蓮は、ゆっくりと愛車のブレーキを踏んだ。
なれたはずの操作が、億劫なのは気分のせいだろうと一人、口の端に自嘲を浮かべると自宅の決められた駐車スペースに入れて、サイドブレーキを引く。

「いい先輩、だろ。」
男として意識されてないというのは承知のうえ。
それでも、全力で捕まえたい欲望がわきあがってくるのを理性がかろうじて押し止めているというのに、その理性を、いつも揺さぶってくれるのだ。あの純情乙女は。
「おれは、いい先輩。」
昨日もそうだ。
事務所で偶然会ったときに蓮の姿を見て浮かべた笑顔は、あまりに無防備で嬉しそうで。
抱き締めてしまいたいともう少しで腕を伸ばしそうだったなんて想像もしてないのだろう。
今日は、一日会えなかった。

そうやって会えない日々を女々しく数えてしまうことも彼女は気がついていないのだろう。気が付かれたら、沽券にかかわる気もするが。

だから、呪文のように自分に言い聞かせている。

いい先輩だと。

一度外れた箍は、簡単に緩んで。

言い聞かせていなければ、いつかきっと、誰が見ていようが構わず腕の中に閉じ込めてしまう気がしていた。


彼が自覚したばかりのときは、自分への誓いの戒めが枷だった。

けれど、そんな枷など意味がないくらい、彼女におぼれている今は、この感情は彼女のためにならないと言い聞かせている。

大女優を目指している彼女が、まだ新人の域を出てないうちに自分とのスキャンダルに巻き込んでしまったら、きっと、夢は費えてしまうだろう。

きらきらした瞳で夢を語っていた彼女の顔を曇らせることはしたくない。そう、決心していたからだ。


蓮は己を知っていた。

ずっと、封じ込めて「敦賀 蓮」でいた間、己の性質とは正反対の自分を演じていたから。

自分の凶暴性を知りすぎるくらい知っていたから。

だから、彼女にこの想いが伝わってしまったら、無理やりでも、泣かせても、手に入れてしまうかもしれないと危機感を募らせている。

彼女の感情なんか歯牙にもかけずに。

そして、閉じ込めて。

一生、俺だけ見て生きていくように。

永遠に離さずに。

堕ちるところまで堕ちて。



そこまで考えて、蓮はひとつ首を振った。

おれは、慈しみたい。

彼女の笑顔を。

無邪気さを。

その気持ちも偽りではないのだ。

そして、想いにとらわれたまま、身動きが取れない。


限界、は、すぐそばまで来ていた。

彼女の演じるセツにつけられたキスマークが消えてからも、これ以上育つはずもないくらいに膨れ上がった恋情が、さらに生々しさを伴い、溢れだしていく。


大切にしたいのに、できないかもしれない。


「恋っていうものが、こんなに厄介だなんて知らなかったな。」

ふともれた独り言は、駐車場のコンクリートの壁に反射して蓮の耳に届く。


蓮は、思い出す。明日は彼女と事務所ですれ違えるかもしれないことを。

たしか、昨日そんなことを言っていた。


『セツ』だった彼女に、奴からの深夜の電話がかかってきたときの、あの夜のことには、お互い、示し合わせたかのように触れていない。


あえて、触れない蓮と違って、彼女には、彼の行動を問いただす権利がある。

なぜ、あんなことをされたのか疑問に思わないはずがないからだ。

エレベーターで最上階のボタンを押しながら、蓮が、いままで考えることを禁じていたことが頭によぎる。


なぜ、今までどおりなんだろう。


彼女に逆転されるまで、蓮は、確かに彼女を自分のものにしようとしていた。

怒涛のように追い詰めて、問い詰めて、めちゃくちゃにしてしまおうとしていた。

役に入り込んでいた彼女によって、それは未然に防がれたどころか、自分の抱える闇からも救われた。

あとで、猛烈な自己嫌悪に襲われたが、後日、素で会ったときの彼女のいつもと変わらない笑顔に彼が癒されたのも事実だ。

でも、あまりにも自然すぎて、逆に不自然であることに、いまさらながら思い至る。

なぜ、自分は罪悪感を抱え込んでいないのだろう。

闇に、とらわれていたときの行動だったとはいえ、一歩間違えば犯罪行為だったのに。

なぜ、彼女は今までどおりだったのだろう。

純情すぎて、何をされそうだったか気が付いていないのかと考えて、それも不自然だと打ち消す蓮の鼓膜にエレベーターが目的地に着いた無機質な音が響き、我に返る。


どうやら、彼にとって眠れない夜が訪れそうだった。