建てられたのが、郷土資料館。外観は隅櫓風。展示品は、何と遠山氏のご子孫から寄託された宝物の数々!飯田市街から50km車を走らせても一見の価値ある展示です。どんな物があるかというと…


…一部を紹介。甲冑、武具・慶長大判!・古伊万里、古九谷の陶器・漆器、青貝細工・狩野派屏風・徳川光圀(水戸黄門)、徳川斉昭(慶喜の父)の真筆・などが所狭しと。眺めるだけで一、二時間は堪能できます。歴史ファン、アンティークマニアにはお薦め。これがたったの300円! 
(2011.10.01.)


大学の講義あれこれ


講義終了。2、3ヶ月ぶりに90分を喋る。文学部学生が160人ぐらい。マイク無しの大声で話すので、健康には良いはず、と思っている。毎年、学生の感想で「先生はよく声が通りますね~」と何名か書いてくるが、昔から大声を出していたのでそれだけのこと。私語がほとんど無いので、やりやすい。


大学の講義でいつも悩むのは、「何を語るべきか」ではなく、「何を語らないか」の選別。こちらがすべてを語れば、学生はそれ以上自主的に調べない。しかも、彼・彼女たちが、話を聞いている間にこちらが語らなかったことを疑問として持てるよう誘導する話術が欲しい。


それで、学生の書くコメント用紙が参考になるわけだが、教師成り立ての頃は散々だった。話が伝わっていない、情報を盛り込みすぎて混乱させるなどの連続。最近になってようやく、学生の出してくる質問がこちらが意図する内容に接近するようになってきた。10年はかかったかな (^-^; 
(2011.10.13.)


そういえば、昔話として国文の市古貞次先生に聞いた所では、本郷の噴水付近に戦時中はキャンパスで暮らしていた先生たちがカボチャやサツマイモを植えていたらしい。国文法のA教授、ギリシア哲学のB教授たちが、朝に味噌汁の具となる野菜を交換していたのは情けなかったと、市古先生は言ってたな…
(2011.10.14.)


岡山古書探訪


岡山市を単独行動。シンフォニーホールの1階で、古本市をやっていたので迷わず没入。掘り出し物、数点。


明大内藤家文書研究会編「譜代藩の研究」、八木書店は、学生時代にコピーした思い出の一冊で。格安本に巡り会い、感動の涙と共に購入。和算家を数名召し抱えていた内藤藩の研究書。


一番の掘出物はこれ。大政翼賛会興亜局「蒋政権下に於ける暦書に表れた思想宣伝記事」他3冊の「暦法調査資料」パンフレット(昭和17~18年)。天文学史の解説資料で内一冊には、表紙に「秘」の文字が!すごいなあ、これ。 
(2011.10.22.)


午後の講義の予習。全くの専門外だけど、日本の幕末から明治初期の産業技術を語る回を設定。内田星美先生の総説はありがたい。惜しむらくは、内田先生が2005年に逝去されたこと。生前、もう少し機会を見てお話を伺っておくべきだったとつくづく悔やまれる。
(2011.10.26.)


昨日の仕事の残務処理をしに出勤中。それから学会機関誌の編集委員会へ行く予定。そういえば、震災以後、注の付いた文章を書けていないなあ… そろそろ元に戻せるかな。本も書けそうな気になってきた。
(2011.10.06.)


東大にて


震災で中断していた科研の図書館調査を再開するため、東大の総合図書館で打ち合わせ。来週から再び、近世科学史関係史料を調べ始める予定。自分の本職ってたしかこれだったんだけどね…


2年ぶりぐらいに行った東大の総合図書館のカウンターで、以前お世話になった方と4、5年ぶりぐらいにお会いした。「あらー、佐藤先生、ちょっとスリムになったんじゃな~い」と彼女におだてられて、ちょっと気分が明るくなった能天気な午後でした。 
(2011.11.10.)


東京古典籍会(オークション)


午前中は神田に行って、古典籍のオークション下見。花火資料はどうしようかなあ、と迷い中。本命は呟かないでおく。


オークション、2点入札(打合)終了。2点とも当たると破産かローン地獄に。でも入れてしまうんだなあ。因果なもので… 「先生の分野の本は、値段の予想が全然できないんだよね」と、業者さん。そりゃそうだろうなあ~ こちらの言い値が資料のその後の基準になる可能性が高い訳だから (^-^;


お市の方の手紙と言われる出品も見た。一紙を軸装したもの。素人目には紙質と筆は室町末かなあ、と見えた。肝腎の署名は、末尾一文字ただの「い」。文中の特定人物を呼び捨てにしているので、筆者をお市に推定したらしい、という声が会場で聞こえてきた。


入札はしなかったが目を引いた出品は「備前国上道郡各村絵図」1幅(大道寺忠筆・天保4年)一見して、精密測量して描いた村絵図であることが分かった。幕末では類例を見ない絵図。地域と時代から推測して、大道寺は和算家・小野光右衛門一派かもしれない。もう一度見に行こうかなあ 
(2011.11.11.)


落札品


先週末の古典籍オークション、入札した二点、共に落札した。それぞれ、落札希望価格の二番目の値段で落ちたので、それなりに競ったのだろう。とりあえず、財布は寒くなるが、気分的には安堵。


落札品、一点目は「大工計墨曲金之次第」。江戸時代初期の本、とカタログは記すが、紙と墨を見ると室町末の可能性もありそう。神社仏閣建築に必要な材木の寸法、木組みをまとめた写本。図は1つのみ。この手の本としては非常に古い貴重書。破格の安さで入手できた。


落札品二点目は「花火伝書」三種。写本、二冊と一軸。一冊には仕掛花火が説明されてるが、年紀の「寛文」は古すぎる気がする。面白いのは安永年間の秘伝巻物。打上げ花火の打ち上げ方を図入りで説明。手筒花火のような太い縄巻筒を俵に立て掛けて打ち上げたようである。この情報も貴重かも。 
(2011.11.17.)


與那覇潤先生との対話:

  『中国化する日本』について


佐藤) 先日は御著書『中国化する日本』をご恵贈たまわり、どうもありがとうございました。早速、一読いたしました。再読は、諸文献を引きつつさせていただくつもりです。再読をしたくなる通史に出会えたのは久々です。論旨明快、通底するコンセプトの斬新さに首肯する点が多くありました。


佐藤) 「中国化」と「江戸時代化」の理念をキーワードとし、諸々の歴史現象をその間の往復と見なすことで、従来の日本を取り巻く「鎖国」状況や「近代化」・「西洋化」の用語を軸とした歴史叙述をいったん解消して新しい視野を広げる可能性を得られたのではないかと思いました。


佐藤) 内容の点で。私のやっている近い分野である中国の科学技術史でも、山田慶兒氏などは宋・元代を中国史の転換点と見なしており、やはりそのあたりから「中国化」は完成に向かったのだろうな、と再確認いたしました。(山田『朱子の自然学』・『授時暦の道』)


佐藤)與那覇先生にぜひお伺いしたいのは、自分の専門(江戸時代の科学)に引きつけたお尋ねで恐縮ですが、江戸時代の人たちが海外からの眼差しをどのように受け止めていたのか、という点です。当時の人たちは「中国化」への志向を海外に求めていたのか否が気になりました。


佐藤) (連投陳謝)第四章では寛政改革を主として取り上げられていましたが、吉宗による享保の改革に対するコメントも是非取り上げていただきたい内容です。大庭脩氏の一連の研究が私のネタ元になのですが、江戸時代中期の将軍主導の「中国化」政策についての評価はいかがでしょう。


先生) ご紹介ありがとうございます。いまアクチュアルな問題への切り口になれるなら著者冥利、&「気分としての陽明学」の原典はむろん小島毅『近代日本の陽明学』です。また江戸時代についてのコメント、重い宿題をいただいたと感じておりまして、後日落ち着いてからお返事いたします!


佐藤)どうもありがとうございます。咄嗟の思い付きを並べたて、恐縮です。3.11以後の展望に及び、さらには被災地の写真を使って頂いたこと、本当に励まされる思いで読了いたしました。 (2011.11.24.)


先生) いえ、とんでもないです!実は、最初の草稿は震災前にできていたのですが、いま震災に触れないで出すわけにはいかないので、特に序論と結論を手直しするうち、むしろ「震災後だからこそ」こういう視点も必要なのではと思い始め…そんなものでもお役にたてるなら本当に幸甚です。


佐藤)そうでした、何度も校正されていらっしゃいましたね。今回の震災では、人間が完全に自然の中に放り込まれ、「自由」になった時に何が起こるのか、情け容赦無く見せつけられました。「中国化」の実証例だと、率直に思えました。


先生) 重ねて恐縮です。Anarchical Societyは普通は「国際社会」を指す比喩ですが、実はその縮図が(近世以降の)「中国社会」なのかもしれず、それを忌避し続けた日本もついに、内外両面から近い秩序に入って行きつつある、その最後の決定打が震災であったのかもと…


佐藤)同感ですね。秩序やコミュニティーといった概念の、日本人の理解が一気に流動化してしまった、あるいは反省の転機を迎えたような気がします。(2011.11.25.)


先生) …さて、いい加減 @ke_1sato 先生や @****** さんにいただいたご批判へのお返事もしたいのだが、Twitterは流れていくから数日前のものでも探し出すのが面倒である。「あ、あのツイートどこだっけ」を検索しやすくしてくれれば便利になるのだが…


先生)ご指摘ありがとうございます。拙著の弱点の一つは「江戸時代と儒学(=中国化思想)」の関係を単純化しすぎているところ。要は、江戸=「非」儒教社会論、を暴力的に大雑把に書いて「寛政異学の禁」以前を括っていますが、近年だと綱吉・白石あたりにも一つの小画期を見るようです


先生)渡辺浩先生の『日本政治思想史』だと、吉宗のブレーンを目指した荻生徂徠は反市場・反近代の封建主義者ですが、拙著の定義では「反中国化」に儒学を奉仕させた形になるのですよね。しかし、そっちこそが「真の聖人の道」だと考えていたことをどう捉えるか RT @ke_1sato 吉宗の享保の改革


先生)実は宮嶋博史先生にも『思想』2010年1月号で、拙著の元論文に対し「儒教には市場化に歯止めをかける農本主義的要素もあるのでは」とのご批判をいただいてます。で、これを網野=勝俣ラインに沿って捉え直したのが、 http://t.co/khnIIgcb の後段です。


佐藤)コメント、どうもありがとうございます!私も渡辺先生の論点から示唆を受け、江戸時代前半の儒教の位置付けはそのようなものとして科学史の文脈に当てはめて考えてきました。もう一つの役割は幕府の儀礼・権威を補強する役割としての儒学かな、とも。


佐藤)儀礼・権威の補強のために使われた中国化アイテムとしての儒教的発想は、天子の専権事項である「改暦」事業をいわゆる江戸の三改革(享保・寛政・天保)で実践したことが挙げられるのかな、とも考えています。あまり政治史や科学史で正面切って取上げられる主題ではないですが。


先生)なるほどです。ちょうど明日読む小島毅先生の信長論も暦の話、参考になります... RT @ke_1sato 儀礼・権威の補強のために使われた中国化アイテムとしての儒教的発想は、天子の専権事項である「改暦」事業をいわゆる江戸の三改革で実践したことが挙げられるのかな、とも考えています


佐藤)ともあれ、丁寧なコメント、どうもありがとうございました。皇国史観ならぬ「高校史観」の打破という一点でも、強烈なインパクトを持った一冊になるとあらためて実感いたしました。
(2011.11.28.)



読書:隠岐さや香
  『科学アカデミーと「有用な科学」』


今、隠岐さんの本を読んでいる。素朴な疑問をメモ。17世紀にイエズス会士たちがもたらしたアジア情報は、フランスの官僚社会と学者社会に影響は与えなかったのかな…


隠岐さん本。1680年代にフランス全土の地図作製令下る。江戸時代同時期の日本でも、オランダから導入した平板測量程度の技で、やはり全国図を作製。測地学と公権力の関わりの分岐点なんだな、東西で。


そうか、フランスの宮廷にも「御目見」できる人、できない人の区別があったのね。「ロイヤル・タッチ」の時は特別?あれは中世的な遺風?


知識や言説を扱うアカデミーすら「職能中間団体」として王権の許認可の元に置かれ、結局は知の公共性・公開性が担保された構造。科挙官僚知識人社会(中国)、武家・公家の認知外にあった知識人社会(江戸期)とはやはり違うなあ。


「君主への奉仕」と「公への奉仕」の分離・止揚・統合は重要だな。(アジアには希薄な発想かも…)産業・技術に関する言説は後者と親和性が高いわけか…


「有用性」は誰にとっての有用性を想定して、発言されているのか、その変遷も歴史性を帯びるのではないか?パトロン、王、国家、職人、「国民」、個人、人類?… (2011.12.03.)


アカデミーと連携、関与していくことになるフランスの技術系官僚組織の系譜についての基本的説明があっても良かったかも。江戸時代の日本だと、プロジェクト組織のトップが雇う「手代」たちが特殊技能の担い手になるのかな。


アカデミーの持っていた「文芸共和国」としての理念は、江戸時代の家元制に非常によく似ている。身分制の中に出現した平等空間。


18世紀までフランスも商業軽視、行政秘密主義。江戸もそうかな… 違いは、武家政権には法務官僚がいなかったこと、意外にも度量衡の単位系は拡散せず、少数種に集約されていたこと。


七年戦争がフランス技師界の状勢をいっぺんさせたわけか…(フランスはどこに負けたんだっけ?…)土木はだから「シビル・エンジニアリング」なんだよな。この辺の記述があれば、より親切かも。


イギリス的な政治算術と、会田安明の『算法政談』は似て非なるものかどうか。社会統計+合理的意思決定、と、一方は、和算+経世済民、という対比かな。


1740年代フランスのアジテーションに見る「学者」のありかたは「引きこもるな!」ということね、なるほど。中国の「聖人」と西欧の「哲人王」概念は何がどう違うのかなあ…


確実性・明証性を主軸とするエートスから生じた確率論や蓋然性の議論。18世紀の文脈で、確実性の枠からはみ出た不確実性の領域を、確実性の象徴たる数学で取り扱う事に抵抗は無かったのかどうか。


1789年の革命以後の科学技術方面での刷新内容が、旧体制期からの蓄積・萌芽によっていたことは自明かもしれないが重要。技術移転で改革を導いた明治維新とはこの点で対照的。


ダランベール派の貧乏物語、哀れ。。 (2011.12.03.)


隠岐さんの講演会@駒場、終了。盛会でした。時間超過して議論。歴史研究の王道を押さえ、課題設定が的確だと、発展的な議論や新しい課題も芋づる式に出てくるもの。後輩諸君にも良い指針になったと思います。さて、これから調布。
(2011.12.05.)


しまった!川村孫兵衛の墓って、石巻工業港のすぐ裏にあったのか!!
(2011.12.07.)


昨日は東京で自分が事務局をしている学会の大会があったので、どうしようもなかったが、同じ頃、神戸市博の勝盛さんの國華賞受賞記念祝賀会が京都で行われていた。電話でお祝いを申し上げた。いやあ、勝盛さんはやっぱりすごいなあ。
(2011.12.12.)


岡山訪問


今回の岡山訪問は、金光学園で中高生向けに和算の話をするため。金光教の教祖が若い頃に学問を習ったのが和算家の小野光衛門だったことから、こちらでは小野の和算資料や暦学資料が大事にされている。何度か調査させていただいたご縁で、今回の講演会。


江戸時代の国絵図などを見ると、村の描かれている密度が地域によって差が歴然としていて驚かされる。東北・九州はスカスカで、瀬戸内沿岸は村の記号がビッシリ描かれている。当時の経済、産業の実態をある程度反映しているんだろうなあ。

江戸時代の地域の流通圏や通婚圏は海路や水路を中心に考えないといけないんだろうな、と瀬戸内を歩く度に思わされる。


江戸時代の瀬戸内の産業といえば製塩を忘れてはいけないが、塩田跡地はほとんどが工業用地化されてコンビナートなんかになっちゃったんだよなあ~


近世初期の数十年の間、全国各地に相当な規模の城郭が多数建造された。それを支えた石材と労働力の確保(全国規模)の実態はどうだったんだろう?職人集団だけでは、とても無理じゃなかろうか?彼らはやはり監督的位置付けなのかな。


津山城の石垣の石材には、職人が自分の担当したことを示すマークがたまに残されていることを津山の教育委員会の方からお聞きした。職人集団ごとの分担やら支払いの際の取り決めがあったんだろうなあ。どこかに文書記録、残ってないかな。こういう技術史の情報って残りにくいんだよね。。。


岡山は市街地とお城付近の歴史的自然景観がよい具合にバランスを満たしていると思う。旭川の堤防に立って見る城の姿はいい感じ。この町で育つ子供たちは、生涯の記憶に残るいい思い出の場所を、たくさん持っているような気がする。 
(2011.12.12.)

凡例


・2011年7月25日~2012年3月11日の間に、呟いたよしなしごとをまとめたもの。

・特に文脈もなく、並べている。


本文


昼の花火と 見紛うほどの 淡く花散る 百日紅
(2011.07.25)


懸案の原稿を


何とか脱稿。全然文章になってない… 何かしら意味ある文を書こうにも、手が動かない。自分の中で言葉と言葉をつなぐ何かが切断されている感じ。震災直後より良くなっているとはいえ、学術的な文章を書くモードにまだ戻っていない自分に愕然。仕方ないやと自らに言い聞かせねば、多分心が壊れるなあと愚痴…

とはいえ、地震以前からまともな文章書けていたのか?と突っ込まれると逃げ場がないことは百も承知ではありますが… ただでさえ少なかったボキャブラリーがさらに貧弱になってしまった自覚はどうしようもないです。何か哀しい (>_<) 
(2011.0802.)


【入盆】 亡者至りなば 何をか哭かん 添いて微笑せん  放虎
(2011.08.09)


炎天下を3時間歩いたので、3時間寝ることにする。こんなのは、はるか昔に歩いた真夏のスペイン以来かも。あのとき、昼日中にマドリードの街中を歩いてたのは日本人観光客だけだったなあ。さすがにシエスタが必要だな、日本にも。
(2011.08.10.)


地震が起きた時間を、その時にいたコンビニで迎えた。追悼。調布は夕立が降り始めた。
(2011.08.11.)


武蔵野の面影を残すキャンパス内、今の時期は蝉が大合唱。今朝は早くも鳴き始めている。ということで、こちらもそろそろ帰るか… またも地震が起きぬよう、祈るしかない。そう、祈るしかないんだな。
(2011.08.12.)


過去というものはどこにも存在しないんだよ。 ふと
(2011.08.12.)


ナンデ コンナジダイニ ウマレアワセテ シマッタンダロウ? … ツナミノ アトニ ワラウ 狐火
(2011.08.14.)


たをやめて 闇に紅指す 小指かな
(2011.08.17.)


「雨夜の星」か… 心で見るものらしい
(2011.08.26.)


ひととせの なかばをすぎて さけあおる
(2011.09.11.)


どこぞへと ながるるままに 梅と百合
(2011.09.11.)


肩に落つ 涙の重さ 夏の海
(2011.09.11.)


なぜ会うた 灼けつく道の 百日紅
(2011.09.11.)


児を寝かせ 聞き入る虫に 秋の魂
(2011.09.11.)


腐るとも 我を抱きし 母の腕
(2011.09.11.)


このあいだ、京都で仕入れてきた話だけど、伝統的なお月見というのは、月そのものを見るのではなく、水に映した月を眺めるものらしいよ。
(2011.09.12.)


月を鏡に 満たす自我のみ
(2011.09.13.)


今日は11年11月11日という、誰が見ても分かりやすい日付だが、単純すぎてあまりにも芸が無い。もう既に過ぎた日付だが、その時に気付いていたかどうかという日付を紹介。1999年11月29日。これは数字がすべて奇数になる一番近い日付。次にこうなるのは3111年1月1日。
(2011.11.11.)


目覚むれば 八ヶ月目の 涙雨
(2011.11.11.)


しづなくて おだつ間も無く 月巡り
(2011.11.11.)


じじばばの 背中なでつつ 夢語り
(2011.11.11.)


涙とも 波ともつかぬ おぼろかな
(2011.11.11.)


時を置く 忘れがたくも そぶりのみ
(2011.11.11.)


仏かな 今ひとたびの 光る海
(2011.11.11.)


銭湯掃除


学生時代、目白台の銭湯で風呂掃除のバイトをしていたんだけど、そこは昔ながらの銭湯で、壮麗なペンキ絵が描かれてた。二年に一度ぐらい描き替えるのだが、一日で男湯・女湯を仕上げる技量はすごいなあと驚いた。あれも福島出身の方が描かれたのかなあ…

昭和一桁年代建築のその銭湯は、もうとんでもないレトロ。いつの時代の蛇口?という洗い場に、境目がまっさらになってしまった白いタイル張り。寺の本堂のような格子天井。そんで、お約束の瓶牛乳。閉店後の脱衣場で、バイト仲間と何度飲んだくれたことか。17、8年も前も昔の事。

夜の11時に銭湯は閉店したので、そこから掃除開始。女湯、男湯の順に掃除するが、クレンザーでポリッシャーかけてバケツでお湯かけて、たわしで蛇口洗って、という作業。慣れると40分ぐらいで終わる。お陰で自宅の風呂掃除は3分で終えられる。

そのバイトは一晩掃除して600円ぐらいになったと思う。いつそのバイト代をもらったかといえば、卒業するときにまとめてもらった。10万円ぐらいになったかな。金のためのバイトというよりも、とんでもない体験を色々させてもらった銭湯だった。

当時住んでいた目白台の学生寮は『ノルウェーの森』に出てきた寮のモデルだった所。だがその頃は、そんな雰囲気は微塵も無かった。で、銭湯掃除はこの寮の先輩に引っ張り込まれた。20年近く寮生が受け継いだ特別なバイトで、同期から3人が選ばれた。

デートした時、門限があったのは彼女ではなく私の方でした。銭湯掃除の当番日には10時30分にはスタンバイしなければならなかったので。携帯電話の無かった時代だから、ローテーションの調整は何かと大変でしたね。

その風呂屋の親父さん家族には、なにくれとなく可愛がってもらった。ともかくぶっ飛んだ家族で、若いもんの面倒見るのが大好きな親分肌の親父だった。残念ながら、2004年に亡くなられてしまい、恩返しできずじまいだった。

その風呂屋では、掃除後、学生には手の出ない食材の夜食を頂戴し、大層ありがたかった。今思えば、親父さん、なぜあれほどまでに若い奴等の面倒をみてくれたんだろう。教員になってから、自分も学生や後輩たちに同じようなことをしているが、とてもあの域には届かない。

なぜこんな思出話をしたかというと、銭湯のペンキ絵を描く職人さんが、もうじきいなくなってしまいそうだというニュースを見て、古い記憶が再生されてしまったから。このペンキ絵もそうだが、掃除後の帰り道に仰いだ深夜の東京の星空も忘れがたいものがある。 (2011.12.04.)


余談・銭湯掃除のアルバイトしていたとき、一年の中で、一番掃除するのが大変だったのが冬至の日のゆず湯の後。ゆずをそのまま湯船に入れてぷかぷか浮かべるんだけれども、数時間も経つと実が破裂して(誰かがつぶして…)、種と実がカオス状態になってしまう。その取り出し作業のしんどかったこと… 
(2011.12.22.)


東大法学部卒という生き方


50代後半、東大法学部卒のカルチャーを背負った方と昼間から今まで飲んでいたのだが、まあ、何というか、現代日本の秀才と言われた人たちがこの歳になるまでどのようにして日本の中枢を動かしてきて、どのような後半生を送ろうとしているのか、その一端を垣間見た飲み会だった。

どういう世代の人かと言うと、その方の同期にいたのが福島瑞穂と故・中川さん。

東大法学部のスーパーエリートはつい最近まで、学部卒で助手に採用されて、他の学部の博士論文に相当する助手論文を書いて、大体それが生涯の業績になる。東大法学部の教授に対して外部評価など誰ができるの?という発想が通常。(同じ東大卒でも、私は駒場という所の卒業なので、全く文化が違う…)

で、話を聞いたその方の世代になると、同期に大臣が二人もいたわけで、官僚になった同期組はその下に着く。だが決して、昔の話をすることはない。当然といえば当然だけど、でも、あらためて感心した。(小市民だなあ…)

法学部で民間の一流企業に就職したメンバーでも、社長・会長予備軍として残ってるのは、その方のクラスの中でもただ1人。昇進の途中、上司の尻ぬぐいで逮捕歴のある人もいたなあ、と思い出話。そんで、そういうときは、やはり東大法卒の検事に取り調べを受けるんだよね、と笑えないような笑い話。

因果関係が本当かどうか分からない、今日聞いた話。「俺たちの同期で、司法試験に現役合格したヤツがいてね。…そんで、裁判官になったんだけど、とてもじゃないけど常識を疑うような判決を連発したヤツがいたのよ。そのすぐ後に陪審員制度ができたけどね。」ウーム………

今日話をお聞きした方も、法学部の順当な路線からはドロップアウトされたので(失礼… m(_ _)m)、ルサンチマンと第三者的な視点を両方持たれていると思った。この現実を否定はできないので、一定数の官僚と企業人を社会に送り出している東大法学部の様相を歴史的に検証すべき必要性を感じた。

余談。「入学当初、日本を変えていかねば!と純粋に考えて法学部を目指してきた彼らが、どうして日本の進路を誤らせてしまう結果を招いてしまったんだろう?」と、今日、一緒に飲んだ方の発言。

余談2。先ほどからの東大法学部クラスタの話。「省庁の次官クラスに期待をまだ持っている我々の世代の連中はね、○○○大学の教授の口を紹介しても満足しないんだよね。露骨に態度で分かるし。。。」て、ふざけるな、と言いたかったが、グッと我慢 (^_^;) 
(2011.12.18.)


占いについて


前も言ったことだけど、自分達が滅びることを予言できなかったんだよ、マヤ暦って。。。 (^-^;

次はどんな占いネタが世間に登場するのかな~

だいたい、方角だろうが姓名判断だろうが血液型性格判断だろうが、今度の震災に遭ってその無意味さを感じ取れなかったとしたら、もう何を言ってもムダね。あ、血液型の知識は輸血の際には必要だね。

私は占いは端から信じないけど、占いの歴史研究は大事だと考えている。

最終判断に迷った時、コインを投げて裏表で決める行為は、占いではなく、判断する行為を外的な自然現象に委ねるという理解でいいのかな。。。 
(2011.12.23.)


昼も夜もそうなんだが、新宿駅を歩いていると自分がシロアリになってしまったような気分になる。シロアリには申し訳ないが…
(2011.12.25.)


餅つき


今日は、ふとしたご縁でこの12年くらいお世話になっている、東大のK先生のお宅の餅つきの手伝いに、息子を連れて、行ってきた。K先生と私の専門は全く縁が無いのだが、不思議な人脈の繋がりで、毎年年末の餅つきの時だけ、お邪魔している。

K先生のお宅は、都内では今時珍しく、年末に一族総出で、十数升分もの餅を用意される、昔ながらの餅つき。去年の餅つきが本当に昨日のように、あっという間に感じられたこの一年であったと、あらためて。お年寄りの皆様はお元気で何より。子供たちは確実に一年分大きくなっている。

さすがに臼と杵を使った餅つきは重労働で、餅の返しと杵つきを5回もやるとダウンする情けなさ。大災害の起きた一年であったが、こうした庶民の年中行事を続け、思いと気分を新たにすることの大事さを今更ながら考えさせられた半日だった。そうそう、2日後ぐらいに筋肉痛がお歳暮として届く予定です。 

(2011.12.25.)

普段の年末は、郷里の冬枯れした田畑の中を歩くと、本当に何もない、世界の情勢から隔絶された東北の片田舎を感じて心安らいだのだが、今年ばかりはそうもいくまい。あの大地が人々の意識の中にしっかりと刻み込まれている。よもやそんな事態になろうとは。
(2011.12.26.)


江戸の日暮。岩波書店からぶらぶらと歩き、大久保彦左衛門の屋敷の脇を通ってお茶の水へ。大学病院の病棟が夕日に染まる。
(2011.12.26.)


今、電車で座ってる席の隣の女性も宮城県出身らしく、もう一人に地震の様子を語られている。うん、このタイミングで、「そうだよね~」などと話しかけたらただの変態。。。 やめておこう <(_ _;)>
(2011.12.26.)


2011年大晦日


赤い柿の実だけが枝に電飾のように残る、大晦日の午後。

そういえば、関東で正月を迎えるのは、十数年ぶりかもしれない。。。

この30年近く大晦日の晩は決まって、一人部屋にこもり、じっと夜の闇を見つめていた。たいした理由もないのだが、一人になっているのがどうも落ち着くらしい。そして、この年を振りかえる。

ボロ俳句でもひねるか。。。

晦日に月は 見えねども 半ばの夢を 紡ぎ照らす夜

ひたひたと 水辺を歩む 童子らの 名を問いかけて 振り向けば おらず

山百合の 花弁ひとひら 海に消え

亡き友に 手向く梅ヶ枝 闇を背に

はなびらも なみだもおちて 海しずか

鎮魂という思いは

永遠に対するはかない人間の輝きなんだ

あと数分で一年が終る

そしてこの数分で人間は

すべての人間のことを思いやれる

それが鎮魂だ


(2011.12.31.)


地名ネタ


一関の人に聞いた話なんですが、宮城県北で有名な観光地・鬼首(おにこうべ)に対して、一関市内には鬼死骸(おにしがい)村があったそうです。これは昔、退治された鬼がいて、首の飛んでいった所が鬼首、胴体の残った所が鬼死骸なんだそうです。

正月なので、鬼退治ネタでした (^-^) 
(2012.01.01.)


桑茶


今年最初のお茶は、前回の南三陸町訪問の時に購入した桑茶を煎れました。舌の先に桑の葉の香りがしばし留まるような、不思議な感覚を味わえるお茶でした。おすすめ。

桑茶を二煎目。玉露のようにアミノ酸的な旨味ではない、丸みのあるお茶。南三陸町だけでなく、気仙沼周辺でも作っているのかな?ぬるめでも高温でもよさそう。もっとポピュラーになっていい特産品だと思いますよ、これ。 
(2012.01.01.)


そういえばさっき、うちの義理のばあさん、普通に雑煮の餅を食べてたな。。。家族としてはもっと注意してあげるべきだった。数えで102歳になる人だからなあ。
(2012.01.01.)


自分の書いた歴史研究書のネタが歴史小説のネタに転用され、さらにそれが映画化されて公開される。そんでもって、今電車内で、その主演俳優・女優の間柄を憶測する週刊誌記事の見出しを見ている。人生、不思議な縁で繋がっている。。。
(2012.01.07.)


何やかや、あれこれと、そこはかとない気分だけを漂わす夢から覚めれば、なすべきことに溢れる今宵、まよわず職場に泊まる。
(2012.01.17.)


雪の日に


んががが。雪降っとる。。。 今夜は10時ぐらいに帰るか。首都圏の鉄道は脆弱だからなあ。あ、でも、数年前の降雪の時、京王線は電車を止めず、終夜運転したという実績があるんだよね。とはいえ、JRが止まればおしまい。

明日の朝の楽しみは、沿道の真っ赤な実を付けたピラカンサスの枝に、白い雪が積もっているその紅白の姿を眺めること。て、今はそんな余裕なさそうかな。

今の雪の感じはボタ雪で、地面でビチャビチャになってます。降り加減は中ぐらい。気温は雪にしては生暖かい。さすが関東。

町に近い場所で、雪夜の楽しみは、雪明かりかな。宮城にいた頃は、七北田川の土手の上から雪原の向こうに見える仙台の街並みを眺めたもの。辺り一面がほの明るく、街が白い平原に浮かぶ姿は幻想的。 
(2012.01.23.)


中国茶


今向かいつつある護国寺は、学生時代の地下鉄の最寄り駅。江戸時代後期に、この駅のある音羽界隈には、経世家・和算家として有名な本田利明が住んでいた。彼の墓も同町内の桂林寺にあったのだが、関東大震災の時の区画整理で、行方不明になってしまったらしい。残念。

素敵なお茶会に参加させていただいた。年代ものの中国茶(黒茶)を煎れていただき、心ゆくまで堪能。自分が生まれるはるか前に作られた発酵茶を味わい、恐らくそれを作った中国の職人さんたちが世を去っていることに思いを馳せる。不思議な縁を感じさせるお茶。もちろん、絶品。また味わいたいです。 
(2012.01.29.)


子供の名前


絶対誰も読めないだろうと思って名付けた娘の名前が、後に、徳島県内の温泉名にあったことを知り呆然。ああ、あれから十数年が経過した。

ついでに、息子の名前も絶対読めないものにしてしまった。多分、姉・弟共に、歴史上初めて出現した名前である。親父の名前が、同姓同名があまりにも多いので、それ対する反動だったと自己分析する。 
(2012.02.01.)


日付が変わったところで、20000個目のツイート。一年経たずにここまできたか。。。
(2012.02.05.)


田舎の話


東京に出るまで都市近郊農村部に住んでいたから、農作業は何となく見ていた。被災地の農家の方の苦労も想像できるが、全く知識がないと想像すら無理だろうなあ。都会育ちの義母を初めて田舎に連れてった時、冬枯れした田圃を見て「ここは何ですか?」と聞いたものなあ。因みに彼女、理系の大学教授。

まあ、先ほどの話は、それぞれが見知っている世界についてはもっともらしいことを言えるけれども、知らない世界の方が圧倒的に多いことを忘れちゃいかんということも含んでいます、もちろん。 
(2012.02.07.)


思い起こせば、今の勤務先には2000年に着任したので、ちょうど一回り、12年分の講義を終えたことになる。さて、と我が身を振り返る。道半ばの思いは常に消えず。
(2012.02.10.)


初めての町で、特に行くあての無いときは、図書館をのぞくことにしている。職業柄、一番落ち着く場所だし、何より、町の情報と雰囲気が分かる。旅先で図書館、いいものですよ。
(2012.02.11.)


英国暮し


20代最後の年にケンブリッジに半年ほど滞在したのだが、そのわずかな期間に3度も、「お前は成人か?」とバブで聞かれた。アジア人は年よりも若く見られるとよく聞いていたけど、あのときに初めて実感した。。。え?今はただのおっさんですよ、もちろん。

イギリスに住んでみると、ある世代以上のご婦人はどことなくエリザベス女王に似てるなあ~、と思えてしまった不思議。

イギリスの下宿で世話になったおばさんが、予想通りの訛った英語で、例えばtodayを「トゥダイ」と発音するのを聞いて、ああ、これは仙台弁と全く逆だ!と気がついた。aiを「エ」と言うのが仙台弁。イギリスまで行って、何を納得してたんだよ!俺は

そういえばダイアナ妃(元)が事故死した時もイギリスにいた。その朝に町を歩いてたら、やけに半旗が立ってるな~と不思議だった。日本の家族からのメールでその事故を知る。時差の関係で日本の方の報道が早かったんだな。でもケンブリッジは特に変わりなく、普通の時間が流れていた。 
(2012.02.18-19.)


夢忘れ 今宵の月も 美しく
(2012.03.01.)


幕末や明治初期に、下岡蓮杖やF.ベアトが撮影した古写真を見るのが好き。当時の人々が生き生きと写されている。特に、写真の中で無邪気に笑う子供たち。この後、この子達はどんな人生を送ったのかな、と、ふと考える。激動の時代を無事に生き延びただろうか、と心配してしまう歴史家の性。
(2012.03.03.)


弥生の十一日と 空に描いた 文字の姿が 白い椿の花弁となり ホロホロと 落ちていく 夢を見る
(2012.03.11.)


これより黙祷。目を閉じる前に仰いだ空の白雲に、万感を込め。調布にて。
(2012.03.11.)

凡例

・ふざけた呟きを拾ったものです。(2011年7月17日 ~ 2012年3月11日)

・末尾の数字は、呟いた日付です。

・「#」付きの言葉は、ツイッター上のハッシュタグです。

・若干アレンジしたものもあります。

・めんどくさい人からの批判は、一切受け付けませんwww 


本文


【さーて、来週の佐藤さんは。。。】富山です。火薬の資料調査に山奥まで車をとばします。反政府運動の準備ではないので心配はしないでね。提供は、日本学術振興会です。(2011.07.17.)


さっき、「反政府運動」の文字を入れたツイートをしたら一瞬、通信が切れてしまったのでビビってしまった。なんて私は小心者…

Σ( ̄◇ ̄*) (2011.07.17.)


山形新幹線の遅延理由の英語表記が“Bear Impact”となっている… これで起きた事象が分かるのか… (2011.07.20.)


古い中国のエピソードで、「市場に虎が出た、と3人が言えば大抵の人が信じる」というものがある。昨日大学で、事務の奥さま・御姉様の3人から「先生丸くなった?」と言われた。ダイエットしなければ!と信じ込まされている自分… (2011.07.20.)


【峠の茶屋殺人事件・目撃情報】 ミタラシ… (2011.07.21.)


久々にアホなツイートを… (2011.07.21.)


【点呼中殺人事件】「それで、現場の状況は?」「ハッ、タイリョウノシュッケツを確認しました!」 (2011.07.22.)


今のツイートはイマイチだったな… (2011.07.22.)


それでは、みなさま、おやすみなさい。でも、何か閃いたら呟きます、とここまで書いたところで、「ヒラメ、いるわけないよなあ~」とグダグダのオヤジギャグが浮かぶほど疲れてるんだなあと自覚したので、もう寝ます。おやすみなさい。 (2011.07.22.)


「仙石線を電車、東北線を汽車という」 #多賀城あるある ある世代までかもしれない… (2011.07.26.)


英語の過去完了形を「~~したったのや」と教わって模擬試験で困った。 #仙台弁あるある 実話です。(→仙台二高39回生) (2011.07.26.)


宮城でもゴミは「投げる」ものである #仙台弁あるある どうやら福島でもそう言うらしい。 (2011.07.26.)


水に浸すことを「うるかす」 #仙台弁あるある どうやら岩手県でも言うらしい。 (2011.07.26.)


オランダせんべいが懐かしい #東北あるある (2011.07.26.)


仙台弁は "ai" の綴りをイとエの中間音であるイェと発音する。だから「仙台」はしばしば「センデー」と聞こえる。このことにふと気が付いたことで、私のフランス語の読み下しは非常に楽になった。 #仙台弁あるある いや、普通は無いよな。。。 (2011.07.26.)


うどんに入れるかまぼこは笹かまぼこの細切り #宮城あるある (2011.07.26.)


ただいま5000ツイート越え達成。「あるある」ネタで行ってしまった… m(_ _)m (2011.07.26.)


TBCは東北放送!!  #宮城あるある (2011.07.26.)


宮城県利府町には荒川静さんがオーナーになっている梨の木がある。 #利府あるある (2011.07.26.)


東京に出てきて初売りの景品がショボイと思う。 #宮城あるある (2011.07.26.)


シュウトメが亡くなると、嫁さんが自分の好きな具材を放り込むようになるので、正月の雑煮は世代交代ごとにカオス化する。 #宮城あるある …あ、うちだけかもしれない (2011.07.26.)


ナスは長くしてから、ネギは曲げてから食べるものである。 #宮城あるある (2011.07.27.)


今夜は月がきれいなので、上を見ながら歩いていたら、車止めポストに思い切り向こう脛ぶつけて、涙の朧月夜まで眺めてしまったぜ、まったく…

Σ( ̄◇ ̄*) (2011.08.13.)


京王線にボーッと乗ってたら、視界に真っ赤な薔薇の花がとびこんできた。そして、次に乗った埼京線でも、やはり目の前に薔薇の花が現れた!なんてカラフルな夜なんだ!でも、腕一杯の花束じゃなくて刺青だったから、あまり見られなかったけどさ ┐(  ̄ー ̄)┌ (2011.08.13.)


今夜は月と花を見た… (2011.08.13.)


「あんた、どっから給料貰ってんの?」と、勤続12年目にして、母に尋ねられた。会話の少ない家族でした。すみません。 (2011.08.15.)


100100夜物語 #タイトルを100倍にすると盛り上がる 二進法だとショボイけどさ。。。 (2011.08.19.)


里見八百犬伝 #タイトルを100倍にすると盛り上がる  ディズニーも真っ青… (2011.08.19.)


真実百路 #タイトルを100倍にすると盛り上がる 真理へ到達する道は一つではないのだ… (2011.08.19.)


無い核相離大臣… (2011.08.29.)


【戯言】そりゃ~ね、乳酸菌が放射能に効くのであれば、とっくの昔に「初恋の味」のあの会社が大キャンペーン張ってると思うんだが… (2011.09.01.)


【戯言】遺伝子を簡単に組み替えられてしまうか弱い大豆ちゃんに、放射能に打ち勝つ能力はないと思うんだよ。味噌になると放射能防御能力獲得するように進化するのか?… (2011.09.01.)


スーパーの食材を持ち寄ってコンパ=スパコン (2011.09.01.)


コンビニの食材を持ち寄ってコンパ=コンコン (2011.09.01.)


太陽の塔の前でコンパ=燃える闘コン (2011.09.01.)


中国の書籍について熱く語るコンパ=ホンコン (2011.09.01.)


もうじき育毛剤とおさらばという人たちのお祝いコンパ=毛コン (2011.09.01.)


円形花壇の仕事を終えた園芸店の打ち上げコンパ=球コン (2011.09.01.)


具の無いカレーを作ってしまった王様猿が、無理矢理子分猿にそれを食わせるためのコンパ=キング・コン… (2011.09.01.)


熊本の地産地消コンパ=辛子蓮コン (2011.09.01.)


ダイエットにはこれ! → ゲソ  #シャレた寿司屋 (2011.09.01.)


アンチ松尾芭蕉です → あ わび さびぬきで #シャレた寿司屋 (2011.09.01.)


「しゃれのめす」という言葉がある以上、「しゃれのおす」も探さねば、と思う、疲れた闇夜のひととき。 (2011.09.01.)


今でも忘れられないが、学部2年生の時に教室で飲み会があったとき、かの哲学者・廣松渉先生が「最近はムーミンという歌手が流行っているそうですね」と仰られたのには、のけぞってしまった。80年代の末のことだった。 (2011.09.01.)


パンツの川流れ  #ことわざの一部をパンツに変えるとわくわくする ワクワクしないが恥ずかしいだろうなあw (2011.09.02.)


パンツかくして尻かくさず #ことわざの一部をパンツに変えるとわくわくする これもわくわくはしないなあ。 (2011.09.02.)


「ダンゴウオ」を逆から読むと「黄金だ!」。金運間違いなし!!! (2011.09.06.)


回文にもなりますね「ダンゴウオで黄金だ!!」 (2011.09.06.)


あるいは「黄金だぜ!ダンゴウオ!」の方がいいかも。 (2011.09.06.)


誰がために鐘は鳴る(大晦日)  #名作に妙な注釈をつけて微妙な気分になる (2011.09.20.)


『失われた原稿を求めて』 #タイトルの一部を原稿に変えると悲しいことになる (2011.09.25.)


『悪魔が来りて原稿に吹く』 #タイトルの一部を原稿に変えると悲しいことになる 悪魔にまで笑われちまったか… (2011.09.25.)


『原稿沈没』 #タイトルの一部を原稿に変えると悲しいことになる 小松左京先生のご冥福をお祈りいたします。不肖の読者でした。 (2011.09.25.)


ふと思い出したこと。学生時代、目白の椿山荘の敷地の隣にある学生寮に住んでいたんだが、ある日、椿山荘から寮宛にクレームが。「お宅の学生が、屋上で裸で日光浴している。うちの式場から丸見えで不快なので、即刻やめさせるように…」と。さて、その学生がどうなったのかまでは覚えていない。 (2011.10.20.)


マヤ文明の暦?自分の文明が滅びることを予言できなかった暦に何かあったの? (2011.10.28.)


「原発いらん」を「原発おいらん」に空目。なんじゃそりゃ… (2011.10.28.)


全国の大学の紹介パンフレットを総覧すると、この世のあらゆる問題は、我々研究者・教員によって解決できているはずなのにと思わされるのだが、さて、後世の歴史家はこれをどう見るかな (^-^; (2011.10.29.)


今、学生から聞いたネタ。日立グループの「この木なんの木…」のCMのテロップ、一度に全系列会社名を流しきれないので、数ヵ月に一度だけ流れる社名があるそうです。すごいなあ

Σ( ̄◇ ̄*) (2011.11.09.)


お前ら、ホントに負けたんか!?と思うくらい、全国あちこちに平家の落人村 (2011.11.10.)
※2012年、NHK大河ドラマは平清盛。


カメムシって佃煮にしたら食えないのかなあ (2011.11.14.)


TLで総スカン食らってるなあ「カメムシの佃煮」ww私の昆虫食履歴はイナゴ、蜂の子、ザザムシ、蟻、トンボ、蚕の蛹、テッポウムシ(酒の中)です。どっかカメムシ食べる文化、誰か知りませんか?タガメとある種のゴキブリが食えることは以前テレビ番組で見ました。もちろん加熱調理で。(^_^) (2011.11.14.)


カメムシを食べに、メキシコまで行かなきゃダメになったかもww… (2011.11.14.)


「カメムシ食えるの?」関連ツイートしてたら、フォロワーが激減するのかと思ったら、逆に増えていました。どうもありがとうございました m(_ _)m (2011.11.14.)


「カメムシ輸出プロジェクト」 日本の害虫を世界の食文化へ提供!!これって良くない? (^_^) (2011.11.14.)


私の財布には今、植物繊維質が足りません (2011.11.16.)


「マカオのオカマ」という回文を思いついたので忘れないうちに今つぶやいておこう。 (2011.11.18.)


海の化石様から、当店の餅菓子にクレームがきました。「アンコナイト…」 (2011.11.24.)


「こいしり」を「濃い尻」に脳内自動変換してしまった私は、本当にアホだと懺悔する。 (2011.11.28.)


「寝てない自慢」「食べてない自慢」「忙しい自慢」「体調悪い自慢」は、多分、仕事が集中しているヤツがこれ以上仕事を集めないためのおまじない。 (2011.11.28.)

しかし、まじめな話をすると、大喜利ネタと被災地支援ネタをカオス化してしまった私のTLを何とかしなければと思う。 (2011.11.29.)


すらいむにくまもん (2011.11.30.)


【回文】「今師走だ!すわ、終い!」 。。年末まで一気に走り抜けますからね。 (2011.12.01.)


俺のボーナス、口座滞在時間はわずかに30分だった。。。 (2011.12.09.)


正確に言うと、満額状態で、てことで。。。 (2011.12.09.)


日本の歴史家による経済活動というのはね、年末に仕入れた現代の和紙を300年前の和紙に交換する行為なんだよ。ボーナスで古典籍を買うのはそういうことなんだ! (2011.12.09.)


ボラ・レター:義援金依頼を装った詐欺DM。 (2011.12.18.)


日本の国家予算にせよ、自治体の予算にせよ、年度をまたいでの執行は困難で、様々な領域でその硬直性が指摘され、弾力的運用への改善が叫ばれている。一方、我が家の大掃除は、年度を跨ぐ実践をいち早く決定し、諸方への参考事例を提供している。 (2011.12.31.)


この数日何度か、「よいお年を」のつもりが「よい落としを」に誤変換しまくってる。もっとギャグのセンスを磨いて、「よい落ちを」と願いたいものである。 (2011.12.31.)


みんな一週間経って忘れてるかもしれないけれども、誰か、サンタクロースの慰労会をしてあげてください。 (2012.01.01.)


賀状にて 〆切を知る 年始かな (2012.01.05.)


季語を重ねてしまった。。。 (2012.01.05.)


サンレンキュウ?ナニソレ? (2012.01.06.)


「三連休」を <Sans "Renkyu"> と書いてしまうと哀しい。。。 (2012.01.06.)
※フランス語で「連休なんてありませ~ん」の意味です。


〆切は 忘れた頃が ちょうどよい。。。。 (2012.01.06.)


〆切は 遠くにあると 思ふもの。。。。 (2012.01.06.)


僕の前に 文字は無い 僕の後ろに あっ 〆切。。。。 (2012.01.06.)


〆て切るのは 鯖だけでいい。。。 (2012.01.06.)
※シメサバは、本当は切ってから締めるものだとフォロワーさんから教えていただきました。汗。。。


そろそろ、帰ります。あとは家で作業。。。。 いったんもめんと離脱です。 (2012.01.06.)


もめんと = moment (2012.01.06.)


ダメだ、まじめに文章を練らないと。。。 (2012.01.06.)


なぜ〆切に追われているときに限って、ダジャレの神が降臨するのか。。。 (2012.01.06.)


「同じ穴にムスカ」。。。嫌だなあ。 (2012.01.07.)


(新しいことわざ) 弱い者いじめ → 「青菜に塩を送る」 (よい子は真似しちゃいかんよ。おっと、悪い大人もだよ。) (2012.01.07.)


「ダメ!絶対!」(薬物)/「止メ!接待!」(営業マン)/「サメ!撤退!」(海辺で)/「アメ!決壊!」(ダムで)/「◎メ!◎っぱい!」(→??) (2012.01.07.)


「ウ」と「す」だよ~ > 前ツイート (2012.01.07.)


絶対に点は取るな!「金閣寺」 (2012.01.19.)


また、アホなことつぶやいてしまった。。。。 (2012.01.19.)


細野大臣を細野晴臣に空目。 (2012.01.19.)


自分の名前をローマ字アナグラムにしたら「一土佐犬」になることに気が付いた。 (2012.01.19.)


光秀disっちまったら、炎上中。。。 #歴史上の人物にTwitterやらせたら (2012.01.20.)


「【緩募】道案内」伊能忠敬 #歴史上の人物にTwitterやらせたら (2012.01.20.)


「遅刻します。。。しまった、小次郎にブロックされてる罠、俺。。。」武蔵 #歴史上の人物にTwitterやらせたら (2012.01.20.)


「やっぱりモフモフだよね(ΦωΦ)」綱吉 #歴史上の人物にTwitterやらせたら (2012.01.20.)


「【急募】軍師!当方、三回までは迎えに行けます」 #歴史上の人物にTwitterやらせたら (2012.01.20.)


「DMに英文メール仕込んどいたから、うちの者共は開いちゃダメよ!」元就 #歴史上の人物にTwitterやらせたら (2012.01.20.)


「オフ会なう!」武田・北条・今川 #歴史上の人物にTwitterやらせたら (2012.01.20.)

2012年01月23日(月):


どこの和尚様の講話説法のお知らせかと思ったら、松山千春だった。。。 車内中吊りポスター (2012.01.23.)


「原子力マネー」が「原子かまねー」に見えてしまった。。。 なんだそれは! (2012.01.23.)


奈良県の形が、ダイエットに失敗したタツノオトシゴに見えてしまった。ああ、今日はだいぶ飲んでしまったな。。。 (2012.02.01.)


白河以北 一山 何μ? (2012.02.03.)


人材は 忘れた頃に 消えている (2012.02.03.)


限りなく透明に近い社畜 #タイトルの一部を社畜に変えると恐ろしさが増す (2012.02.03.)


3年目の社畜 #タイトルの一部を社畜に変えると恐ろしさが増す (2012.02.03.)


泣いた社畜 #タイトルの一部を社畜に変えると恐ろしさが増す 今日は節分だし。。。 (2012.02.03.)


部屋とYシャツと社畜 #タイトルの一部を社畜に変えると恐ろしさが増す  (2012.02.04.)


なぜ安っぽい自己啓発本が何万部も売れるのか不思議だったが、こんな理由かな。→ろくに考えもせず、すぐ答えを欲しがる単純な人を一発で説得して利用するため、そのネタ本としてこずるい連中が買うんだろうなあ。 (2012.02.06.)


ヴァレンタインデー2.14は円周率(有効数字3桁)に1足りないから円満にはならないのだよ、とろくでもないことを呟いてみる。。。 (2012.02.08.)


一字違いでとんでもないことになるな。。。。 冥福と大福。 (2012.02.08.)


先日、東京地裁の傍聴マニアである学生から聞いた話。「月にかわってお仕置きよ!!」と叫んで露出したという容疑の被告に対する裁判があったらしい。法廷内の笑いを必死に押し殺したであろう雰囲気が、如実に察せられる報告であった。 (2012.02.09.)


手塚治虫氏と同級生だった方が同業者にいらしたことを知ったときの衝撃。  #手塚治虫先生の思い出(命日には故人を語ろう) (2012.02.09.)


乳酸菌風呂って、見方を変えれば「堆肥の湯」と成分が同じような気がする。 (2012.02.15.)


洋行帰りの勝海舟が洋食屋を開いたものの、食中毒を出してしまいあえなく「カツ回収」、とアホなだじゃれを考えた自分を晒す。 (2012.02.17.)


アバターときたら、次はエクボーだろう!!と、ふざけたギャグを言わせるな、俺! (2012.02.17.)


戦国武将・上杉謙信は脳卒中で没したと推測されているが、普段から高血圧体質であることを気に病み、医師の療治を受けた際には常にその値を「上過ぎの検診」だ、とごまかしていたらしい。またアホなことを。。。 (2012.02.17.)


「保谷穗屋のホヤホヤのホヤ」、というフレーズを思い付いたけど、使い道が無い哀しい言の葉 (2012.02.18.)


『銀魂』ネタで、最近、うちの子供に教えたこと。/(1) オバケのQ太郎→Qちゃん→Q=Queen→クイーンと言えば、「クイーン・エリザベス」→エリザベス/(2) 犬→ワンちゃん→王ちゃん→王貞治→定春 (2012.02.20.)


明治の文豪として知られる森鴎外は陸軍の軍医でもあった。まだ脚気の原因がビタミン欠乏症であることが知られなかった頃、海軍は麦飯を導入して脚気予防に成功した。しかし、鴎外は最後まで米飯支給にこだわった。従って、彼が食堂に入ってまっ先に出す注文のかけ声は「盛大がいい!」であった。。。 (2012.02.20.)


ちょいと今日のギャグは切れが悪かった。。。 (2012.02.20.)


「被災地を救う」と「被災地に巣食う」では大違いだな。。。 (2012.02.22.)


被災地の写真が続いたので、復興に向けた明るい写真も。南三陸町で再開なった日の出荘さんで昨日食べた「キラキラ丼」です。 http://t.co/XOoZThxI (2012.02.25.)


で、「キラキラ☆上野介」というダジャレが思い浮かんでしまった。。。 (2012.02.25.)


鶏が先か 唐揚げが先か #ことわざに唐揚げをねじこむ (2012.02.25.)


青菜に唐揚げ #ことわざに唐揚げをねじこむ ベスト・コンビネーション (2012.02.25.)


唐揚げは一日にして成らず #ことわざに唐揚げをねじこむ 何事も修行だな (2012.02.25.)


逃がした唐揚げは大きい #ことわざに唐揚げをねじこむ 悲壮感が漂いますな (2012.02.25.)


全員不合格!!  #一度は言ってみたいセリフ (2012.02.25.)


明日は明日の唐揚げ #ことわざに唐揚げをねじこむ  日替わりで。。。 (2012.02.25.)


唐揚げの友 #ことわざに唐揚げをねじこむ  雑誌のタイトルみたいだ。。。 (2012.02.25.)


江戸の仇を唐揚げで #ことわざに唐揚げをねじこむ 抱き込んだのか?。。。 (2012.02.25.)


唐揚げは寝て待て #ことわざに唐揚げをねじこむ いや、それはまずいだろう。。。 (2012.02.25.)


身を粉にして唐揚げ  #ことわざに唐揚げをねじこむ 粉は身につけないと。。。 (2012.02.25.)


論語読みの唐揚げ知らず #ことわざに唐揚げをねじこむ 人生の大事な部分を失っているかもしれない。。。 (2012.02.25.)


一寸の虫にも三分の唐揚げ #ことわざに唐揚げをねじこむ 分けてあげよう! (2012.02.25.)


唐揚げに懲りて タタキを吹く #ことわざに唐揚げをねじこむ よくある話か。。。 (2012.02.25.)


【0ツイート・フォロワー・プロフ・コレクション】No.1

「中華料理っていちばんおいしい(笑)って言ってみる…」 → そう言ったところで、誰も恵んではくれないあなたの人生が目に見える。 (2012.02.27.)


昼間、大学前の通りで、私の前を幼い女の子が母親に手を引かれて歩いていた。すると突然その子が近くの店の閉まった扉を指差し「あ!お父さんだ!お父さんがいるよ!」と手を降りだした。思わず背筋がゾーッとなった。「どこにお父さん?」とよくよく見ると、扉には白いワンコのステッカーが。。。 (2012.02.28.)


【0ツイート・フォロワー・プロフ・コレクション】No.2

「バイク最近買いました!全然仕組みとかわかんないですが絡んでください!」 → 御前、仕組みもわからんでバイク買ったんか?ww ツイッターがわかんねーと言いたかったんだろうけどさ。 (2012.02.28.)


困惑雑誌「絶句シー」 (2012.03.01.)


ダメだ、頭がアホになっている。。。 (2012.03.01.)


仙台一高も驚愕となったのか!!! (2012.03.01.)


もちろん、驚愕 → 共学 です。驚きの意味を込めました (2012.03.01.)


今はどうか分からないけれど、私が高校生だった25年ぐらい前(げっ、もう4半世紀経ったのか。。。)、仙台一高の応援団の連中は自転車で引きずってボロボロにした学ランを着て現れてたなあ。今、どうしてんだろう、共学化で。 (2012.03.01.)


日本では昔から、 5・7・5の情報量だけで「空気読め」、という訓練をさせられていましたからね。 (2012.03.01.)


「牡鹿でお時間ありますか?」とシャレ混じりに聞いてみる (2012.03.01.)


【0ツイート・フォロワー・プロフ・コレクション】No.3

「海外ドラマにはまってます!そして将来英語しゃべれるようになってる予定です(笑)」→苦労のない人生を送られそうなので、ぜひ応援したい。 (2012.03.01.)


【0ツイート・フォロワー・プロフ・コレクション】No.4

「料理・家族サービス大好きだけど何故か(解らない自分が悪い)棄てられましたm(T.T)m。」→ 生ゴミは生まれ変われば堆肥になる。あきらめるな! (2012.03.01.)


毒舌三寸先は闇 (2012.03.01.)


サラリーフマン金太郎 #名作漫画に一文字足すと事態がややこしくなる (2012.03.01.)


俺の空腹 #名作漫画に一文字足すと事態がややこしくなる (2012.03.01.)


(新しいことわざ)「二度寝で星を見る」 → 無駄な週末を過ごしてしまうこと (2012.03.03.)


ツイッターを始めてそろそろ1年になる。ツイログはようやく7月から開始した。これを機に過去の呟きをまとめ直していたら、やたらと、「終電逃して今日も朝帰り」「二日酔いでまた大学に泊まった」とか言ってるし、単語としては、しょっちゅう「変態」とつぶやいている過去の自分と再会する歴史家。 (2012.03.03.)


俺、こんなにつぶやいてたんだ。。。 新書だったら、本の2冊ぐらい書けたかもしれない分量?。。。 (2012.03.03.)


「オカン コカン アカン!」という電報が、母の元に息子から届いた。そこで母はいかなる行動をとったか? (2012.03.04.)


(解答例)母親は北海道にいる息子に風邪薬を送った。 → 「悪寒 酷寒 阿寒!」という電文だったから。さすがに、「股間」ではありません。(あ、言っちゃったよ。。。) (2012.03.04.)


夜分に失礼いたしました m(__)m (2012.03.04.)


ここ数日、0ツイートのアカウントが寄ってこなくて退屈。みんな気付いてしまって、流れは終わったのかな。 (2012.03.04.)


今日はかなりの遅延でメール通知が来てるな。。。 (2012.03.06.)


遅延で来るチェーン・メールとか。。。 苦しいなあ、これは。。。 (2012.03.06.)


昨日の研究会の宴席で聞いた話。某国会議員の講演やパーティーでの振舞い。新品のネクタイをたくさん用意して、一回首に巻いたものをはずして支援者にあげる。女性の場合は(議員夫人が)指輪やネックレスをはめたものをあげる。新品だと賄賂になるが、一度でも着用すれば中古品として罪に問われない。 (2012.03.08.)


町内会長 島耕作  #島耕作の次の役職を考えよう (2012.03.08.)


グループ・ホーム・リーダー 島耕作  #島耕作の次の役職を考えよう (2012.03.08.)


大阪都知事 島耕作  #島耕作の次の役職を考えよう 近未来漫画として設定できるかどうか。。。。 それよりもスキャンダル合戦でそもそも。。。 (2012.03.08.)


将軍 島耕作  #島耕作の次の役職を考えよう (2012.03.08.)


クリス曰く、クスリのリスクね~ (2012.03.09.)


【速報】いつのまに!!!!俺、早川ユキオからブロックされてたよーーー!!!! なすて?ww (2012.03.10.)


今日、東大の合格発表か。実は私、高校2年の時、東北大学の合格発表会場に行きまして。ふざけて「オッシャー!受かったー!」と叫んだら、回りの東北大生に胴上げされました。気分爽快で家に帰ったら、何と河北新報の夕刊一面に私の胴上げ姿がデカデカと。。。実話です。1986年春 (2012.03.10.)


そう、先ほど呟いた新聞写真のおかげで、何人かの方から合格祝いのお電話をいただいたのですが、丁重に謝罪いたしました。翌年、見事に不合格で浪人してしまったのは、このバチが当たったのだと、今でも解釈しています。 (2012.03.11.)


あ、そうそう、さらにその河北新報夕刊写真の後日談。そのとき、同じ部活の後輩にいたO君の父上は、何と河北新報写真部部長だった。だから、状況は河北側にバレバレだったわけだが、訂正記事は出なかった。そりゃ、出せないわな~ 今になって懺悔します。 (2012.03.11.)


ツイッターをして以来、初めてRT数が1,000を超えたのが、先程の胴上げネタだった。。。 これで3月11日を迎えました。 m(__)m (2012.03.11.)


ジョジョの奇妙な上場 (2012.03.11.)


ジョジョの奇妙な叙情 (2012.03.11.)


ジョジョの奇妙な情状 (書き下ろし)


<日付不詳>


以下は、Twilogを始める以前に呟いたものなので、私の記憶の中にあるものを。。。


(地震直後)計画停電のせいで「電気通信大学が電気通じん大学になってしまった」、というアホなフレーズを思い付いたのだが、捨てるのももったいないので呟いてみた。


【赤羽駅殺人事件】「アカバネ に シカバネ」


【魚市場殺人事件】「アニキ!この仏さんを魚市場でどうしやす?」「イキがいい。」


【証券マン殺人事件】「アニキ!どうして俺たち、仏さん背負って冬山登らにゃあかんの?」「トウシに見せかける。。。」


【玄界灘殺人事件】「アニキ!今度の仏さんはどうしやす?」「壱岐で息の根止めて、遺棄。。。」


m(_ _)m

凡例


・以下の記録は、2012年2月12日から、2012年3月31日までのTwitterでの呟きを主題別にまとめたものの一つ、「震災と支援をめぐる雑感」である。
・収録した呟きは、著者本人の独白形式のみを採り、RTとそれへのコメント、@付きでやりとりをした会話は除外した。
・各呟きは、ほぼ時系列に沿って提示している。("2011.07.17. at 15:23:10" で呟いた日付と時間を指示する。)

・その時々の印象を呟いたものがほとんどであるので、後に諸状況の変化が生じて事実とずれてしまった記載も認められるが、その時点での記録として収録している。
・収録にあたっては、誤字脱字を訂正し、必要最低限の補足修正に留めている。
・「※」を付して、呟きの背景を注記した箇所もある。
・一連の内容がまとまっている場合は、適宜、小見出しを付けた。


本文


実家の老母もやはり、地元のことを知るには貴重な情報源。地区の古くからいる住民の動向が手に取るように分かる。まあ、それがプライバシー不在に近い田舎のとんでもなさではあるのだが。年が明けてようやく、半壊住居の解体に着手した家が3軒ほどあったとのこと。やっと業者が付いたらしい。 (2012.02.12. at 08:17:55)


今朝も駅まで歩いてくる途中、明らかに地震以後、空き家になったお宅を数軒見かけた。解体・建築業の人手不足、あるいは住民側の費用不足で工事に進めないのだろうと推測。今回の震災では、沿岸部ばかりでなく、内陸の建築被害とその余波も深刻である。復興への道は平坦ではない。 (2012.02.12. at 08:24:30)


【拡散お願い】宮城県図書館では、東日本大震災関連資料を収集した「震災文庫」設立を企画されています。宮城県内はもとより、県外の新聞記事、ボランティアの活動記録、体験記なども、幅広く収集されています。詳細・お問合せは、下記をご覧下さい。http://t.co/i3I4crW4 (2012.02.13. at 15:29:09)


直前ツイートに関して。宮城県図書館で集めている震災関連資料は冊子体だけでなく、避難所のチラシや、復興応援イベントの企画書なども対象とされている。因みに私は、3月10日以来保存していた自宅の新聞を1年分寄贈する予定。新聞は縮刷版だと地域記事が収録されないので、県外各地の記事は重要。 (2012.02.13. at 15:35:17)


数十年単位で見ると、日本列島の太平洋沿岸部はどこでも津波に襲われる可能性があるから、減災対策はもとより、インフラがスクラップ・アンド・ビルドを免れないことは心しておかねばダメだろうな。今は東北沿岸がクローズアップされているが、東海沿岸に津波瓦礫が発生したらもっと大変になると思う。 (2012.02.15. at 08:03:55)


こういう言い方が許されるかどうか。被災地には段階的な復興の道筋があっても良いのでは、と思う。現在の住民には帰る故郷と生業を確保し、十数年後の世代交代時までを見越して、外部の新規参入や新しい住民流入が可能となるシステムを用意しておくこと。最初から完全な計画設計は無理もあるし。 (2012.02.15. at 08:33:28)


100年、200年の時間をかけて起きた出来事を仕事で扱っていると、10年、20年で一仕事するという感覚は別に不思議ではないわけで、ここにIT化を取り入れて効率化をということになると、アクセスできる情報量は劇的に増えるが、やはり一仕事するには10年以上かかってしまうという同じ道筋。 (2012.02.15. at 09:05:42)


教育支援について雑感


現在の大学教育は各方面から色々叩かれているものの、大学に進学しない教育機会が十全かと言われれば、それも心許ない。大学進学率の高低が基準の全てではないが、東北地方は以前から進学率の低い地域。この現状を正確に見据えない限り、都会的な発想で教育支援を被災地に導入しても空回りは免れまい。 (2012.02.16. at 22:03:17)


瓦礫が残る環境や、校舎・自宅も不完全、しかも災害トラウマを多かれ少なかれ抱えるであろう児童・生徒への教育支援は、素人考えでも「非常時」の教育実践が必要なんだろうな、と思う。普通に勉強したい焦りを持つ子もいれば、メンタルケアが要る子もいるだろう。どの方面の専門家が求められるのか。 (2012.02.16. at 22:17:48)


現場の先生方も様々な場面での対応に苦慮されていることを十分承知の上で、素人が「教育支援」などと言っているのだが、先生・生徒・親御さんの環境・経済・心理の負担をともかく軽減することが今は最大の教育支援になると思う。「知識」の注入、補充はそれと並行する形が理想なのかもしれない。 (2012.02.16. at 22:30:39)


何というか1つの問題を考え出すとあらゆる問題が繋がって出てくるので一人の思考ではもう無理。。。教育支援にしても、周囲の瓦礫どうする?新しいコミュニティーになじめる?町の経済活性化の見通し?等々。これを一刀両断にエイヤと解決できればいいんだが、多分それはカルトへの道に通じてしまう。 (2012.02.16. at 22:43:11)


20数年前、自分の大学受験の頃の話。東北6県にある大学の合計が、兵庫県一県にある大学数とほぼ同じ、ということを知って、高校生なりに、ああ東北は経済的・教育的にそういう地域なんだ、と妙に納得したのを覚えている。今は大分状況は変わっただろうけど、相対的な位置付けは変化していないかも。 (2012.02.17. at 00:20:37)

   教育支援について雑感(了)


読書『大災害と子供の心』


本日は、不本意ながら買おうと思っていた本が見つからなかったが、かわりに、富永良喜『大災害と子供の心』(岩波ブックレットNo.829)を見つけたので購入した。早速読み始めている。 (2012.02.17. at 14:11:53)


前掲・富永より。「セルフケアの視点のない「心のケア」はお節介にすぎません。」(p.6) これはどの支援に活動においても基本だろうな。 (2012.02.17. at 14:22:11)


阪神淡路大震災あたりまでは、震災の体験をその直後に被災者に表現させる「ディブリーフィング」が推奨されていたが、今は全くこれはやってはいけないこととされている。むしろ過覚醒という心身反応をコントロールするための「リラックス法」の体得が重要、と著者は指摘する。(冨永・pp8-9) (2012.02.17. at 14:45:37)


著者・冨永らのグループはインド洋津波後に学校でのカウンセリングを実践。その時の方針。→「その土地の宗教と文化を大切にしよう」・「現地で効果的な支援をしている人を支援しよう」・「継続してこの地を訪問しよう」(冨永・p13) 以前から自分も漠然と思っていたことなので、意を強くした。 (2012.02.17. at 14:50:01)


四川省地震の際に中国の心理学会に送ったアドバイス。継続性の確保。安心感のない場所で絵や作文で恐怖体験を書かせないこと。トラウマのアンケートのみ実施しないこと。トラウマなどの心理教育を並行させること。(冨永・p14) (2012.02.17. at 15:12:37)


冨永・第2章は日本心理臨床学会のHPで発表された「災害後に必要な体験の段階モデル」についての解説。(冨永・pp15-21)専門家には周知の事実であろうが、一般の我々も知っておくと良い内容である。例えば、子供たちの回復期によくある「津波ごっこ」。これは叱りつけずに見守ること、など。 (2012.02.17. at 15:18:13)


冨永・第3章「こころのサポート授業」は岩手県で実施された臨床心理士派遣事業と小学校での授業実践の報告。第4章「ストレス対処法を学ぶ」はストレスと対処法を子供たちにいかに教えて納得させるか。一般の我々にとっては、学校での実践を知っておくことで地域の子供と接する際の参考になるはず。 (2012.02.17. at 15:49:33)


冨永・第5章「成長につながる表現活動を」、第6章「未来にむかってつなぐ」。被災体験を子供に表現させるときの注意点。そして、これからに向けた指針。被災地からの転校生への配慮や、今後数年間は被災ストレスよりも経済的・家族的な問題でのストレスが増えるだろう事への警鐘。重要だと思う。 (2012.02.17. at 17:43:33)


ちょうど昨夜、自分なりに教育支援のことを考えていただけに、冨永良喜『大災害と子どもの心』を読めて良かったと思っている。この方面で実践を考えていらっしゃる方、周囲の子供たちとの接し方を模索している方には、ぜひお勧めしたい。
(2012.02.17. at 17:46:43)

   読書『大災害と子どもの心』(了)


震災一周年を前に


震災の記憶の「風化」に対する懸念があちこちで言われているが、100%の人が常に震災を覚えていてくれるということ自体は抑も無理。必要なときに震災を思い出してくれる事が大事。その際に正確な情報・記録の継承を手伝うのが、歴史家や、現地の資料保存機関。 (2012.02.18. at 10:51:04)


これも素人の呟き。今回の震災では津波浸水想定地区内に避難所!というケースもあり、避難所や備蓄施設の抜本的対策は不可欠。三陸沿岸のように平地が少ない地域はなおさら。今までの前提を取っ払ったアイディアも必要かと。例えば給食センターに非常食備蓄施設を併設するとか。 (2012.02.18. at 11:01:06)


これも都市計画や土木の方面では散々注意されていることだがメモとして。三陸沿岸被災地の高台移転問題は、津波前に当然発生している地震による土砂崩れ対策なども込みで考えねばいけないこと。過去二度の大津波の時も、高台移転は全般的に議論されたが実施完遂はごく一部。 (2012.02.18. at 11:18:29)

   震災一周年を前に(了)


読書『「ボランティア」の誕生と終焉』


あらためて、仁平典宏『「ボランティア」の誕生と終焉』(名大出版会、2011)を読んでいる。何かの社会的要請が生じる度に、ボラは大量発生し、何度となく同じ批判に晒され、その都度、説明理念を編み出してゆくさま。今の災害ボラの姿に見事に重なる。 (2012.02.19. at 02:14:09)


「有償ボラ」が言われだしたのは80年代。政策的誘導による。(履歴書にボラ歴を書かせる風潮もこの頃。)ボラの目的に「自己実現」が唱えられたのは70年代以降。【仁平、第7・第8章】意外に最近の意識転換だったわけだ。これでは被災地の支援意識にジェネレーションギャップがあっても仕方ない。 (2012.02.19. at 02:24:27)


「すでに一九九五年までにボランティア推進に関わるかなりの制度的枠組みが作られていた」【仁平・第9章】「行政を介さない支援の仕組み!」と叫ぶ組織があるが、そこに動員されたボラは行政が道筋を付けてできたもの、という皮肉を思わざるをえない。 (2012.02.19. at 03:17:45)


仁平第9章より。1980年代以降の企業の国際化に伴い、欧米文化の「社会貢献」が話題になり、「1%クラブ」が設立される。NPOと企業の親和性も高まる。/これは環境問題改善を積極的に打ち出して社会貢献を謳う企業の続出時期とパラレルなのではないか? (2012.02.20. at 14:59:56)


仁平、第9章より。1990年代以降の「<政府/市場/市民社会>のいずれへも還元不能なこの空間においては、情報が透明に公開され、健全で効率的な経営の精神と技術をもつことこそが、何より重要とされる。この中で「ボランティア」は消滅するわけではない。ただ冗長になるだけである。」 (2012.02.20. at 15:27:03)


NPOの活動原理の下位にボランティアのそれが置かれる状況が1990年代以降出現したわけか。。。事の是非はともかくとして、情報の透明性・経営の健全性を持たねば、ボランティア団体は「社会的」承認、合意を得られない構造に組み込まれてしまった、と理解。NPOへの上昇志向もこれで納得。 (2012.02.20. at 15:32:14)


仁平第9章、京極高宣「『互酬性』の意味するもの」(1993)からの引用。「(かつてのボランティアは)一方で行政責任を追及しすぎ、他方で奉仕性を強調するあまり、本来的に地域の人々の間にあった相互援助的機能、互酬性の尊さを見失ってきたのではなかろうか」 (2012.02.20. at 15:58:45)


90年代に関係者の間では葬り去られた経緯を持つボランティアの社会に対する「運動」的要素が、今回の災害ボランティア周辺でゾンビのように復活してしまったわけか。うーむ、「歴史は繰り返す」、と簡単にまとめてしまって良いものだろうか。 (2012.02.20. at 16:03:27)

   読書『「ボランティア」の誕生と終焉』(了)


ブレーキの無いバスを幼児が運転し、後ろでは乗客が好き勝手やっている。幼児だからクラクションを鳴らし続けて自己主張する。そんなバスに面白そうだからと飛び乗る人もいるが、普通は、そんな暴走バスが来たら逃げるわなあ。最近、こういうバスに例えてしまいたくなるような集団が多くて困る。 (2012.02.21. at 08:00:07)


被災地観光の是非は分かれるだろうが、できれば、いまだ復興すらほど遠い景観を見てもらい、前向きに進みつつある人の話を聞いてもらいたい。だが、逆のパターンになったらまずいだろう。 (2012.02.23. at 06:53:55)


今日、あらためて旧石巻市街地から牡鹿半島までの5万分の1地図を総覧したが、これは漁業被害の実態を明確に知らせてくれる地図だ。なぜなら、湾という湾の海面に、ワカメや牡蠣や海苔の養殖場エリアがびっしり書き込まれている。あの津波でこれらがすべて流されたと思うと、天を仰ぐより他ない。 (2012.02.23. at 22:35:52)


被災地を巡る


今夜の帰り道は、三陸道の一部が工事通行止めだったので、松島北ICで降りてR45の下道を走った。夜道の暗い中、海岸と近接した国道を走る不安といったら。。。 このタイミングで再び津波に襲われたら、逃げるすべがない。 (2012.02.23. at 23:01:44)


実家で朝を迎え、窓から外を見たら、隣家が解体され、土台だけになっていた。また一つ、身の回りの風景が変わってしまった。大局的に見れば、こういう具合にあちこちで解体工事が進めば、被災地の瓦礫は増えていくことになる。瓦礫は、決して津波被害ばかりによるものではない。 (2012.02.24. at 07:17:13)


被災地の教育支援のことを考えるとき、どうしても子供たちの習熟度や教育環境にばかり目がいくが、親御さん・ご家族の教育、受験に対する不安を払拭するという側面も大事であろう。ご家族との教育相談、これはちょっと学生さんには難しいかな。教員や学校関係者が参加しないと無理だろう。 (2012.02.24. at 07:54:49)


高砂地区の中野小前に到着。高砂橋を境目として被害の様相に歴然とした差がある。七北田川下流域はいまだ、手付かずの箇所多数あり。津波直後よりも更地はたしかに増えているが。仙台市内ですら、このような具合である。 (2012.02.24. at 08:54:14)


岡田の元ローソン敷地。付近は大分更地が増えた。さすがに根こそぎ流されてきた松の大木はほとんど撤去ずみ。海岸から2km以上離れている所に海から大木が押し寄せてきたことは、多分信じてもらえないだろう。実際に見るまでは。 (2012.02.24. at 09:28:36)


行き交う車は、瓦礫を満載したトラックか工事用車両ばかり。わずかに残った住宅も一階部分ががらんどうで、津波に貫通された姿のままがほとんど。一階の窓にブルーシートという光景。 (2012.02.24. at 09:31:42)


今日は高砂・岡田方面を見てきたが、ある区間・地区は全くの荒涼たる「砂漠」。何が異様かと言えば、小学校の校舎(1階部分が大破)と体育館だけが、ポツンと赤茶けた大地の砂漠の中に立っている。小学校だったから周囲にはたくさんの住宅があったはずである。この砂漠は時間が止まっている。。。 (2012.02.24. at 20:43:47)


今日、高砂の次に訪ねたのが、女川の蒲鉾本舗の高政さん(@takamasa_net)。高政さんにはお忙しい所を生産ラインについて、女川の雇用状況、放射能検査体制についてご説明をいただきました。ありがとうございました。 (2012.02.24. at 21:40:15)


高政さん(@takamasa_net)のお話。震災直前に新工場を立ち上げる段取りが組めていたので、いち早く販売製造を再開できたのはラッキー。空いた元の工場施設には、被災して再建を目指す水産関連企業、4・5社に入ってもらえることに。新規雇用が数十人見込める。 (2012.02.24. at 21:46:05)


高政さん(@takamasa_net)。新工場の生産ライン20名の内、新規採用は10名、さらにこの春10名を新規採用。それが地元企業の務め、と仰る。新工場には世界最長20mのIHフライヤー(笹かま焼き器)、すりみにぷりぶり感を残す工夫のボウルカッター(すりみ製造器)を導入。 (2012.02.24. at 22:01:20)


高政さん(@takamasa_net)。会社独自に測定装置を購入し、放射能検査。魚本体・すりみ・製品の3段階で検査。大丈夫であるもののみを出荷。つい最近は工場に太陽電池パネルを設置。災害の時の非常用電源として想定。毛布なども準備しているとのこと。 (2012.02.24. at 22:07:15)


高政さんには、明日新発売という、シソいり笹かまぼこを試食させていただきました。ありがとうございました。なお、工場の生産ラインはガラス越しに見学可能。お薦めです。 (2012.02.24. at 22:11:04)


女川の次には、三陸道経由で南三陸町に行った。震災前は民宿をされていた日の出荘さんが、高台(商工団地内)に移転して居酒屋として再開されたということで、早速訪問。南三陸町の飲食店組合が勧める郷土の海鮮丼、「キラキラ丼」を注文。港町ならではのボリュームある豪華どんぶりを堪能。 (2012.02.24. at 22:22:35)


年が明けてから、南三陸町を訪れたのは初めてだった。45号線の戸倉方面から入り、398号線の入谷から抜けるルートを走った。明日からの復興名店街の幟が398沿いにはためき、活気を見せる。一方、同じ沿線に津波被災車両の集積所が設定されていた。辛いけれども直視しなければいけない現実。 (2012.02.24. at 22:31:52)


南三陸町からとんぼ返りで石巻に戻り、あるボランティア団体の支援活動を見学。まあ、対人関係のあることなので詳細は語りませんが、非常に参考になりました。終わった後、参加された方を車でお送りしました。それくらいの支援しかできず申し訳なかったですが。そんで、仙台で牛タン食べました。 (2012.02.24. at 22:41:35)


七北田川河口付近にある中野小学校の現況。6月に来たときは、まだここは復旧車両以外立ち入り禁止だった。 http://t.co/ZvXNM9vQ (2012.02.25. at 15:23:18)


やはり、同じ場所から南の岡田方面をのぞむ。 http://t.co/xXAidlcj (2012.02.25. at 15:25:33)


中野小学校の敷地から東の海岸方向を見ると、こんな感じ。 http://t.co/F9PG0etC (2012.02.25. at 15:26:57)


中野小学校の校舎は、今こんな感じ。 http://t.co/CZP139Ng (2012.02.25. at 15:29:23)


中野小学校の傍らに、土台は新しく作られたものの、古くからこの地にあったと思われる地蔵様があり、合掌。 http://t.co/XcFNfJIW (2012.02.25. at 15:33:31)


七北田側の南岸。岡田地区にある元のコンビニの現況。 http://t.co/yhUpQsUo (2012.02.25. at 15:52:10)


岡田からさらに南下して、荒浜小付近の交差点から北を望む。荒涼たる大地。電柱の列は震災後の新設。 http://t.co/1Cw99km1 (2012.02.25. at 16:00:39)


同じ場所、バス停南長沼付近にあったGSの現況。仙台駅から直線距離でちょうど10㎞ぐらいのところです。 http://t.co/PHGIEFuT (2012.02.25. at 16:07:54)


若林区荒浜小の現況。いまだ、「震災復旧関係者以外の通行」はできないエリアの中にあります。まだまだなんですよ、復興までは。 http://t.co/nXBgSeki (2012.02.25. at 16:14:36)


県道137号線を西へ。瓦礫はほぼ撤去され、田んぼの表面が整土されている。(次に提示する写真と比較されたい。) http://t.co/XF8xjlg7 (2012.02.25. at 16:38:47)


2011年5月31日に撮影した、宮城県道137号線沿いの比較写真。(前のツイートを参照。) http://t.co/H3THslmM (2012.02.25. at 16:42:47)


被災地の写真が続いたので、復興に向けた明るい写真も。南三陸町で再開なった日の出荘さんで昨日食べた「キラキラ丼」です。 http://t.co/XOoZThxI (2012.02.25. at 17:57:55)


先日、女川で雑談の折にうかがった話。地元で求人が出てもほとんど人が集まらない。要因の一つは、地域の最低賃金が低いため、失業保険等との間に手取収入の差がほとんどないこと。月あたり20日間拘束されて、3万円ほどしか差がなければどちらの行動(就労か給付生活)をとるかは明確。 (2012.02.26. at 10:55:25)


かといって、経営側にも最低賃金に大幅な上乗せをした額を提示できる余裕を持った業種が現地にほとんど無いのも現実。基幹産業(女川の場合は漁業・水産加工)の早急なてこ入れが必須。 (2012.02.26. at 10:59:57)

   被災地を巡る(了)


被災地支援のための大組織は、多かれ少なかれ「石巻モデル」のようにスキル毎に分科会を備えたツリー状組織になるのかな~ と、中原一歩『奇跡の災害ボランティア「石巻モデル」』、朝日新書、2011年10月を読み直して感じた。行政とボラ団体が対等に連携した画期的モデルだし。 (2012.02.26. at 17:56:30)


今月は色々な一周年企画やドラマの類いが放映されるんだろうけど、何かモヤモヤした違和感の正体がやっとわかった感じ。それは、震災を素材にしたときの結末の不明確さかな。いまだ進行中の事態を無理矢理どこかで区切りをつけて見せられる事のとってつけたような空々しさが予想できることかも。 (2012.03.01. at 14:40:26)


戦前の自然災害について


昭和8年(1933)の三陸大津波は3月3日に起きました。昨年の震災があったから今さら思い出したように見られても仕方ありませんが、こちらの惨事でお亡くなりになった方々への追悼を捧げます。 (2012.03.03. at 08:01:00)


年表のように時系列で並べると改めて見えることがある。関東大震災(1923年)、三陸大津波(1933年)、敗戦前後の4大地震(1944-46)と並べると、ほぼ10年毎に広域災害に見舞われている。このあたりの災害史を振り返るだけでも、今の我々にも有益な点は多々あると思う。 (2012.03.03. at 09:41:00)


敗戦前後の4大地震は、鳥取・昭和東南海・三河・南海。いずれも相当の被害が出た。内3つは、戦時中に発生したため、軍の情報統制が徹底されて詳細な報告が公表されず、今なお被害の全貌は不明とのこと。記録を残さなければ、災害の記憶は風化してしまうことの残念な教訓であろう。 (2012.03.03. at 09:51:41)


これは既に各方面から言われていることだが、日本の歴史教育に災害関連情報を積極的に盛り込まねば。高校ならば地学教育との連携も含めた内容があっていいと思う。一部では始まっている企画かもしれないが、恒常化させねば。 (2012.03.03. at 09:59:32)


敗戦直前に起きた巨大地震(西日本に被害)の被害記録がしっかり残っていれば、阪神淡路以前にあった、日本人の地震に対する意識の東高西低は幾分是正できていたかもしれない。今さら悔やんでも仕方ないことだが、それだけに、地震予知とともに地震の記録保存の重要性は両輪だと考えている。 (2012.03.03. at 10:08:23)

   戦前の自然災害について(了)


だいたい、震災からこの一年で、口だけの人と中身を伴った人はふるい分けられたと思ったのだけれども、マスコミは分野を問わず、口だけの人を表に出す。リサーチ能力が欠如してるな、まったく。 (2012.03.04. at 07:41:59)


この一年間、何度か同じ事を呟いてきたが、震災被災地の途轍もない広さを意識できるかどうか。海岸線距離だけでも東名道ほどの規模。しかし、人間が利用しうる土地面積は限られている。工業用地にしても、瓦礫処理場にしても。そのあたりが意識として勝手に解釈されると議論や対話は永遠に進まない。 (2012.03.04. at 17:02:11)


紀伊半島を襲った昨年の台風も巨大な被害をもたらし、今なお復旧・復興の途上ではあるものの、東日本大震災のような広域的被害ではなく、国レベルの対応において復旧支援の時間的格差はほとんど見られなかった。逆に、今なお支援格差、復旧格差が課題となる東日本大震災の被害規模が浮き彫りになる。 (2012.03.04. at 17:12:07)


震災被災地を何度も歩くと、確かに仙台のような大都市の復旧は著しく早かったし、沿岸部の津波で流され、散乱した瓦礫が撤去されている姿もよく見えた。だが、何と言うのだろう。支援や資金を注ぎ込めど注ぎ込めど、大地に吸い込まれるだけに見えてしまう被災地の大きさに、ため息しかない1年だった。 (2012.03.04. at 17:29:00)


人間の力の自然に対する無力さは痛いくらい見せつけられたし、自分たちが作った複雑なシステムのアクシデントの事後処理すら全くうまく行かないことも露わになった。だから、人間の力を直接対人関係に向けた支援にあてた時のみ、自分たちの力のささやかな有効性を感じ取れたのかもしれない。 (2012.03.04. at 17:37:06)


復旧にせよ復興にせよ、言葉は一つでも、誰が何を実現したかで全く異なる姿と意味を持つ。心の復興、生活の復興、町並みの復興、経済の復興…… 震災の痕跡を消すことも復興だし、記憶を留めることも、次の震災に準備するための復興の一部。お金と人口動向(勿論大事だが)だけに偏らない復興意識を。 (2012.03.04. at 18:35:36)


この1年、どうしても自分の理解・見聞できる範囲でのみ被災地を捉えようとした反省がある。一つの町、一つの地区内ですら復旧に差があり、如何ともしがたい現実を後から後から知らされた。かたやネット上では拾えない情報として、黙々と復興を進めている企業や個人の方々も多数いらして励まされた。 (2012.03.04. at 18:47:23)


発災直後に被災地外から「とにかく何でもしなきゃ!」という意識で駆け込もうとした人は、宮地尚子さんが言う「過剰に自分の役割意識にとらわれる人」(『震災トラウマと復興ストレス』)に近い状態に陥ったのかもしれない。自分も含め、現地で何もできたように見えない絶望がやがて訪れることとなる。 (2012.03.04. at 18:59:38)


既に言ったように、あまりにも被災地が広大なので、支援に入った人はどこにでも復旧の現場を見つけられた。現地に行けない人も、ネット経由のクリック一つで支援に参加できた。この二つが、今回の被災地支援に特徴的な条件であろうと思う。だが、被災地との双方向的なやりとりは諸刃の剣でもあった。 (2012.03.04. at 19:08:11)


被災者と支援者の接触は以前は、現場での直接的なものに限られていた。今回は被災者が救援要請を発信し、それを後方地域が拡散する段階から始まり、物資支援もネット上で、という新しい接触法が定着した。しかし感情的な諍いや、デマの拡散、情報格差による地域の分断化、個人情報の悪用等も発生した。 (2012.03.04. at 19:18:19)


もちろん、以前からの「募金」は手軽にできるが直接相手の見えない支援手段だった。ネット上での直接支援が定着したことで、双方向性のやりとりが強化された。現場での支援もリアルタイムにネットで情報が流され、あたらしい繋がりを構築する手助けにもなっている。デメリットへの自覚は更に必要だろう。 (2012.03.04. at 19:31:21)


これは被災地支援に限った話ではないが、ネットの情報だけで価値判断を下してしまう人たちが一定程度でてしまう傾向の危惧は、今回の被災地支援・原発事故対応でも例外なく現実となってしまったと思う。本人に自覚のない軽い洗脳状態の場合も含め、これへの対応、対話法確立は急務かもしれない。 (2012.03.04. at 19:59:50)


うーむ。被災地の瓦礫処理に今のペースだと20年近くかかると言われてしまうと、その間に、次の震災が必ずどこかにやってきているような気がする。 (2012.03.04. at 20:09:44)


昨日もツイートしたけど、関東大震災以後の戦前の巨大地震は10年刻みで来ていますからね、全国規模で見て。 (2012.03.04. at 20:13:07)


宮城県図書館調査報告


今見ている資料。三陸大震災史刊行会編『三陸大震災史』(友文堂書房、昭和8年4月15日発行)。なんと、三陸の大津波からわずか1ヶ月後に発刊された震災報告集!全185頁。序文は仙台の郷土史家・藤原相之助で、彼は明治29年の津波もにも救援活動をしていたとのこと。それ自体が歴史だ。。。 (2012.03.06. at 10:55:08)


緊急報告集『三陸大震災史』には、先日紹介した『宮城県昭和震嘯誌』に再録された写真も多数あり。再録されないもので重要と思われるものも幾つか。例えば、炎上中の釜石港の現場写真など。 (2012.03.06. at 10:59:40)


もしかしたらこの釜石港の写真は、津波が襲来した後に火災が起きるというケースの、日本では一番古い現場写真になるかもしれない。こういう記録を埋もれさせないようにしないと。 (2012.03.06. at 11:07:23)


戦前の津波・震災報告書には決して触れられない話題があることは薄々感じていたが、戦後にまとめられた回顧録にようやく出てくる。被災地での共産党員・無産運動家たちへの弾圧の実態である。その一端が、山下文男『哀史 三陸大津波』(青磁社、1982)に記されていることをようやく見つけた。 (2012.03.06. at 11:26:15)


次に見ている資料は、大船渡市立博物館研究報告『三陸沿岸地震・津波年表 東北地方太平洋側における歴史地震・歴史津波』(1990年3月)。西暦799~1867年までの情報を収録。巻末の参考文献、一次史料一覧が貴重。今回の津波で流出したに違いない史料名がたくさんあり、痛恨の極みである。 (2012.03.06. at 11:40:34)


1978年の宮城県沖地震に関する報告書(仙台市)を眺めていたら、この時の津波の高さは14~22cmという記載があった。これでは、津波に対する油断が生じても仕方ないなあ、と思った。 (2012.03.06. at 14:20:18)


先の山下氏の記述によれば、津波には激流のような速いものと緩慢に推移するものがある、と。しかも三陸の場合は、安政(緩慢)・明治(激流)・昭和8(激流)・チリ地震(緩慢)の順に襲われた。各世代の津波に対するイメージが異なっていたことで、被害も大分差が出たらしい。 (2012.03.06. at 14:27:24)


そこで思い出したのが、今回の津波の時に聞いた言葉。チリ地震津波では、波と波の間の引き潮が大きく、魚を拾った人もいた。これが緩慢型。だからそれを津波のイメージとして持っていた世代は、今回の激流型津波を初めて見たことになる。あらためて、防災教育の難しさを知らされた思いがする。 (2012.03.06. at 14:32:38)

   宮城県図書館調査報告(了)


色々考えたけれども、地震から1年目となる11日は、地震に遭った同じ場所に立って迎えることにした。大学の前にある天神通りの真ん中。灰色の空に電線が激しく揺れていたんだよなあ、あの時は。 (2012.03.07. at 06:54:20)


「専門家としての提言」と「市民としての要望」は共に大事であるが、発言の種類を混同してはいけない。えてして、マスコミで発言する識者はその傾向があるんじゃないかな。自分を例にすると、江戸時代の資料保存なら少しぐらい提言できるけど、都市計画や義援金システムには要望しか言えないね。 (2012.03.07. at 08:01:51)


宮城の津波で流された沿岸部にかなりの密度でコンビニが乱立し始めたけど、復興工事の現場の人を当てにした配置なのかな。 (2012.03.07. at 08:34:19)


局所的な常識があるように見えて、大局的な良識の無い人がいるよなあ。。。。え?私?批判するのは簡単だからね (^-^; (2012.03.08. at 12:59:27)


被災地支援で、支援者は1クリックで物資や義援金を現場に投下し、それを仲介する側も手軽にマンパワーと資金を集められるようになった。だが、この手軽さで支援活動全体が容易になったわけではない。裏方の仕事、現場の調整、クレーム対応は今まで通り。そこを疎かにする支援組織は崩壊する。 (2012.03.09. at 09:01:27)


新幹線の車内で、ふと見かけた週刊紙の背景写真。ああ、これは閖上の更地になった所に違いない、と見えた。ちょいと横目で見たら、やはりそうだった。被災地写真はどんどん「記号化」「象徴化」されていくんだなあ。直接現地に関係の無い記事で使われるイメージ。難しいなあ。向き合い方が。 (2012.03.10. at 22:01:43)


今日、一日は、普通に過ごします。それが、生ある者のつとめ。そして、祈りと再生への思いを新たに。 (2012.03.11. at 01:47:22)


去年の3月11日は大学にいた。グループで応募していた科研の不採択通知を13時に受け取り、こんちくしょう!とグダグダして、腹減ったなあと気付いて昼飯を買いに外に出たのが14時30分。コンビニの中で地震に遭い、研究室に戻ったら、本やガラスが散乱していた。部屋にいたら確実に死んでいた。 (2012.03.11. at 08:22:37)


命拾いしたからには生きるのがつとめ。とはいえ、今思えば、震災ストレスで3~4ヶ月はまともな精神状態ではなかったかもしれない。細かい事務作業への集中力が落ちてしまったのは顕著。 (2012.03.11. at 08:28:52)


明日から再び始まる被災地の支援活動。(支援というよりサポートかな。)忘れる人は忘れてくれていいと思うんだが、そういう活動に携わっている人たちの邪魔だけはしないでほしい。 (2012.03.11. at 09:00:23)


さて、もう少ししたら、1年前に地震に遭った場所へ行こうと思う。その現場に立って、祈りを捧げたい。また後ほど。 (2012.03.11. at 14:29:34)


これより黙祷。目を閉じる前に仰いだ空の白雲に、万感を込め。調布にて。 (2012.03.11. at 14:45:09)


また、一歩から。 (2012.03.11. at 14:47:11)