前置き:松が出ます。いやな人ごめんなさい。
最上キョーコはひとつ心に決めた。
社長にも伝えた。
ずるいことは承知で、蓮には帰国したら伝わるように伝言を頼んだ。
「よし。」
あの日の蓮と交わしたキスが、すべてを変えたのだ。
もう、元には戻れない。
キョーコは生まれ育った町に降り立った。
「一生、仲居づとめ・・・か・・・。」
ショータローにさせられた約束。
恋はしないと誓った自分をキョーコは振り返る。
恋は落ちるものだとは知らなかった。というのは言い訳になるだろうか。
まるで、嵐のように突然さらわれるものだと。
思えば、ショータローのときは、彼を好きになるのは当たり前だった。
誰よりかっこいい自慢の幼馴染で、いっしょに育った。
いつも忙しい母親のかわりにいつもそばにいてくれた。
一緒に笑いあった。
かれの不器用なやさしさが好きだった。
わかりにくいけれど、キョーコが泣いていると、困ったように固まって、そのあと、自分のおやつをこっそり分けてくれたりした。
憎しみにとらわれすぎて忘れていたけれど、確かにそんな日々はあったのだ。
キョーコは、目を閉じると、大きく息を吸った。
「・・・え?なんだって?」
キョーコの幼馴染である、不破尚はレコーディングの途中でかかってきた京都時代のバンド仲間からの電話に驚いていた。
最上キョーコがこっちに帰ってきている。
そう言ったのだ。
『最初別人かと思ったけど、お前のかーちゃんと一緒だったから挨拶したんだ。いやーまさか芸能人になってるとは思わなかったぜ!』
はしゃいだ声で、そう報告する友人が、キョーコを綺麗になってたとやたらにほめちぎっていてむかついたが、とりあえず、適当に返事をして電話を切る。
「・・・んだよ!」
別にキョーコが地元にいても不思議はないが、自分の母親と一緒というのが気になる。
あの日に無理やり言わせた言葉が尚の頭をよぎる。
ああいっておけば、キョーコは意地になってあの男を避けるはずだった。
深夜のつながらなかった電話のあの日からキョーコにはあっていない。
あれから2週間もたっていないというのに、なぜ、京都の実家にいるのだろう。
悪い予感がした。
いてもたってもいられず、尚はスタジオを飛び出していた。
タクシーに飛び乗り、同時に、食事に出ているマネージャーの祥子に抜かりなく電話する。
言い訳は、学生時代によく使っていた母親の病気だ。
蓮は、幾度目かのため息をついた。
いつからこんなに理性の紐はゆるゆるになったのか・・・。
しかも、彼女に自分の気持ちを伝えずに、引き寄せられるままに唇を奪ってしまった。
あの後、帰り道の車内は無言で。
何を言っていいのか、言葉は見つからず、やっと見つかったと思った台詞はありふれていて、気も利いておらず、結局、ぐるぐると言うべき台詞を探しているうち、時間だけが過ぎていった。
いまさらながらに日本語の難しさを痛感したが、目的地に着いてしまったら後の祭り。
彼女も終始無言だった。
嫌われてはいない。
それくらいはわかっている。
彼女は、嫌いな男にあんなふうに微笑みかけたりしない。
やわらかかった唇を思い出すと、少しやばい方向に考えが行く。
健康な成人男性なら当然の反応だが、そんなことばかり考えていると、いきなり、彼女を押し倒してしまうかもしれない。
そんなのは、自分の気持ちを伝えて受け入れてもらってからだ。
帰国したら・・・。
蓮は思う。
帰国したら、この思いを伝える。
少しベタかもしれないが、ロマンチストの彼女のために赤い薔薇を花束にして持って行ってもいいかもしれない。
・・・指輪・・・は、まだ早いか・・・。
彼女の一番で居たい。
そのためだったら、きっとなんでもする。
尚は、新幹線とタクシーを乗り継いで実家に急いだ。
勝手知ったる我が家だ。
裏から顔を覗かすと、ちょうど、忙しい時間なのか都合のいいことに誰もいない。
そうっと忍び込む。
と、とたんに鋭い誰何の声が尚を襲った。
恐る恐る振り向くと、この旅館の女将が侵入者をにらみつけている。
「・・・おふくろ・・・・・・。」
「なんやあ。松太郎やないの。家出ぶりやない?」
家出ぶりなんて言葉があるのか、尚は気になったが、立場的には弱い。
「何しにきたん?もう戻らん言うてでていきはらんかった?」
「・・・おふくろ、すまん!!」
尚は、素直に謝った。
彼女にはこんな場合は素直に謝らないとだめなことを、息子として生まれたときから悟っている。
老舗旅館を切り盛りしている女性なのだ。
ぐだぐだした言い訳をしようものなら、かわいい息子だとて話すら聞いてもらえないだろう。
「ちょっとは、俺も売れてきたからよ、お袋にはちゃんと謝っときたかったんだ。」
家出同然に出て行ったことを。そういうと、女将の険しい表情がやわらいだ。
けれど甘く見てはならなかった。そう、尚は痛感する。
「キョーコちゃんやね。あんたが突然帰ってきはった理由。」
いきなり図星を指される。
洞察力が優れていなければ女将としては失格。
常日頃からそういってはばからない女傑は、軽く目を細めた。
「ここにはおれへんよ。自分の実家にいてはるんとちゃう?」
尚は目を見張った。
てっきり、ここにいるものと思っていたのだ。
彼女が幼いころあまりにずっとここに預けられていたせいで、実家にいるイメージがわきにくい。
「冴菜はんは、今日の夜まで出張やていうてたし・・・。」
ほっと息をついたところを、すかさず母に見咎められ、居心地の悪い思いをする。
「なんで、あんた、あの子を芸能界なんかに入れたん?」
急に話が変わり、戸惑う尚に、容赦ない視線を浴びせたまま、母にしかできない気安さで、彼女は息子を責めた。
「どっかの、あんたよりいい男にひっかかってさらわれるって思わへんかった?」
あんなにきれいに磨かれて。と、母は言う。
「もう、お前じゃだめやわ。あきらめや。」
ついつい、その言葉に反抗心を覚えて、尚は心の中で毒づく。
自分だって芸能人だ。しかも売れている。
何がだめなのか・・・。そして、なぜ、そんなことを言われなくてはならないのか。
答えは、いつも与えられない。
「おい!」
縁側にぼんやり座っていたキョーコは、その声の方を見る。
生垣から、頭一つ出ているショータローがこっちをにらんでいた。
なんとなく、女将さんと歩いていたときに、見知った人間に声をかけられたときから、尚が来るんじゃないかと思っていたキョーコは、自分の考えがあたったことに気をよくした。
にやりと、黒い笑みを浮かべる。
「なによ、ショータロ。」
「尚って呼べ!ショータロじゃ犬見てぇ・・・じゃなくて、おまえ、なんでこんなとこに来てんだよ!!」
「実家にいたら悪いわけ?」
口ごもる幼馴染に、黙ったまま、湯飲みを用意しお茶を入れると手招きする。
「ま、よかったわ。あんたに、謝っときたいと思ってたのよ。」
キョーコはそう切り出した。
いまさら、言葉を選んでも仕方がない。
「ごめん。松太郎。」
尚が、縁側に昔みたいに腰をかけたのを見やり、キョーコは三つ指を突いた。
「わたしは、仲居をできません。」
尚は、頭を下げている幼馴染に目を見開いた。
それが、あの時無理やり約束させたことだと気が付くのに時間はかからなかった。
責めるべきか、ののしるべきか、しかし何にもできずに呆然と彼女のつむじを見つめた。
「あれは売り言葉に買い言葉ではあったけど、一度口に出したことだもの。・・・だから、ちゃんと謝らなきゃいけないと思って。・・・私は一生、演技の世界で生きて生きたい・・・。」
止めるべきだと尚にはわかっていた。
止めれなければ、自分はキョーコを失う。
・・・けれどそのすべは見つからなかった。
彼女はそんな尚を尻目に淡々と言葉をつむぐ。
「わたしが自分で見つけた夢なの。」
急にのどがからからになって、尚は、ゆっくりと湯飲みを口に運んだ。
彼女が顔を上げた。
強い双眸が、キョーコをやけに綺麗に見せていた。
化粧をしていない彼女の顔に見とれたのは、尚は初めてだった。
(こんなにいい女だったか?)
いつの間にか、そこには自分の知らない顔をする幼馴染がいた。
まっすぐに尚の目を見て、その幼馴染は言った。
「わたしは、敦賀さんが好きです。」
かなうならば、と彼女は続けた。
「あのひとのそばにいたい。」
「だから、あんたとした約束は守れません。ごめんなさい。」
「・・・おれ・・・だって・・・おまえのこと・・・好き、だ・・・ぜ・・・?」
けれど、その決定的であるはずの言葉も、彼女の瞳を一瞬揺らしただけだった。
「ありがとう。ショーちゃん。」
その揺れた瞳は、少し潤んでいた。
もうすでに遅かったのだと、尚は自分も急速に潤み始めた瞳を隠すようにうつむいた。
「ばっ・・・!!」
泣きたくなんかなかった。
男の沽券にかかわるし、みっともないところなんか見せたくない。
だから、代わりに悪態をついた。
「ばっかじゃねーの!!!てめえなんてなぁ、あんなゴージャスターとかわけわかんねぇ呼び方されてる奴に、選ばれたって、すぐにポイされるかもしんねーんだぞ!!!」
「・・・うん。知ってる。」
不安にならないといえばうそになる。
自分を好きになってもらえる自信もない。
けれど、引き寄せられるように交わしたキスが、キョーコの気持ちを固めたのだ。
自分は、後戻りできないほど彼のことが好きだと。
・・・たとえ、彼にえらばれなくても。
なにしろ、隠れ遊び人の疑いが濃厚な人だ。
あんな、唇を合わせただけの子供みたいなキスなんて、きっとしなれている。
それでも。
自分の気持ちからは逃げることはできない。
キョーコは、過去に終わりを告げにきたのだ。
前を、向くために。
それから、しばらく、昔に戻ったみたいな時間をすごし、尚は実家へと帰っていった。
実は、キョーコは、まだ母親と会っていなかった。
椹に提出した休暇届は3日分。明日までしかない。
事情を話して延長を申し出ようか。とも思ったが、もう彼は帰国したのだろうからぐずぐずしていたくなかった。
(せっかく決心したんだもの。)
時間をかけても思いは変わらないだろうが、きっと言い出しにくくなる。
母親はちょうど入れ違いのようなタイミングで出張に行っていたようだ。
そうとわかったのは、いつも彼女がスーツケースをおいていたところにうっすら埃の跡が見えたからだが、変わらない置き場所に、ふと懐かしさがこみ上げる。
驚いたのは、キョーコの部屋がそのままだったこと。
もう、とっくに片付けられているものと思っていた。
めんどくさかっただけかもしれない。
けれど、キョーコにはまだ、ここに居場所があるといわれているようで不思議だった。
(明かりがついている家を見たら、お母さんどんな反応をするかしら・・。)
たとえそれが無関心でも、怒りでも、なんでもいい。
置手紙だけで出て行ったことを謝って、いま何しているか話して。
・・・許してもらえなくても。
そう思っていた。
キョーコが夕飯の支度をおえ、自室で思い出の品を眺めていると、玄関の鍵が開く音がした。
きっと母親だと思ったが、それにしては派手な音が聞こえた。
何かが割れる音もする。
(もしかして、泥棒!!!)
母親だったら、もっと静かに帰宅しそうなものだ。
ちゃんとしていないと、だめな人だから。
キョーコがそう思って身構えた瞬間、ばたばたと騒々しい足音がして、キョーコの部屋のふすまが外れそうな勢いで開いた。
そこには髪を振り乱し、慌てたような顔をした母親が立っていた。
ぽかん。と、キョーコはそんな乱れた母親の様子にあっけに取られた。
靴は片方履いたままだし、荷物を乱暴に置いたのだろうか、スーツのジャケットの襟は肩からずり落ちていた。
「おかあさん・・・。」
母親のそんな慌てた様子を見たのは生まれて初めてで、キョーコは練習していた挨拶も忘れ、ただただ驚いて名を呼んだ。
そんな娘に、冴菜は無言で近づくと、立ち上がったキョーコの頬を思い切り平手ではたいた。
「・・・こんの馬鹿娘!!!」
たたかれた頬に、手を当てたままキョーコは母親を見てもっと途方にくれてしまう。
彼女は泣いていたのだ。
くしゃりとキョーコの顔もゆがんだ。
そのまま、母親の腕につよく抱きしめられる。
「おかあさん、ごめんなさい・・・。」
ふたりして泣きじゃくりながらも、キョーコは繰り返し繰り返しそうつぶやいていた。
いつの間にか、静かに雨が降り出していた。
次でラストです。