(トルコ・北キプロス旅のレポートですが、今回は一瞬だけ入国した南側、キプロス共和国のレポートをお送りします。南側はEUにも加盟したヨーロッパ文化圏なので、本編はアジア旅レポ番外編となります)

 

北キプロス側のイミグレを過ぎ、アジアからヨーロッパへのワープトンネルとも言うべき細い道を通り抜ける。南側には係官が一人立っており、パスポートの見開きページを一瞬確認しただけで、通れの手振りをした。こ、これがEUか。頭ではわかっていてもアジアではまず無い入国プロセスにかなり戸惑った。え、もういいんですか、と係官の近くにちょっとの間立ち止まってしまった。入国スタンプしないのはわかってたけど、北側のスタンプの有無も確認しないんだ(ま、北側から来たんだから調べるまでも無いが)。何だかこのグリーンラインを超える前に抱えていた心配事がバカバカしくなるぐらいのあっけなさだった。

視界が開けた所に見えたのは一面ギリシャ語の世界。青を基調としたいかにも西洋なオープンカフェ始め、スタバやケンタッキー等、見覚えのあるお店も並んでいる。いろいろ垢抜けた街の雰囲気がちょっと眩しい。ここが南キプロスの首都ニコシアか。

普通に想像するヨーロッパの街並みが右にも左にも広がっている。

路地裏に入って見つけた洞穴のような教会に入ってみると、壁から天井にかけ、ギリシャ正教の聖人達の精密な壁画がびっしりと描かれていた。

カッパドキアで見た洞窟教会はこれら壁画の大部分が剥げ落ち、色あせた遺跡であったが、こちらは今も人々が祈りを捧げる場所。かつてはトルコ各地の遺跡の教会もこんな感じだったのだろう。

やや大き目の教会にも入ってみた。壁は一面金の装飾が張り巡らされ、枠の中にはキリストやマリア、聖書の物語を描いたイコンと呼ばれる聖画が飾られていた。荘厳かつ華やかであり、さすが現役で活躍する教会である。

そこには一人の老人が座っており、僕に英語で話しかけてきた。どこから来たのかと聞くので日本だと答えると、遠くを見るようにその青い目を細め、ほとんど独り言のような口調でボソボソと何か言っていた。戦争中の話をしているようだったが、それ以上のことは聞き取れなかった。日本に落ちた原爆のことを気の毒そうに話しているようにも、本人が過去の戦争で日本人に酷い目に遭わされたと話しているようにも聞こえた。真意はわからなかったが、話が一段落ついた所で丁寧に挨拶した僕は教会を後にした。

その教会からさほど離れていない場所にモスクを見つけた。最近までトルコ人がいた名残とも言うべき建物だが、意外にもきれいにしてあった。高い天井を眺めながら中を見学していると、導師と思しき男性が声をかけてきた。彼はトルコ人ではなくパキスタン人だった。今もトルコ人がここに来るのか聞くと、管理運営者含めほとんどが外国人モスレムだが、ほんの僅かながらトルコ人もいるらしい。彼は僕が日本人とわかると、3.11の震災被害のことを慰る言葉をかけ、その上でこう言った。

「震災がいつどこで起きるかは誰にもわからず、全ては神の意思。我々は残念ながらそのわけを知ることはできない。ただ起こったことを受け入れ、また立ち上がらなくてはいけない。」
ま、そうだよね。誰にもわからないし、遭ってしまったらそこから立ち上がるしか無いもんな。いざ被害に直面したら、イスラム教徒のように神の意思だからとサラッと受け入れるのは難しいとは思うが。いや、彼等だってサラッとは無理だろうなぁ

 

もう一度南北境界線の辺りに戻った。付近にはギリシャとキプロスの国旗が並ぶ構図が目につき、境界線沿いにギリシャ軍の検問小屋が至る所にあって緊迫感漂う。

ギリシャ国旗の配色である青白縦縞の小屋には数カ国語でうるさいぐらいに撮影禁止と書かれている。撮影するなよ、絶対するなよ、と言われるとちょっと冒険してみたくもなり、一瞬の隙を見てシャッターを切る。もちろん小屋に兵士がいないのは確認済だったが、近くにでもいたら結構やばかった。

こうして歩いてみると、グリーンラインには朝鮮半島と違って緩衝地帯など無く、ごく普通の街中を塀で二分していることがわかる。ベンチの背後に高く積まれた土嚢の向こうはすぐ北側だし、あるビルは南側に面していながら出入口は塀の向こう、つまり北側にあった。地元民は超えられない壁が生々しくそこにある。

そう言えば北側と少し似ているなと思ったことが一つあった。それは外国人の居住者らしき人々が目立つこと。アジア、アフリカ、ヨーロッパの接点であるこの島はもとより周辺各国の人々が行き来しており、冷戦時代は米ソのスパイ戦の舞台としてしばしばこの国名を聞いたことがあった。この小さい街には、お店数軒単位で世界各国の小さなコミュニティが点在している。インド人がちらほら見られる一郭にはインドのスター歌手のライブを知らせるポスターが貼られ、ある生活用品店では貼り紙もチラシも全てルーマニア語だった。かと思うと野菜や乾物を売るある店では店員も客もみんなフィリピン人だったりする。西欧を目指す人達が物価やビザ面で住み易いこの島に一旦留まっているのだろうか。

 

各国の雰囲気漂う店舗を覗いて歩いているうちにいつしか旧市街から出てしまった。そこには電光表示で南キプロス各地の行き先が記された立派な路線バスが発着していた。

北側ではドルムシュしか見当たらなかったが、南北では経済的にも大きく差が開いているようだ。白い壁を飾り立てるように咲き乱れる薄紫のブーゲンビリアだけが元々南北が同じ都市であることを語っているのだが、それ以外はもはや共有できているものは無いように見える。

両国の指導者を選ぶ選挙の時、候補者は強権的か民主的かではなく、統一推進派か慎重派かという括りで紹介される。両国共に統一推進派の政権になれば対話も始まるのかも知れないが、そこがいまいち噛み合わないので現状のままである。だがお互い心底統一を願っているのだろうか? 共存していた時代を記憶している世代や、生まれ故郷を追われた人達はもう一度かつての時代を取り戻したいと思うのだろうが、北側は豊かな南側の恩恵を受けたいから統一を願っていないか? 南側はマジョリティとしてトルコ系住民を支配下に置く形での統一を願っていないか? 統一の向こうにある思惑がそうであるのなら、このまま別々の独立国でいる方が幸せのような気もした。もちろんあくまで通りがかりの戯言である。

 

長く歩いてちょっとカフェで座りたくもなったし、途中見つけたCD屋で現地ポップスに触れてみたくもなったが、ユーロを全く持たずに興味本位でやって来た僕にはそれができない。腹も減ってきたのでそろそろ北側に戻るとするか。初めてEUに足を踏み入れた僅か三時間の南旅であった。