だだっ広くて薄暗く、トレーラーと貨物しか見当たらない殺風景な船の入口。作業員が利用するような狭い階段が一ヶ所だけあったのでそれを昇って行くと、所々に椅子と小さなテーブルが置かれた広いスペースに辿り着いた。そこには乗客と思しき人々がいたが、10人もいない。とりあえず無作為に選んだ席に腰を掛けたが、しばらくすると乗客のうちの一人の老婦人がやって来て、何やらトルコ語で話しかけてきた。老婦人はドイツ語もできるようだったが、こっちがムリなのでコミュニケーションができない。切符を見せろと言っているようなので見せると、彼女は近くの昇り階段を指差し、僕の客席はここを上がった上の階だと言う。親切に世話を焼いてくれているのか、ここは等級の低い座席チケット(高いのか低いのかは知らないが)を持つ者がいるべき場所じゃないからとっとと去れと言っているのかは、あまり豊かでない彼女の表情からは読み取れなかったが、とにかく会話ができないなら彼等といても、一人でいてもあまり変わらないので、上階の客室へと向かった。

しかしその客室、中に入ると綺麗に誰もいない。椅子こそ沢山あるが、実質僕の個室。

何だか密航者になったような気分だ。椅子は一個一個離れているのでベッド代わりには使えず、リクライニングもできないので、僕は薄い絨毯の床に横になり、エミルさんからもらったピスタチオを夜食にしながら出港を待った。そうこうしているうちに出港時間から30分が過ぎたが、全く動く気配無し。心配になって船室を出て周囲を歩き回るうちに操舵室に辿り着いたが、全く人影は見えず、絶望で一瞬倒れかけた。

やがて一時間が経過しようとする頃、廊下でたまたま船員を一人見つけたので聞いてみると、出港は夜中か翌朝ぐらいだと。ホントにこの船は北キプロスに行くのか? 仮に行くとしても、普通のフェリーだとここからは10時間はかかると言うし、翌朝7時に出港するとしたら現地着は夕方だ。着くはいいが観光できる時間があまり無い。不安はまだ拭えないが、少しでも気を紛らわそうと、バスタオルを布団代わりに横になる。そうこうしているうちに夜は更けていき、僕も疲れが来たのかそのまま眠ってしまった。

翌朝5時頃、一瞬目を覚ました僕が船室の窓から外を見ると、船は大海原を進んでいた。何とか動いているようだ。出港を確認する前に寝てしまったので、いつ出たのかはわからない。そして行先もどこなのかまだわからない。その後しばらく寝たり起きたりを繰り返しているうちに、前方に陸地が見えてきた。

着いたのか?

 

船はゆっくりとその陸地の港に向かっている。港の近くを一隻の小型艦艇が横切ったが、その船体には「KKTC」の文字が入っていた。トルコ語の略称で北キプロス・トルコ共和国を意味する所、間違い無く北キプロス海軍の掃海艇だ。ということは、遂に北キプロスに着いたのか? 今は朝の9時。この船は予定より三時間遅れの夜12時頃に出港していたようだ。

 

この船には車両用出入口しか無いので、接岸後もトレーラーと一緒に降り、未知の国、北キプロスへの第一歩を踏み締める。降りてすぐのイミグレでパスポートを出すと、有無を言わさず入国スタンプが捺された。北キプロスは現在トルコしか承認しておらず、国際的には未承認国家。このスタンプがパスポートにあると、対立関係にある南側のキプロスやギリシャには入国できなくなると聞いたのだが、特にギリシャに行く予定は無いし、しょうがないかという感じで先に進んだ。船の乗客はこの国の人なのか、こちらに親族や知り合いがいるトルコ人なのか、出迎えの車に乗ってさっさと街の中心へと消えて行ってしまった。

 

ここは海の玄関口であるギルネという街に間違い無い。荷物を背負って徒歩で中心部に行こうとしたが、海沿いはどこも軍用地らしく、街中まで抜けられる道を見つけるのに少し苦労した。軍用地を抜けた向こうは道路を挟んで左右に広がる林の中に高級そうな別荘が点在するエリアだった。軽井沢辺りに迷い込んだような雰囲気だが、街までどう行くのか。途中運良く一軒の売店を発見。アイスでも買ってから、お店のおばさんにキレニア城、つまりギルネ最大の名所のある方向を聞けたのでとりあえず安心して歩き出す。
 この島は平地がほとんど見つからないぐらい土地の起伏が激しく、上ったり下ったりが続く。僕が先程いた別荘地はやはり高台にあったようで、視界の開けた場所から見下ろすと、巨大な箱型をしたキレニア城の城壁が見えてきた。