夢を見た。

抱きしめられている夢だ。


間違いなく夢で、誰も責めるわけにはいかなかった。

キョーコは、だるまやの2階で、いつもの布団で目覚めた。

夢なんて、覚えていないことが多いのに、なぜかやけに鮮明で。

しっかりと覚えているところがたちが悪い。



ぬくもりも、香りも。
妙にリアルで困った。

過去に、決して色っぽい意味ではなく、その腕に閉じ込められたことはある。



それを、なるべくなら忘れたいと、思い出さないように努力しているというのに、眠っている間は制御が効かないのだ。

記憶をなぞるように、その光景は、何度も夢の中に侵入しては、キョーコの心の中に居座っていることをアピールしている。



昨夜の夢の中では、ここの布団の上で抱きしめられていた。

生活臭が漂っているこの部屋が、彼ほど似合わない男などいないというのに。

キョーコをその腕で囲って、いとしいものを見るあの目つきで。

抱きしめられて、近づいた唇と吐息で目が覚めた。



キョーコは、身震いすると、己の心の中の箱にその感触をしっかりと閉じ込め、鍵をかけた。

そのままじっと、目をつぶり、平常心が訪れるのを待つ。

今日は仕事で会うというのに、こんなに心が乱れていてはだめだ。



間違っても気が付かれたくない。

…この想いには。




香水のCMのオファーがキョーコに舞い込んできたのは、ひと月前だった。

相手役を知っていたら、きっと断っていたはずだ。



自分の中の感情に、名前を付けたくなくて未だあがいている最中だったから。




まだコンセプトも決まっていないと聞かされていたが、実は、本当はすでに決まっていたのではないかという一抹の疑いがキョーコにはあった。





なにしろ、その話を振ってきたタレント部の主任・椹の背後に、やたらにやついた社長が文字通り見え隠れしていたのだから。



キョーコが、役によってそのイメージを変える、その姿が、香水のイメージにぴったりだというのが抜擢の理由だった。


そこを評価されるのは、とてもうれしい。

だから、香りを気に入ったことも相まって、一も二もなく引き受けた。


トップはユニセックスな、むしろ、さわやかな香りだが、ミドルからは、その人の体温や体臭で劇的に変化していく。

キョーコがその香水のサンプルをつけてもらった時は、2時間くらいで甘すぎない柔らかな香りになった。

ちょっと高価で普段だったら躊躇する値段だったが、初めて自分で買って身に着けたいと思う香りだった。



契約書にサインをし、捺印して、その直後、この仕事が単独ではなく相手役がいることを知らされた。




それが蓮であるのを知ったのは、CM撮影が3日前に迫った時だった。

そして、その時、CMのコンセプトも知らされた。



香水の名前で察するべきだったのだ。

amor verus” ラテン語で真実の愛だなんて。

キョーコは、ラテン語には詳しくなかったし、気になって、香水の名前をインターネットで検索し、意味を知るころには後の祭りだった。



CMのスタッフから渡された絵コンテに目を通した瞬間、愛をずっと否定してきたキョーコが軽く絶望感を味わったのは仕方がないだろう。





タイトルは監督の手書きであろう殴り書きで、二人の出会いと恋に落ちた瞬間。とあった。

キャッチコピーは『運命を知る香り』



神様は残酷だ。

うだうだ考えていても時間だけが過ぎていく。






撮影に入る前に、打ち合わせで顔を合わせても、決して妙な態度や醜態を見せず、平常心を保てた自分をキョーコは自分でほめたたえた。

リハも、何とか乗り越えた。


そして今からは、いよいよ本番である。


救いがあるとすれば、二人の絡むシーンはさほど多くないということだろう。

たいていはすれ違い、お互いを目で追うという場面ばかりだ。

意図的に追わないようにしている姿を追いかけるのは、ある意味苦痛だが、それは演技だ。

それで感情を吐露することにはならないし、万が一、気持ちが入りすぎても、熱の入った演技になったと思えばいい。



だから、きっと大丈夫だ。

過信ではなく、そう信じていた。



唯一の誤算は、蓮に視線で追われるということがどういうことか、頭で理解していたということだろう。



最初は雑踏のシーンから。

絵コンテでは、自宅で香水を体に纏う場面が挿入されるが、これは後からスタジオで別撮りになるのでまずは街中ですれ違うシーンの撮影だった。


蓮と、いつもどおり、先輩後輩として挨拶をかわす。


「いいお天気になってよかったですね。」

「そうだね。ちょっと暑いけど、でも、これくらいのほうが、絵コンテ通り、抜けるような青空を撮れるしね。」

空を見上げる、その蓮の横顔を見てしまわないようにキョーコも空を見上げた。


空が高い。

「熱射病には気を付けないと・・・ですね?」

「そうだね。」


そうこうしているうちに、時間となり、それぞれ立ち位置でスタンバイする。


(最初は私の香水の香りに、敦賀さんが振り向くシーンから…か。)


すれ違った女性の香りに惹かれ、後姿を追う男性。

視線を感じて振り向いた女性と、一瞬目が合う二人。

(一目ぼれの瞬間を、無表情で表現するのよね…敦賀さん)


どんなふうに演技するのか。

目を合わせるのが一瞬なので、キョーコは映像をチェックするときしか見ることはできない。

けれど、いつもどおり、彼の演技を見るときのわくわくがこみあげてくるのを彼女は感じていた。



撮影は順調に進んだ。

何度か、お互いを見かけるシーンの撮影を続ける。

カフェや、横断歩道。お互い誰かと一緒の時もあれば一人の時もある。

いつも一瞬目が合い、そしてすぐそらされる。

そんないくつかのシーンを撮り重ねる。

短いシーンだが、衣装替えを繰り返しながら、あっという間に半日が過ぎた。



そのあいだ、キョーコの心の中には嵐が吹き荒れていた。

ただ、すれ違うだけだというのに、一瞬だけしか合わせないその視線が熱を帯びていく。

蓮の視線を感じるたびに、自分がコントロール出来ない気分を味わう。


蓮の視線を感じ、自分だけを見つめてくるその瞳に信じられないことに、陶酔している。


これは演技だ。

何度言い聞かせても、その視線の強さが、素の自分に向けられているようで。

(だめよキョーコ!!気をしっかり持つのよ!!)


それでも、まるで甘い毒のようにじわじわとそれは彼女を侵食する。



蓮が見つめているその視線の甘さが、演技ではないことを望む自分がいる。


絶対にそんなわけないのに。




カットの声がかかり、休憩をはさむ。

その前に、今の画像をチェックすることにした。


共演者たちとともに監督のもとへ向かうと、蓮もそこにいた。

キョーコをみて、一瞬その目が熱を帯びたと感じたのは、己の希望だろう。とキョーコは思った。

(もしくは光の加減ね…。)


「思ったよりいい絵がとれたよ」

監督は、ホクホク顔でディスプレイに表示された画像を再生する。

「敦賀君はさすがだね。」


キョーコも、蓮の隣に並び、画面に視線を固定する。



そして後悔した。



モニター越しに見ても、それは強い視線だった。


最初のシーンで、男は、香水の香りをたどり、彼女を見つける。

わずかに見開かれた瞳。

彼女とすれ違いながらも、目が離せない。

彼女が視線を感じて振り向くと、男は、目があったことに動揺して視線をそらし、そして、別々の方向へ歩み去る。


蓮は、その、出会いの衝撃を、わずかに開かれた瞳と、かすかに乱した歩調だけで表現していた。


それから、町ですれ違うたびに強くなる募る想いを視線だけで伝えている。

目をそらすタイミング。

彼女の後姿を見つめる時間。

いつの間にか詰めていた呼吸を吐き出す瞬間。



それらすべてで、彼の心の流れを表していた。



そして。


キョーコは自分自身を、モニター越しに眺めて、己の感情がだだもれであることに唇をかんだ。

画面に映し出されているそれに、誰も気が付かないことを必死に祈る。

(大丈夫。これは演技。・・・だから大丈夫。)


気が付かれていたなら、蓮のマネージャーの社がもっとリアクションしているはずだ。

きっと、気が付いていれば、乙女のようにキラキラくねくねしている。

聡い社が気が付いていないのだ。

きっと蓮も気が付いていない。


そのまま、演技だと思っていて。


キョーコは、笑顔の裏で、心からそう願っていた。


惹かれていく演技としては正解でも、明らかに、演技ではない感情が自分を支配している。


恋などしないと誓ったはずの自分が、けれど、焦がれるように画面の中で男の姿を追う。

そっと、ばれないように。



(この人、存在そのものが詐欺罪だわ…。)

キョーコは独り言ちた。

本気で、彼女を追いかけているように見える。


(絶対、演技なのに。)

その瞳の奥が、真剣な色をたたえているから。

(本気で、私を見つめているように見える・・・。)



一方、蓮は、今日は、ただの先輩後輩としてしか挨拶を交わしていない想い人をうかがった。

彼女と共演ということで、半ば強引に、社に確保してもらった仕事だ。


けれど今は一方的に翻弄されている。


否が応でも、視線が彼女を追う。

その一瞬をカメラがしっかりと押さえている。


彼女が振り向いた瞬間のわずかに開いた唇を、あさましくなぞる視線さえも。


必死に演技で取り繕っているが、自分の視線が餓えた獣みたいだと思わずにいられない。


(気づかれてないよな。)

コントロールできない獣を。


彼の中に誰を見ているのか彼女を問い詰めそうになる自分自身を。


演技というには、彼女の視線は、熱を持ちすぎていて。

彼女の中に存在しているだろう”影”を疑わずにいられない。


誰よりやさしくしたいのに、時折、ひどく肩を揺さぶって、こっちを向いてほしいと懇願したくなる。



愚かだと嗤われるだろうか。



(・・・こんなこと思っているなんて知られたら・・・)

きっと一目散に逃げられるだろう。


自分は果たしてそれに耐えられるだろうか。


けれど、いい先輩面もいい加減限界で。


こんなに我慢が効かないのは、昨夜の夢が原因かもしれない。


彼女が腕の中にいた。

ただひたすら甘く。

甘く、ささやいて。

微笑む彼女を、腕の中に閉じ込めて。



口づけをしようとして、目が覚めた。



目覚めた瞬間に、もう一度同じ夢を見たくて寝ようとしたが時間がなくて断念した。


たとえ、夢の中でも、彼女に触れたいと願うのは罪なのか。

したくをしながらも、つい恨みがましく考えてしまったのは仕方がないだろう。


現実の彼女には、嫌われたくなくて、触れることすらできないのだから。



この後、絵コンテでは、ワンカットだけ、恋人のようにむつみあうシーンがある。


(・・・こんなんで、理性持つかな。俺。)

ポスター撮りは、そのシーンの撮影よりさらに密着度が増すが、動画ではない分、感情の入る余地は少ない。

これから、いよいよ正念場だと、蓮は気合を入れなおした。









                                             続く





久しぶりに書きました。

あまりの長さに、投稿できなくて文章を分けましたw


とりあえず、暇がほしい今日この頃。多忙のあまり妄想している余裕がありませんでした(。-人-。)


わたくしなどにアメンバー申請していただけているすべてのかたに愛と感謝をヾ(@^▽^@)ノ


                                           うるる拝