「おれは、おまえが好きだ。」


静かにその台詞が響く。

キョーコは、無言でゆっくりと瞬きをした。

二度。

三度。



「なんとか言えよ。」

無愛想な表情の中で、その目だけが真剣にキョーコを映していた。

まさかこんなに直球で来るとは予測していなかったため、彼女は言葉を捜しあぐねていた。

からかわれるか、厭味を言われるか、いろいろなパターンを想像していた・・・けれどこんな展開は考えていなかったのだ。


「・・・何を言えって言うのよ?」

キョーコがやっと声をだしたのは、注文したミルクティーが目の前に来たときだった。

「なんで、いまそれを言うの?」


「困らせたいからだ。」

椅子に、どちらかといえばだらしなく背中を預けて、尚は視線を彼女の左手の指輪に落とした。

傷ついたような色を宿した瞳がキョーコから反論の言葉を奪う。


「・・・いつもみたいにののしれよ。ったく、調子狂うぜ。」

ガシガシと乱暴に頭を掻いて、尚は気まずい沈黙を、どうしていいかわからないまま目の前のコーラに手を伸ばす。

グラスに付いた水滴が、コースターに滴るのそのままをぼんやり見ていた。

「調子が狂うってのは、こっちの台詞よ!」

尚は、いつも自分の後を付いてきた幼馴染の少女を思い出していた。

目の前のこいつは、その少女のはずなのに。



地味でつまらない女だったはず。


なのに。



昨日、ぼんやり見ていたテレビ画面の中で、あのいけ好かない男の胸にまっすぐ飛び込んでいった。

それを見た瞬間、尚は愕然としていた自分に気が付いたのだ。



自分が、思ったよりショックを受けていることに。


それは誰よりもよく知っている女で。

ずっと自分のものだと思っていた。


ちょっかいをかけてきていたヤローで、唯一脅威だと思っていた男は海外に行き、彼女の近くにはいない。


キョーコは恋なんかしないと事あるごとに公言していたというのに。



―――あっさりとつかまりやがって。


理不尽だとは理解している。けれど、何もしないまま、指をくわえて見ているだけ、は、性に合わない。


「・・・なぁ、好きだ。」



キョーコは、数年前には心から望んでいたシチュエーションにこんなに戸惑うことになるなんて信じられずにいた。


もちろん、心が揺れることは想定していた。

でも、こんな嵐の真っ只中みたいな奔流だとは。


考えがまとまらずぐちゃぐちゃになる。



やつの思惑どおり、困りたくなんかなかった。


なのに、実際は困惑の嵐の中に放り込まれている。


好きだという言葉に、すこしでも嘲りやからかいの色が見えたなら、こんなに困惑しなかっただろう。

けれど、付き合いの長い彼女にはわかる。


松太郎は真剣だ。


真剣に好きだといっている。

プライドなんか捨てて、彼なりに、他の男を選んだ女に真剣に想いを告白している。


こんな真摯さを茶化すことなんて出来ない。


キョーコは深呼吸をひとつした。


「・・・幼いころ、あんたはあたしの世界のすべてだった。」

ほかに、何も要らなかった。

彼のためなら何でも出来た。

自分を押し殺して、そばにいるために、そのためだけに時間を費やしていた。


結局、その思いは届かなくて。

捨てられたと恨んで、憎んだ。

愛情の分だけそれは強くて、制御できないくらい膨れ上がっていた。


そして、復讐を目標に掲げて芸能界に飛び込んで。


ある日、気が付いたら、自分の夢が其処にあった。

生まれて初めて、誰かのためでない自分のためにする努力が楽しかった。



今ならわかる。

松太郎に捨てられたのは自業自得だ。

というより、捨てられたと思うほうが間違っていた。


彼のために自分を捨てて尽くした思っていたが、その行為はただの自己満足に過ぎなかったのだ。


彼に選ばれるのが、どんな女性か知っていたのに、自分を磨くこともしないでただ一方的に想っていただけ。

こうしていれば、きっと自分を選んでくれると思い込んで、すべてをささげていた。

ささげていたというより、押し付けていたといったほうが正しいのかもしれない。



あのころの自分が、間違っていたことを認めるのは苦しかった。

きっと、針を一万本飲んだほうが楽なんじゃないかと思えるくらいだった。

身勝手に理想を押し付けていたことを。

捨てるとか、捨てられるとか、そんな関係ですらなかったことを。


そんな真実はあまりに残酷で、認めるのには時間がかかった。



けれど、現に、いま、この状況が、あのころの自分が間違えていたことの証拠だ。


幼いころ、焦がれて、焦がれても手に入らなかった言葉。

それをいま告げられている。



もちろん、松太郎も悪い。

キョーコが自分を好きだと知っていて、嫌われたくなくて必死だった彼女を利用していたのだから。


彼女が勘違いすることがわかっていて、ずるい言葉を使った。

けれど、あのころでもキョーコは心のどこかで気が付いていたのだ。


まったく女として見られていないことに。



その現実にふたをして、みないようにしていただけで。


「だけど、いま、私の世界にはたくさんの大切なものが出来たの。」


キョーコは背筋を伸ばした。

射抜くような強い光を宿した瞳を、まっすぐに向ける。


「あんたが、あのとき私を捨ててくれたこと、感謝してる。」

そうでなければ、親友や、夢や、大切な人たちに出会うこともなかった。


蓮に出会うこともなかった。


恨みやわだかまりは、まったくないといったらうそになるけれど、どんなに心の中を探っても、感謝のほうが強い。

不思議なことに。




尚ははっきりと痛み出した胸を押さえる。

憎しみを向けられているときには気にならなかったのに、彼女を傷つけたあのころの自分を殴りたくなった。

いきがった青二才だっただけ。といえばそれまでだ。


与えられていた愛情を当然とばかりに甘受していた。

尚にとっては、キョーコがそばにいて愛情を与えてくれるのは当然で。

なくして初めて気づくなんて間抜けなことを自分がするなんて思っても見なかった。



粉々なプライドをかき集めて、ようやく尚は片頬に笑みを浮かべた。

これでよかったのだ。

そう思える日がきっと来るはずだ。

今は無理でも。



「・・・おれじゃなくて、あいつを選ぶなんてお前趣味わりぃよ。」

「・・・うっさい!ばかショー!!!」





店の店員が、そっと彼らの席に近づき、尚に耳打ちをした。

一瞬、尚の顔がこわばる。

「どうしたの?」それを見咎めたキョーコが首をひねる。

尚は思わず舌打ちした。

そういえば、こいつは今や時の人だったと妙に納得する。



「表にカメラマンが張ってるらしい。」

「・・・・・・げ。」

キョーコの顔が引きつるのを見て、一瞬、写真を撮られて騒がれるのもいいかもしれないと、尚は決して褒められることではない考えがよぎるのを止められなかった。


「あんたと週刊誌に載るなんて嫌よ。」

あることないこと書き立てられて、過去も穿り出されるかもしれない。

スキャンダルというのは、得てして残酷なものだと理解している。


「・・・あんまり、歓迎できる状況じゃなさそうだ。」

どう考えても、密会だとかなんだとかしょうもないタイトルをつけられて、三流記事にされるのが落ちだ。

弁解は出来るだろうが・・・。


「やつ、呼べ!」

「え?!」

「どうせ、近くにいんだろ?」

戸惑うキョーコに、尚は嫌そうにその名前を口にした。


「な、なんで?」

「おまえ、おれと写真撮られたいのかよ?」

「・・・死んでも嫌よ!」



携帯電話に手を伸ばし、電話をかけ始める幼馴染を頬杖をついて見守りながら、尚はぼんやりしていた。

どうやら、自分は生まれて初めて振られたらしい。

しかも、キョーコに。


そして、意外にダメージは深いらしい。


認めるのはくやしいが、いい女だ、と思う。

いい男の横にいても見劣りしないくらいのオーラがある。



「・・・十分くらいでつくらしいわ。・・・て、なによ。ずっと見てたの?」

「・・・ああ?自意識過剰じゃねぇ?」

いつもどおりの会話。

狙ったとおり、憎まれ口の応酬が始まる。


そうでもしていないと、尚は泣いてしまいそうになる自覚があった。

それこそ、冗談じゃない。

そんな格好悪いまねなんかしてたまるか。

そう決心すると、奥歯を噛み締めた。




こつん。

テーブルを軽くたたく音がして、尚とキョーコはふたり同時に振り向く。

「やぁ。相変わらず・・・みたいだね。不破君。」

そこに、蓮が微笑みながら立っている。


少なくとも、表情は微笑みだ。


背後のオーラは暗雲にしか見えないとしても。


「オヒサシブリデス。ツルガサン。」

ついつい、台詞が棒読みになる。


「君の言うとおり、表に”BOOST”の記者がいたよ。しっかり撮られた。」

キョーコの隣に座りながら、蓮はちらりと入り口のほうを見やる。

「よく、気がついたね?」

「ま、ここ、知り合いの店なんで。」

尚は無愛想に、氷が解けて薄まったコーラをストローでつつく。



「ここは、サービスで殴り合いとかして見せたほうがいいのかな?」

ふふ。と、まんざら冗談とも思えない口調で言われて、尚は盛大に顔を引きつらせた。


殴り合いじゃなく一方的に殴られている図が尚の脳裏を駆け巡る。

リーチの間合いを比べても勝ち目はなさそうだ。

即座に白旗を揚げる。

「あ、おれ、痛いの苦手なんで。」


「そうなんだ?まぁもちろん冗談だけどね。」


表面上はにこやかに会話しているが、周囲の気温は一気に下がっていた。

見るとキョーコも引きつった顔をしている。

考え直すようキョーコに言うべきか迷ったが、後が怖いと、尚は思い直した。


(こいつを温厚とか言った奴は目が腐っているにちがいねぇ・・・。)

もちろんキョーコを筆頭に。



その、キョーコは冷凍庫の中のほうがマシなんじゃないかと、蓮から漂う冷気に視線をあらぬ方向に泳がせていた。

前から気がついていたが、蓮と尚は犬猿の仲らしい。


たぶん尚が初対面でけんかを売ったのが原因だろうと推測していた。


蓮は、尚の名前を出すたび不機嫌になる。

今だって、漂う冷気の中になんかバチバチと火花が見える気がする。


(・・・触らぬ神にたたりなし。ね・・・。)

いっそ空気になれないかと無駄な努力をしていた。


キョーコはそれもこれもどれもが、自分が原因だとはいまだ思いつきもしていない。


(・・・そういえば、これ、変な構図よね・・・。)

自分と蓮と、松太郎が同じテーブルについて他人から見たら和やかに(?)話をしている。

が、違和感はぬぐいきれない。

(あれよね・・・お姫様をめぐって戦う二人の騎士とか当てはめてみたらどうかしら・・・。)

キョーコはなんだかよくわからないいたたまれなさに思考が勝手に妄想を始めた。



人はそれを現実逃避という。



(敦賀さんなら甲冑とか似合いそうだけど・・・尚が騎士って・・・木こりとかにしとこうかな・・・。斧とかもたせて・・・よく衣装で毛皮着てるし・・・。)


キョーコがそんな感じで空想の世界に逃避しているのを尻目に男たちはここからどう出て行けばあほらしい状況から抜け出れるか話をしていた。


知られざる三角関係とか書かれてもうっとうしいのはお互い一致している。

「・・・だろうな。」

「それが一番まともな方法か・・・。」



次にキョーコが現実に戻ってきたとき、男たちはうなづきあっていた。


「それでいい?」

蓮に聞かれて、キョーコはうなづいていたが、表情からあっさり聞いていなかったことがばれる。

焦っているキョーコに思わず苦笑すると、蓮はその長い指でくしゃりと柔らかなキョーコの栗色の髪をなでた。

キョーコが一番好きな蓮のしぐさだ。

尚が居ることも忘れて、彼女ははにかんだ微笑を蓮に返した。



完全に二人の世界に入りつつあるカップルを、尚は砂を吐く勢いで眺めた。

振られたばかりの男の前でいちゃいちゃするなんて、嫌がらせの域に達しているとしか思えない。


蓮が説明を始める。

要は、変な捏造が出来ないような構図で三人で写真を撮られること。

カメラがいる場所の説明だけでキョーコは自分の立ち位置を把握したようだった。


店の前で立ち話をして、そのあと、尚とは別の方向にふたりが歩き去る。

そんな段取りだ。



「さて、そろそろ行くか。」

尚が立ち上がり、伝票を手に会計に向かうと、それはすでに蓮によって済まされていた。


ソツのない紳士っぷりに、完全に男として負けっぱなしな気がして尚は顔にこそ出さなかったが、どっぷりとひそかに落ち込んだのは言わずもがなである。


店を出ると、カメラに気がついていない振りで予定通り立ち話をする。

仲のよい友人同士という雰囲気。

もともと、演技は素人の尚だが、普段のキャラをクールな感じで作っているため、あまり表情を変えたりせず相槌を打っているだけで充分だった。


「じゃ。」

蓮が、片手を挙げ、尚に別れの挨拶をする。


尚は右手を拳にして突き出した。

蓮がかすかに驚いた顔をする。


そのあと、にやりと笑みを浮かべると、同じように拳を突き出し、こつんと尚の拳と合わせた。

視線が一瞬ぶつかり合う。



「じゃあな。ツルガサン。」

尚はさっさと背中を向け、振り返らず立ち去った。





「敦賀さん?」

一緒に歩きながら、キョーコは無言のままの蓮を見あげた。


蓮は、自分の拳を見やる。

最後のあれは、自分に送られたエールな気がしていた。

キョーコを頼む。と言われているような。

そして、泣かせたりしたら承知しないというような。

(・・・やきもちとか焼いてる場合じゃないか・・・。)

彼女を大事にしないと、それこそ馬の骨として徹底的に邪魔してやるよ!という宣戦布告だとも感じたのはあながち外れてはいないだろう。




(ぜったいに泣かさないと誓う。)

むかつくことに、今の彼女があるのは、彼がいたからでもあるから。


「なんでもないよ。」

キョーコにそう返事を返しながら、蓮はふたたび自分にそう誓った。






ペタしてね



なんか、中だるみしてきた気がします。