床に落ちるかすかな水の音で、レンは目覚めた。

冷たい石造りの床に座ったまま、どうやら背を壁に預けてうとうとしていたようだ。

汚物と黴臭い臭気があたりを支配する中、嗅ぎなれた松明の匂いも漂っている。
少し目が慣れると、レンは、頭上高くにあるはずの小さな明り取りの窓の格子を見上げた。
外の気配は夜。
月明りはないから、新月か曇り、あるいはその両方だろうか。

特に傷痕のある足が引き攣れて、ひどい痛みがあった。
ゆっくりと曲げ伸ばしをする。
優しく手でマッサージをくわえると引き攣ったその部分の疼きが柔らかくなっていく。
しばらくそうしていると、血行が回復したのか鋭い痛みが、ゆっくりと消えていた。
夜は冷えるが、旅装で取り上げられたのは武器のみだったため、温かい外套に包まれることができるうえ、古い毛布も与えられていた。
雨がしのげる分、臭いさえなんとか我慢すれば、野宿よりも獣に襲われる不安がない分ましだろうか。

目線は格子の向こうの入り口にむかう。
鉄の格子を抜けてもその先には、さらに重厚な鉄の扉がある。
さらにレンであればかがまなくてはならないくらいの低い天井と、人ひとりしか通れない細い通路や階段を長く進まなければ、地上には出られない仕組みになっている。
簡単な仕掛けだが侵入も脱出も困難な造りであり、この城を建設した先祖をレンは少し恨んだ。
武器を振り回すには狭すぎて、入り口を警護している私兵に見つからず抜け出すのは無理だったし肉弾戦にも階段の下方からというのは不利だ。
まさか、実家にたどり着いた途端にこんなふうに地下牢に入るとは思ってもみなかったため心の準備は全くしていなかった。
拷問されてないだけましなのだろうとは思う。

地下牢での生活は単調だ。
外の様子をうかがい知ることはできず、唯一できることは、小さな明り取りの窓から差し込む日の光の移り変わりから昼か夜か推察するだけである。
昼間の時間には、騎士団で行っていた基礎訓練と体術を念入りに攫った。
なるべく、普段通りの生活を送る努力をすることで、レンはこの単調さと戦っていた。

動かずにいて、身体をなまらせるわけにはいかなかったし、足の筋力に左右差がある今は、簡単な動きでさえ違和感が残る。
そんな状態ではいざというときに後れを取ることになるし、そんなことはレンの自尊心が許さなかった。

普段より丁寧に動きを攫うことで、失った筋力を取り戻すとともに、正気を保つ。

捕虜になった時の訓練が、まさか実家で活かされようとは思ってもみなかったが、何も知らない少年のころであれば、とっくにみっともなく叫びだしていたかもしれなかった。
いまはまだ3日しかたっていないが、じりじりと焦燥感がこみあげてくる。
焦りは、悪いことしか生まない。

レンは胸元の隠しから、そっと折りたたんだ布を引き出した。
あの別れ際にもらったハンカチだ。
隅にしつらえられた丁寧な刺繍をなぞる。
彼女の面影をなぞるように。

ゆっくりと心が落ち着きを取り戻してくる。
今は時期を待たねばならない。
彼はハンカチを再び丁寧に隠しに戻すと、時期を待つために目を閉じ、思考の波に突入した。



しばしの時間が過ぎた後、狭く重苦しい鉄格子が作る空間に靴音が響いた。
この時間に尋ねてくるのは、古くからこの家に仕える家令だ。
昔から、余計なことは一切喋らなかった実直な男だった。


昔より老けて、どうやら関節痛も患っているらしく、よく自分の変形した手をさすりながら来ているその姿に、レンは思わず、昼の暖かいうちに来たらと提案したが、親切心からの提案は律儀な本人によってにべもなく断られた。
今日は足取りも軽いようで階段を、いつもよりは律動的にに下りてくる。


その足音にほっとしながら、つむっていた目を開け、何時もどおり表情を消して顔を上げたレンは、そこに予想外の人物を見つけて固まった。

其処に居たのは、たおやかな肢体を包む普段着すら特別なものに見せてしまう女性だった。
佇まいはすらりと優美で、成人した子供がいるようにはとても見えない。
女神のようだと例えられた美貌は、年齢を重ねることによってさらに輝くものらしい。
みずみずしさではなく、しっとりとした艶を帯びて昔よりさらに妖艶という言葉が似合うその造作にレンはしばし見入った。

「どうしましょう。私の命はあと5分しか持たないわ。」

その花の様な唇から洩れた言葉に一瞬対応できなかったのは、決してそのせいではない。

「・・・なぜ、でしょうか?」
レンから発せられた問いは、ややかすれた。
昔よく聞いた懐かしい口癖に、こみあげたものをうまく処理できなかったのだ。

「罪悪感、よ。仕方がなかったとはいえ、愛しい息子をこんな場所に迎え入れなければならなかったから。」
はらはらと流れ落ちる涙を隠そうともせず、彼女は牢のカギを開けた。

無防備に泣く彼女の姿を見て、レンは動揺した。
最初にかけるはずだった言葉は、何だったのか思い出せもしない。
「っ、母さま・・・・」
思わず幼い時のままの呼び名で呼んでしまい、さらに涙が止まらなくなった母を、レンは慌ててなだめる羽目になった。

完全に調子を狂わされたレンは、結局、いきなり地下牢に入れられた理由を問いただすこともできず、母の言われるままに湯あみをし、渡された着替えを見に纏うまで動揺したままだった。

身体にぴったりとした、上質な装いは、その服が一流の仕立て屋であつらえたものであることの証明だった。
最近は実用的な服装しか纏わなかったレンはいささかの居心地の悪さを覚える。
貴族たちが好んで複雑な結び方をする首元のクラバットも、一番単純な結び方で整えたが、その無頓着さも逆にレンを貴公子然と見せていた。

母譲りの美貌が、通りかかるメイドたちを陶然とさせていた。
ふだんは、雑に扱っている髪も、下僕の手によって整えられている。

歩行はやや片足をかばうようにしているため、足音が不協和音を奏でていたが、それがなければ完璧すぎて人間には見えなかったかも。とは、上階の若いメイドのセリフである。


母親の居間をノックして、レンは声をかける。
「入って。」
懐かしさがこみあげてくるのを、抑えきれず、ドアノブを持つ手が震えるのをレンは止められなかった。
子供のころ、よく、乳母の目を盗んでこうして母の部屋へ忍んできたものだった。
貴族の子は、乳母に育てられるのが慣例だというのに、誰より美しい母は、その白い手が汚れることもいとわず、共に遊んでくれたものだった。
母の、鈴の音の様な笑い声を聞くと、何より幸せな気持ちにになったものだ。

そんな日々が続いていくはずだった。

不意に訪れた感傷の強さに、レンは胸を抑えた。
このドアの横にある小さな傷は自分がおもちゃを投げて付けた傷だ。
よく見れば、あちこちに幼かった自分の痕跡がある。

ドアを開けると、変わらない光景が広がっていた。
いつも、こんな風に立ち上がって、幼い自分を部屋に招き入れてくれた。

「よく、顔を見せて。・・・クオン・・・いいえ、いまはレンと名乗っているのよね。」
「・・・・!」
驚きを素直に顔に出した息子に、彼女は近づいた。
「その名前を知っていたのが意外?ここは王都から離れているとはいえ、私たちにも目も耳もちゃんとあるのよ。」
小さくすねた口調で、彼女は指を振った。
そんな小さな癖も、何もかもが変わらない。

ここは、出て行った時のままだ。

母の少し体温の低い指が、レンの頬をなだめるように撫でていく。
「ずいぶん背が高くなったのね。・・・おかえりなさい。クオン。」


彼女は思い出す。
ここを出て行ったとき、彼はたった15歳の少年だった。
大人びては来ていたが、まだ線は細く、顎の線も丸く、幼さをにじませていた。
だが、その瞳だけはぎらぎらと陰りを浮かべ、まるですべてを消し去りたいとでもいうような闇をにじませていた。
あの時、すべてに絶望して、酷く暗い瞳をしていた少年は、穏やかな表情でここにいる。
5年という歳月、会えなかった日々。

ずっとずっと何があったのか、彼から聞きたかった。
近衛騎士団に入ったのも、数か月前に起こった水害の時に何があったのかも、知ってはいるが、彼がどんなふうに思っているか、どんなふうに感じたかはわからなかった。

あの、出て行った時の暗い焔のようなままではないだろうか。

心配のあまり、何度も何度も王都に行こうとして、そのたびに愛する夫に止められ、何度も夫をなじった。
息子を殺した罪で裁かれるというなら、自分も同罪だというのに、今度の罪で裁かれるために王都に召喚されたのは夫だけだった。
それにはかなり不満で、国王に文句の一言でも言いたいとも思ったが、彼女には領主の妻という仕事があった。
異例ではあるが、夫が外出している間は領主代理でもある。
領主代理は通常であれば家令が務めることが多いが、高齢なため、最近では彼女がその役割を果たしていることが多い。

領民の生活に責任がなければ、とっくに王都に向かっている。
いっそ、体が二つあればいいのに。と、どれほど願ったか知れない。
身が引き裂かれるような思いをするのは、あの5年前の出来事だけで十分。
もう二度とあんな思いはしたくなかった。



国王の呼び出しでも拒否することはできる。
仮にも公爵であり、それが許されるくらいの権限はあるのだ。
だが、夫は国王から届いた招待状に同封された親書に目を通すと、一晩何か考えていたが、翌日には出立の準備を整えていた。
親書は出立の前に彼の手から直接彼女に渡された。
彼女は目を通してから、すぐにそれを暖炉で跡形もなく燃やした。

親書の内容を理解したときから、彼女はここに絶対に残らなければならなくなった。

どんなに心が引き裂かれそうでも。


感動の再会の最悪なタイミングを作った奴らに呪詛の言葉を心でつぶやきながら、彼女、ジュリエナはもう一度息子の頬を撫でる。

運命が動き出す。
せめてもう少しだけ、この喜びに浸れる時間が欲しい。
そうして、彼女は口を開いた。