しばらく日本にいた蓮は(かなり名残惜しそうに)再びアメリカに行った。
1週間ほど向こうで滞在して、また帰国する予定だ。

しばらくはこんな風に慌ただしく行き来するらしい。

そんな折、キョーコは、事務所の応接室へ社長に呼ばれた。
もう少しセキュリティのしっかりしたマンションへの引っ越しを勧められたのだ。

ひとり暮らし用の部屋ではなく、提示されたのは高層マンションの最上階。
しかも以前彼が住んでいたような、最上階はワンフロアで一世帯分しかない高級物件に微妙な意図が透けて見える。
「・・・これって・・・。」
「うん・・・?」
社長のニヤニヤ顔が見ていられずに、キョーコはテーブルに広げられた間取り図に再び視線を落とした。
「二人で・・・ってことですよね・・・?」

確かに、これから日本も拠点にするなら彼だっていつまでもホテル住まいというわけにはいかないだろう。
だからと言ってこんな風にお膳立てしてもらうのも少し違う気がする。

「嫌か?」
「・・・いえ、嫌っていうわけじゃなくて・・・。」
そうなのだ、キョーコとて嫌なわけではない。
けれど。
「いいアイデアだと思ったんだがなぁ。」

一週間おきくらいに日本とアメリカを行き来するのに、蓮のために部屋を管理する人間を置くよりは、ずっと合理的でもある。
それは理解できなくもない。
それに、一緒に住むということに心惹かれることも事実だ。
ホテルだと外食に偏りがちだが、一緒に住めば食事もしっかり管理できる。

でも、婚約したとはいえ、結婚前だ。

キョーコはしばし、自分の中で納得できる理由を探して考え込んだ。
何かが引っかかる。
基本的に社長は、こんな話を強引に進める人間ではない。


なにか理由があるはずだ。

「まぁ、俺もちょっと強引だとは思うがよ。・・・でも、わかるな?」
そのもやもやを悟られないように視線を間取りに固定していたはずなのに、聡い社長にあっさりと看破される。
「・・・はい・・・。」

今までの自分の部屋や、蓮の滞在していたホテルでは、どうしてもセキュリティは甘い。
だが、この申し出を断るのは、わがままなだけだとわかっていても、素直に頷けない気持ちもある。
そんなこと社長にはとっくにお見通しだろう。

そして、それを曲げても・・・と社長は言外に伝えている。

キョーコは心を決めて静かに頷いた。
「わかりました。・・・で、いつ・・・?」
「今日。確か、オフだったな?あとで、うちの者をやらせる。大事なものだけ自分で荷造りして、あとはそいつらに運ばせてくれ。」
「はい。・・・で、このこと、敦賀さんには・・・?」

「あいつは、もう知ってる。鍵も渡し済みだ。」
本当は2人そろっているときに話すつもりだったと社長は苦笑した。
ちょうど、その話を持ち掛けようとしたときに、蓮から、同じことを頼まれたのだ。
”いずれ、彼女も住める部屋を探してほしい”と。
彼女には折を見て話すつもりだと言っていたが、それは社長が止めた。

この時点で一緒に住むことを提案したのは社長の独断である。
蓮に否やはあろうはずもなく、そのまま話はとんとん拍子に進んだ。

古風で自立心の強い彼女が、そんな急な話に素直に頷くはずもない。
だが、自分から持ち掛ければ話はスムーズにいくかもしれない。
ローリィにはそんな思惑もあった。

そして、ローリィがこんなに急いでいたのには、彼女が考えた通りもう一つわけがあった。
その理由はすぐに判明する。

隠しているとためにならないと、社長はキョーコの前にいくつかの写真を見せた。
蓮には話していないと前置きされ、見せられたその写真にキョーコは愕然とする
「大したものではないが、さすがにこれは・・・な。」
キョーコが自宅マンションに出入りするところや、洗濯物を干しているところ。買い物している風景や日常生活を映した数枚。
その中には、どこから撮ったのか室内が見えるアングルもある。
どれも完全にプライベートだ。
「昨日、ある雑誌社からうちに持ち込まれたもんだ。」

いくらプライベートを切り売りする職業とはいえ、これは酷い。
パパラッチというよりストーカーに近い。

かすかに血の気が引いた顔でキョーコはその写真を眺めた。

「ノミネートでこれだ。蓮が受賞なんかしてみろ。もっと加熱するのは目に見えてる。」

「・・・・・ありがとうございます。社長。」
キョーコは静かに頭を下げた。

「うん?」
「・・・私が、このお話に頷いてから、この写真を見せてくれたことです。」
それは、彼女に対する信頼に他ならない。

彼女が、最初にその写真を見たら、一も二もなしに頷いただろう。
けれど、社長は敢えてそうしなかった。

彼女なら、きっと、自分の意図を酌めるだろうと思ってくれたことが、キョーコは単純に嬉しかった。
微笑みを浮かべる彼女を、ローリィは目を細めて見つめた。

愛を否定していた少女。
自分の入社の基準には全くと言っていいほど達していなかった。
それでも磨いてみたいと思わせた片鱗。

頑なに愛なんて信じない、忌まわしいとまで言っていた。

信頼されていることを素直に受け入れ、穏やかに受け止める今の姿からは想像ができない。

今まさに花開こうとしている、そんな彼女にローリィは破顔して見せた。

「よし。最上君!ついにラブミー部卒業だ!」
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・は?」
思わぬ宣言に、キョーコの顎は落ちた。
ぷりぷりっとかわいらしくほほを膨らませた、孫さえいる壮年の紳士を愕然と見やる。
「なんだね、その顔は・・・まさかまたもう卒業したと勝手に思っていたのかね?」

最近はラブミー部の仕事はとんと無く、女優の仕事ばかりだったためうっかりそう思っていたのだ。
「羽ばたけ!愛の使者プロジェクト(ハート)は頓挫していたわけじゃないぞ!」

うきうきとしだした社長に、悪い予感を覚えながらもキョーコはいつものやり取りに、ふっと微笑む。
すっかり慣れたこんなやり取りが妙に落ち着く。

「なんだ、ずいぶん余裕だな?最上君。」
「・・・・え・・・・。」
「なんか企画考えちゃおうかなぁ。」
「や、やめてくださいね!スケジュール一杯なんですよ!」

ぎゃいぎゃいとした騒ぎは、業を煮やした椹主任の乱入により更にカオスと化すが、それはまた別の話である。



そのまま、あわただしく引っ越しを終えた、その日。
広い部屋には、家具はほとんどなかった。
その何もない床に、ただだらんと寝そべりながらキョーコは、天井を見上げる。

社長は、帰る間際になってから、思い出したかのように蓮の伝言を伝えた。

『一緒に選びたいから、帰るまで待ってて』

当座必要な物だけは運び込んだ。
ひとりで広い部屋にいるのは、どうも落ち着かない。

一週間が永いだなんて思ったことがなかったのに。

ここには、蓮の気配がない。
まだ自分の気配も感じず、馴染めない。

一度目の引っ越しは、家出同然に出てきたとはいえ幸せの予感にただウキウキとしていた。
二度目は、ただ、怒りだけがあった。
三度目はそれより穏やかな希望に満ちていた。仕事も軌道に乗り、下宿して迷惑をかけずにいるには、あまりに時間も不規則となってきたための決断だった。

今度は、全く違う人生を踏み出すために。
その第一歩目としては、こんな風なのはすこしさみしい。

広い窓から当たる日光に反射する埃をながめ、うだうだしていたキョーコはいきなり何かを思いついてガバリと起き上がった。

「大女優への第一歩、てことでもあるのよね。」
この広い部屋。
ぼんやりと眺めているうちに、何度か行った昔の彼の部屋を思い出した。
テレビでも大女優のお宅訪問なんかでは、無駄に広い部屋が映し出されていた。

そう思えば、先ほどまでのさみしさは消え、代わりにみなぎるのは何が何でも素敵な部屋にしたいという希望だ。

「ふふ。そう考えると俄然やる気が出てきたわ。」
キョーコは鞄の中から間取り図を出す。
「部屋割りは、二人で考えるとして。」
その中で、自分の城となるはずのキッチンを整えよう。そう決心したのだ。
やることをきめたキョーコはいそいそとキッチンに向かう。

そして妄想の翼を羽ばたかせ始めた。




蓮が短いメールの着信音に気が付いたのはシャワーを浴びた後だった。

タイトルは『引っ越し完了しました。』

相も変わらずの業務連絡調な文章に漏れるのは甘い微笑み。
あなたがいなくて寂しいとかくらい少しは言ってほしいが、そんなことを言われたりしたら仕事なんてほおってしまいそうになるだろうからちょうどいいのかもしれない。

電話をしても大丈夫かと、時差を計算する。
無性に声が聴きたい。

スマホの画面をタップし始めたとき、もう一件のメールが来る。
タイトルはないそのメールを開くと、短い文章だけ。

『キッチンは私のものにします。ではお仕事がんばってください。おやすみなさい。』

どうやら先手を打たれたようだ。
おやすみなさいとメールされたら、声が聴きたいなんて言い出しづらい。

それにしても。
蓮は笑みを深くする。
この計画を社長から聞いたとき、もしかしたら怒られるかもしれないと思っていた。
大半は社長のたくらみとはいえ、蓮も敢えて止めなかったのだから。

外から見ただけだがあの彼女のアパートでは、すこしセキュリティに不安もあった。
マンションの入り口はオートロックだったが、そんなものは住人の後について入れば何とでもなってしまう。

だからと言って、こんなに急いで引っ越させることまでは考えて居なかったが、社長はそうではなかったようだ。
おそらく、何かあったのだろう。
急がなくてはいけない何かが。

彼女の反応は考えたが、まず、怒られるか断られるかだと思っていた。
帰国してから説得するために、いくつか策も練っていた。

”キッチンは私のものにします”だなんて、そんな宣言が来るとは思わなかった。
そんなちいさなわがままが愛おしい。


ただの先輩だったころは、小さなわがままをかなえる機会すら与えてもらえなかった。
そう思うと、ひどくくすぐったくなる。

返信の文章はすぐに浮かんだ。
これを見たら彼女はどんな反応をするだろう。
赤く染まった頬で、照れるだろうか。
それとも、怒るかな。
それを思い浮かべながら、甘い微笑みはさらに蕩けるようなものにかわった。


『いいけど、そのかわり帰ったらキスをしてください。では、おやすみなさい。』


「・・・・やっぱり、あのひと、タラシだ・・・。」
社長の国籍不明の秘書セバスチャン(命名:キョーコ)に付き添われて、家具や小物を見に来ていたキョーコは、そのメールを確認して店舗の通路にがっくりと座り込んだ。

膝に顔をうずめていたため、誰にも表情はうかがえなかったが、メールを見た後、いきなり蹲った彼女のその耳は確かに赤くなっていたと、セバスチャンは彼女の謎のつぶやきとともに社長に報告した。
はた迷惑なラブモンスターは、それを聞いてニヤリと笑ったとか笑わなかったとか。







☆いや、書いてたらこんな話になっていました。
最初は違ったはずなのに、おかしいなぁ。そうだ!これはラブモンの仕業に違いないですw