このブログを更新するのは随分久しぶりだ。
「基本的にオナニー。」それが僕の人生で書いてきた文章全ての代名詞だ。
さて、今日のブログタイトルは「思考くんと感情くん」
これはコーチングをやってる中学の同級生とのセッションで出てきた言葉だ。
特に深い意味はなく、ただ言語を巧みに使う思考と馬鹿だけど大きなエネルギーを持つ感情を短い言葉で表現するためのラベルだ。
でもこの言葉が今回のセッションの最重要な言葉だったと終わってみて思う。
かつての自分はとても素直だった。
美味しい物は美味しい。不味い物はまずい。好きなものは好き。
自分が感じるがままに従い物事を評価し、執着してきた。
けども、故に多く傷ついてきた。好きなものを素直に好きだと感じるからこそ多く苦しんだ。
だが、年を取る中で様々な事を学び疑問に思うようになる
「不味いと感じていたものは本当にまずいのか?」「好きなものは本当に俺を幸せにするのか?」
思考はそういった疑問に答えを出しながら、ズタズタに傷ついた感情を守る方法見つけた。
それが「素直に生きる=幸せではない。認知に仕方を変えて積極的に幸せを獲得していく」という生き方だ。
そして、それはかなり素晴らしいものだった。
これまでの人生にないほどの精神の安定と幸福を手に入られた。
だが、その反面大きな問題が生じた。
思考くんは感情くんの精神が既にズタズタな事実を知っている。
だから決して素直に生きないようにと徹底的に監視するようになった。
しかも思考くんは感情くんよりも遥かに頭がいい。
だから、感情くんが言う事は全て簡単に否定できる。
「金持ちになりたい」と言うと「君は金持ち=幸せだと思ってないかい?別に金持ちになっても幸せになるとは限らないよ」
「有名になりたい」と言うと「いや、有名=幸せだと思ってない?色々大変だからそんなことないよ」
そんな風に合理的に言いくるめる。
けども、本当にそれでいいのだろうか。
確かに素直な感情で生きてきたことで苦しんできた。
けども、ズタズタだったあの頃の感情と一緒なのか?
思考が親なら感情は子だ。
子が耐えきれないほど大変な思いをしていたら保護してあげるのは親の役目である。
だが、ある程度時間を経て元気になったの子を、様々な経験ができる野へ放つのもまた親の役目であろう。
思考くんは確実に感情くんを守り、成長させた。
そろそろ感情くんを野へ解き放ち自律させる時ではないのか。
そんなことに気が付いたよね。